説     教    歴代志上28章20節   ヨハネ福音書16章29〜33節

「共にいます神」

2010・09・26(説教10391343)  旧約聖書の歴代志上28章20節に、イスラエルの王ダビデがその子ソロモンの神殿建築事業 に際して語った言葉が記されています。「あなたは心を強くし、勇んでこれを行いなさい。恐れ てはならない。おののいてはならない。主なる神、わたしの神があなたとともにおられるからで ある。主はあなたを離れず、あなたを捨てず、ついに主の宮の務めのすべての工事をなし終えさ せられる」。  この言葉は同時に、ダビデ自身の日々の祈りでもありました。全てにまさって主なる神への礼 拝が正しく、力強く献げられるように。そのためにこそ自分の全生涯が用いられ、いつも主の御 業に雄々しく仕えるものとなるように、ダビデはいつも祈り続けていたのでした。そのダビデの 志は子ソロモンにも受け継がれてゆきます。ソロモンはダビデの信仰を受け継ぎ、幾多の困難の すえ立派にエルサレム神殿建築を成し遂げるのです。これが神の民イスラエルの実質的な出発点 となるのです。  私たちにとっても、信仰の志、主キリストに結ばれた者の喜びと幸いが、世代を超えて生き生 きと受け継がれてゆくことが、教会にとってとても大切なことではないでしょうか。スペインの バルセロナに“サグラダ・ファミリア”という大きな教会が建設されています。ガウディという 人が設計した教会で、工事は今から100年前に始められました。完成までにはあと200年以上 かかるそうです。眼に見える教会堂の建設でさえそうなのです。  それならば私たちも、それに遥かにまさる遠大な“主の御業”に関わっているのではないでし ょうか。私たちのこの葉山教会も11年前に新教会堂の建築を経験しました。つい先日にはメン テナンス工事を主に献げることができました。しかし教会を建てたもう主の御業は眼に見える建 物の完成だけでは終わらないのです。教会の建設は何よりも信仰の建設であらねばならないので す。  キリストに贖われた者たちの信仰の喜びが漲り溢れ、その喜びと幸いが次世代の人々にも生き 生きと受け継がれてゆくこと。そしてキリストに結ばれ、救われた者たちの勝利と平安の歌声が ここにこだますること。そこにこそ教会建設の本当の意味があるのです。その意味で私たちは“主 の教会建設”の手を休めてはならないのです。建物の完成やメンテナンスで終わってはならない のです。葉山教会の建設事業はむしろこれからが本番です。先立ち行きたもう主の御跡に心を尽 くしてお従いせねばなりません。信仰の兜の緒を締めねばなりません。私たちに与えられた責任 を果たさねばなりません。そのような主にある聖き志をもって、新しい一週間を過ごしたいと思 うのです。  そこで、我らの主イエス・キリストは、この主日礼拝において、私たち一人びとりに今朝のヨ ハネ伝16章33節の御言葉を語っておられるのです。「これらのことをあなたがたに話したのは、 わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気 を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。  これは14章1節から続いてきた主イエスの「決別の説教」の締めくくりの言葉です。そこで 改めて16章29節以下を見ますと、この「決別の説教」を聴いた弟子たちの反応として、特に 30節に「このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」と 応えていることがわかります。つまり弟子たちは主イエスの「決別の説教」に対して「イエスは キリスト(救い主)なり」という心からなる信仰を告白していることがわかるのです。主イエス の説教が弟子たちに信仰を呼び起こしたと言えるでしょう。  ところが、そのような弟子たちの熱い反応に対して、なぜか主イエスは冷水を浴びせかけるよ うなことをなる。それが31節以下です「イエスは答えられた、『見よ、あなたがたは散らされ て、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきてい る』」と言われたのです。これを聴いた弟子たちは驚いたことでしょう。自分たちは熱き思いを もって信仰を告白しているのに、主イエスはまことにつれない返事をなさる。喜んで褒めて下さ るどころか「あなたがたは、今は信じていても、まもなく迫害者によって散らされて、わたしを 捨てて逃げてゆくであろう」と言われる。これは弟子たちには不本意なことであったと思うので す。「主よ、そんなことは決してありません」と叫びたかったに違いないのです。  しかし聖書の御言葉は、まぎれもなく数日ののち、弟子たちに起った事実を私たちに告げてい ます。あのペテロをはじめとして弟子たちはみな、十字架の判決が下された主イエスを見捨てて 逃げ去ったのでした。文字どおり(サタンによって)「散らされた」のでした。そして「自分の 家に帰っていった」のでした。主イエスを一人だけ「残して」わが身の安全をはかったのでした。 このように弟子たちはたしかに主イエスを裏切ったのです。裏切り者はイスカリオテのユダだけ ではなかったのです。十二弟子全てが主イエスを裏切り、信仰の弱さを露呈させたのです。  そこで、普通ならばそれで終わりなのではないでしょうか。それこそ「ブルータスよ、お前も か」と言って死んだシーザーのように、主イエスもまた十字架に無念の死を遂げられて終わるは ずではなかったでしょうか?。そうではありませんでした。なによりも主イエスの御言葉は、弟 子たちの信仰の弱さを指摘されるだけではなかったのです。何よりもここに主イエスは「しかし、 わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである」と弟子たちに告げて おられます。32節後半の御言葉です。これは「あなたがたが私を捨てても、御父は私をお捨て にならない」と語っておられるのではありません。そうではなく、主イエスはここで「御父が私 と共におられるように、私も永遠にあなたがたと共にあるのだ」と宣言しておられるのです。  そのことをはっきりと示すのが続く17章に記された主イエスの「決別の祈り」です。その「決 別の祈り」の中で主イエスは幾度も「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って 下さい。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」と祈って おられます。そこに主イエスが世に来られた目的がありました。すなわち、私たちの罪をご自身 の十字架の死によって贖い、私たちの神に対する叛きの罪を赦し、神との新しい生きた関係にあ ずかる者とし、私たちを神の国の民として下さることです。主はご自分の生命のいっさいを献げ て私たちの罪を贖うために世に来られた唯一の救い主(キリスト)なのです。  それならば、私たちの救い、そして贖われた者の喜びと幸いと自由は、ただ十字架の主イエス・ キリストの内にのみあるのです。少しも私たち自身の中にあるのではないのです。当然ではない かと思うかも知れません。しかし私たちはときどき自分の信仰は“心の状態”であり、その“心 の状態”が自分の救いを決定するかのように思い違いすることはないでしょうか。「信仰の強さ とは心の強さであり、それが強ければ人間は救われるのだ」簡単に言えばそのような誤った考え を私たちは持つことがないでしょうか?。その場合の「信仰」とは名ばかりで実は「信心」にな ってしまいます。「信心」とは「信じる心」と書くように私たちの“心の状態”です。しかし「信 仰」という字は「信じて仰ぐ」と書きます。「信仰」において大切なのは、私たちがどなたを仰 いでいるかということなのです。  「読んで字の如し」ということがあんがいキリスト教でも大切です。「信仰」とはその文字が 示すように「信じて、仰ぐ」ことなのです。大切なのは私たちが「仰ぐ」そのおかたです。信じ る自分の“心の状態”ではなく、私たちが仰ぐ(礼拝する)イエス・キリストそのおかたが中心 なのです。ですからヘブライ語では「信仰」のことを“エメト”と言います。これは“アーメン” の元になった言葉ですが、本来の意味は「神の真実」です。私たちの真実ではなく「神の真実」 による救いを信じること、それが私たちキリスト者の「信仰」なのです。  それならば、その「神の真実」は御子イエス・キリストにおいて、私たちの歴史のただ中に現 されたのです。バルトは「神はキリストにおいてご自身を全く啓示された」と語りましたが、実 はそのことこそが「信仰」の本質なのです。礼拝を献げる根拠なのです。「信仰」とは御子イエ ス・キリストをわが主と仰ぐことです。言い換えるなら、私たちに主イエス・キリストを通して 現された「神の真実」に対して“アーメン”とお応えすることです。“エメト”(神の真実)が私 たちの“アーメン”(応答)に先立つのです。また、さらに言うならば「神の真実」こそ私たち の「信仰」の内容そのものなのです。それがとても大切なことです。  御父なる神は御子イエス・キリストによって、私たちのただ中に「神の真実」を余すところな く現して下さいました。それが福音です。福音とはイエス・キリストご自身であるとはそういう ことです。だから「信心」ではなく「信仰」が大切なのです。信仰とは「神の真実」に対する私 たちの全人格的な応答です。「神の真実」に私たちが拠り頼むことです。イエス・キリストにお ける「神の真実」を自分と全世界への救いとして受け入れることです。イエス・キリストにおい て神が私たちのためになして下さった全ての御業を“アーメン”と受け入れ告白することです。 私たちの側には何ひとつ無くてもよいのです。私たちはただひたすら、私たちのために主がなし て下さった全ての御業に対して“アーメン”と告白するのみです。救いの力と祝福のいっさいは ただイエス・キリストにのみあるからです。  だからこそ、主は今朝の33節においてはっきりと告げたまいました。「これらのことをあな たがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである」と。私たちは小賢しく頭で理解し たことをもって「信仰」だと心得ちがいをしてはなりません。主が私たちに与えて下さったのは 小賢しい知識ではなく「主にある平安」です。それは悩みや試練が起こらないという前提のもと での平安ではなく、悩みや試練のただ中においてなお私たちを力強く支え生かしめる“キリスト の平安”なのです。主が私たちに賜わる平安は条件つきの平安ではなく、絶対無条件の嵐のただ 中での平安を主は私たちに与えて下さるのです。たとえ私たちがどんなに弱くても、またどんな に脆くても、私たちのために生命を献げて下さったキリストの恵みの力は永遠に変ることなく私 たちを支え続けるのです。  それゆえに主は宣言して下さいます。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇 気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と。本当にこの御言葉のとおりなのです。私 たちの人生にはいつも「なやみ」が付き纏うかもしれない。病気になることもある。失敗するこ ともある。行き詰まることもある。絶望に陥ることもある。計画どおりに行かぬこともある。悩 みは尽きない私たちであり、いっけん平穏に見える人生の中にもたえず暗い影が差しこむのです けれども、その私たちに対して、主イエスは力強くお告げになるのです「しかし、勇気を出しな さい」と!。  これは文語訳では「されど雄々しかれ」という字です。この「雄々しかれ」とは、元々のギリ シヤ語をそのまま訳せば「慰められ続けてあれ」という意味です。それはなぜか?。十字架の主 が(私たちが仰ぐ唯一のかたが)崩おれそうになる私たちのかたわらに立っていつも支え続けて いて下さるからです。主イエス・キリストは私たちの全存在(全人生)を「いつも支え続けて」 いて下さるかたなのです。私たちはここに私たちの教会の大きな遺産である、あのハイデルベル ク信仰問答問1の言葉を思い起します「〈問〉生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは 何ですか。〈答〉わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたし の真実な救い主、イエス・キリストのものであることです」。  その意味で、たとえ5人10人の小さな群れであろうとも、永遠なる神の遠大なる救いの御業 に、教会を通して与らせて戴いているのです。教会の主は十字架と復活の主だからです。私たち は神に召され建てられている存在であり、私たちの永遠の基礎はただ神の永遠の愛にあるのです。 私たちはただ真の神に立ち帰ることによってのみはじめて真の慰めを見いだすのです。キリスト が私たちのために、私たちの存在の重みを罪もろとも贖って下さったからです。私たちはキリス トによって罪と死の支配から解放され、キリストの恵みの御支配の内を、キリストの御手に支え られつつ、慰められ続けて、歩むものとされているのです。だから主は私たちに宣言して下さい ます。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と!。私たちのこの教会 こそ復活の生命の共同体なのです。どうか私たちはいつも真の礼拝者とされ、御言葉に生き続け、 主を讃美し、主に支えられ続けて、主の平安の内を歩み続けて参りましょう。