説     教    イザヤ書6章1〜5節   ヨハネ福音書17章1節

「御子の栄光」

2010・10・03(説教10401344)  預言者イザヤにとって、万軍の主なる神の栄光は、それを垣間見た者がその御威の輝きに打 たれて虚無に帰してしまうほどのものでした。事実イザヤは「聖なるかな、聖なるかな、聖な るかな、万軍の主、その栄光は天地に満つ」と呼ばわる御使の声に接し、天の栄光の一端に触 れたとき怖れてこう叫んだのでした。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたし は汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の 主なる王を見たのだから」。  そのイザヤが垣間見た神の「栄光」と同じ言葉が、今朝のヨハネ福音書17章1節に現れて いるのです。すなわち主イエスがこう仰せになったことです。「これらのことを語り終えると、 イエスは天を見あげて言われた、『父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわ すように、子の栄光をあらわして下さい』」。ここで主が言われた「あなたの子があなたの栄光 をあらわすように」とは「あなたの栄光をあらわすために」という意味です。  主イエスは16章までの“決別の説教”に続いて、この17章では“決別の祈り”を献げてお られます。十字架を目前とされたこの最後の祈りの中でこそ、主は「あなたの子があなたの栄 光をあらわすために、子の栄光をあらわして下さい」と祈られたのです。それではこの「父な る神の栄光」そして「御子なる主イエスの栄光」とはいったい何でしょうか。この大切な問い を解く鍵は、この“決別の祈り”の最初の言葉にあるのです。すなわち「父よ、時がきました」 と主イエスが祈られたことです。  そこで「父よ、時がきました」と主イエスが祈られた、その「時」とはどういう「時」でし ょうか?。それはご主イエスが十字架におかかりになる「時」のことなのです。私たちの「罪」 のために贖いの死を遂げたもう「時」のことなのです。つまり主イエスはご自分の全てを贖い として献げたもう十字架の「時」が来たことを知られ、そこで私たちの救いのため、全世界の 救いと祝福を祈られたのです。  すでに私たちは同じヨハネ伝13章の冒頭において、主イエスのご生涯そのものを現す大切 な御言葉を聴きました。それは13章1節です。すなわち「過越の祭の前に、イエスは、この 世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、 彼らを最後まで愛し通された」とあることです。そこにも「この世を去って父のみもとに行く べき自分の時がきたことを知り」とあります。  もともとのギリシヤ語では「時」という字は2つあるのです。ひとつは時計で測れる普通の 時間をあらわす“クロノス”という言葉、もうひとつは時計や私たちの尺度ではあらわせない、 神の定めたもうた特別な時を意味する“カイロス”という言葉です。主イエスにとっては「時」 とはまさしく“カイロス”のことでした。これは言い換えるなら、主イエスは永遠の昔からす でに十字架を私たちのために背負っておられたということです。ヨハネ黙示録が告げているよ うに「世の始より屠られ給ひし神の羔」であられたのです。つまり主イエスにおいて、永遠か ら定められた「神の時」がこの歴史の中に実現した(あらわされた)のです。それこそが「父 よ、時がきました」と主が言われたことなのです。  そういたしますと、私たちはそこに驚くべき事実を見いだすのではないでしょうか。それは 今朝の17章1節の御言葉において主イエスは、ご自分が十字架におかかりになる「時」と「神 の栄光」をひとつの出来事として語っておられるということです。これは冒頭に読んだイザヤ 書の告げる「神の栄光」と矛盾しはしないでしょうか。イザヤにとって「神の栄光」はその御 前に立つ者が無に帰するほどの圧倒的な輝きでした。しかし今朝の御言葉で主イエスが言われ る「神の栄光」また「御子の栄光」は、最も恥辱に満ちた十字架の「時」とひとつの出来事な のです。これを私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。  宗教改革者マルティン・ルターは、イザヤ書6章における「神の栄光」と十字架における主 イエスのお姿、この2つは対極にあるように見えるけれども、実はこの対極の中にこそ福音の 「恐ろしいばかりの真実」があると語っています。私たちが福音の力に打たれるのは、実は栄 光と恥辱という正反対に見える2つの出来事が同じ唯一の神の上に起こった出来事であるこ とにあります。これをルターは「十字架の福音」と呼びました。この「十字架の福音」にのみ 私たちの救いがあるのです。  そこで、今朝のこの17章1節が告げている驚くべき「十字架の福音」はなにかと言えば、 それは天地万物の創造主にして歴史の唯一の主であられる神が、御子イエス・キリストにおい て限りなく低くなられ、私たちと同じ人となられ、私たちの「罪」のどん底において、滅ぶべ き私たちの重荷のいっさいを担い取って下さったという事実なのです。まさにこの十字架によ る罪の贖いの出来事を主イエスは「神の栄光」また「わたしの栄光」とお呼びになるのです。 これを驚かずして何を驚くのでしょうか。この世界におけるあらゆる“宗教”は超越的な近寄 りがたき神の存在を説くものです。しかし聖書においてはそうではないのです。まことの神は いと高き聖なるかたであると同時に、歴史において限りなく御自分を低くせられ、私たちのた めに生命をお与えになったかたなのです。そしてその十字架の出来事をご自分の「栄光」と呼 んで下さるかたなのです。だからこそ主は言われました「父よ、時がきました。あなたの子が あなたの栄光をあらわすように(あらわすために)、子の栄光をあらわして下さい」と。  父なる神の栄光と御子イエスの栄光、それは本来ひとつのものです。預言者イザヤが畏怖し、 モーセが足から靴を脱ぎ、地にひれ伏した絶対的な栄光です。しかしその栄光は同時に十字架 において私たちの救いのため肉を裂き血を流して贖いとなられたあの十字架のキリストの御 姿なのです。ここに私たちを本当に救う福音の「恐ろしいばかりの真実」があるのです。  主イエスが言われる「栄光」とは、私たち全ての者のための“救いの出来事”そのものなの です。永遠の昔から、天地創造の以前から、三位一体なる神の永遠の交わりの内にあった限り ない愛の御心が、御子イエス・キリストによって歴史(私たちの現実)のただ中に現されたの です。それが主イエスの言われる「栄光」の意味であり、「父よ、時がきました」と主が言わ れるその「時」なのです。  十字架は今日では女性のファッションアイテムにさえなっています。クリスチャンでない人 でも十字架のアクセサリーを身に付けます。少しも悪いことではありません。クリスマスの飾 りと共通点があるのです。しかし本来の十字架は、主イエスのおられた当時の世界における最 も残虐な刑罰でした。それは神に呪われた滅ぶべき罪人の死の「しるし」でした。だから主イ エスの時代には十字架のアクセサリーなど考えられもしなかったのです。それが今日では、教 会の塔の先端に掲げられるものになりました。ここにキリストの教会がある。ここにキリスト の福音が宣べ伝えられているという確かな「しるし」となったのです。それはなぜでしょうか。 それは本来は呪いと刑罰の「しるし」でしかなかった十字架を、御子イエスみずから私たちの ために担って下さったことにより、それは全世界の人々にとって真の救いと祝福の「しるし」 になったからです。最も忌み嫌うべき「しるし」であった十字架が、最も大きな祝福と恵みと 救いの「しるし」となったのです。  だからこそ私たちは、まさにその生と死の転換点、そして祝福と呪いの転換点に、現実に呪 いの十字架を罪きままに背負われ、私たち全ての者のために贖いの死をとげて下さったかたを 仰ぐのです。そのかたこそ「わが主キリスト」と信じ告白するのです。私たちの救いはキリス トの十字架によって保障されたのです。キリストがご自分の「時」を知られ、その「時」を迎 えて下さったからです。そして「世にいるご自分の者たちを愛し、彼らを最後まで愛し通され た」かただからです。だから私たちはこのキリストを信じる信仰によって何の価もなきままに 義とされ、救われているのです。まさにキリストの「栄光」は私たち全ての者のための十字架 の出来事なのです。  この新しい一週間の初めにあたり、私たちは「御子の栄光」という救いの保証を戴いている のです。その恵みに押し出されてこの世の旅路に遣わされてゆくのです。言うなれば主はその 「栄光」によって私たちにオリエンテーションをして下さったのです。オリエンテーションの 本来の意味は「キリストを迎える」ということです。どうか私たちは変わることなく十字架の 栄光のキリストのみを仰ぎ、讃美し、私たちの生活の中心にお迎えし、真の礼拝者、また真の キリストの弟子として成長して参りたいと思います。