説    教    詩篇43篇3〜4節  ヨハネ福音書16章16〜24節

「憂いは喜びに」

2010・09・12(説教10371341)  今朝の御言葉・ヨハネ伝16章20節で、主イエス・キリストはこう語っておられます「よく、 よく、あなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなた がたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう」。この「よく、よく」とは「アーメン、 アーメン」という言葉であり、私たちに喜びの福音が告知されているのです。さらに主は続く 21節以下にこう言われます「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。 しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に 生れた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、 わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろ う。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」。  主は言われるのです。今あなたがたの心は「悲しみ」と「憂い」によって塞がれている。し かしその「悲しみ」と「憂い」はあとから来る限りない「喜び」に覆われ、あなたがたは「喜 びに満たされる」であろう。そしてその「喜び」を「あなたがたから取り去る者いない」と。 つまり、神が私たちに与えて下さる喜びは、決して奪われることのない本当の「喜び」である。 その「喜び」に私たちが「満たされる」時がいま来ていると主は告げておられるのです。  そこで「あなたがたは悲しむであろう」と言われている「あなたがた」とは直接にはキリス トの弟子たちのことです。じじつ弟子たちは主イエスとの決別の時が近づいていることを知り 「悲しみ」と「憂い」に心が塞がれていました。否、それは正確に言えば「不安」と「焦り」 でした。そのことは今朝の16節以下によく現れています。例えば18節を見ると弟子たちは「わ たしたちには、その言葉の意味がわかりません」と主イエスに訴えています。弟子たちは「主 よ、あなたの言われる意味が全然わかりません」と訴えたのです。  私たち人間は「わからない」事柄に対して「不安」と「焦り」を感じます。たとえば私たち は自分や家族が病気になったとき、その病気の原因がわからない(または治療法がわからない) とき不安は十倍にもなるのです。自分が無力な経験に対しては、私たちは「悲しみ」「憂い」 よりも、無力な自分に絶望し「不安」と「焦り」が募るばかりなのです。その私たちの不安な 心がそのまま主イエスにぶつけられているのです。その時の弟子たちには主イエスのお姿が見 えていませんでした。弟子たちは人間イエスだけを見て、十字架の主キリストを信じてはいな かったのです。そのような弟子たちに対して、主イエスは静かに毅然とお答えになるのです。 「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしま えば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあ るためである」。  お産の時の痛みは、男性なら気絶してしまうほどの痛だと聞きました。陣痛が起り出産に臨 んだ女性は「不安」で心が満たされています。しかしその「不安」は子供が生れたその瞬間「ひ とりの人がこの世に生れた、という喜びがあるため」に吹き飛んでしまうのです。お産の苦し みや痛みよりも、子供が生れた「喜び」のほうが遥かに大きいからです。この点で主イエスの 御言葉は明確そのものです。私たちは神から大きな「喜び」を戴いているからこそ「不安」や 「痛み」もはじめて意味を持ってくるのです。それは私たちの人生全体に言えることではない でしょうか。  作曲家のベートーベンは重い難聴になるという、音楽家として大きな試練を経験しました。 ところが不思議なことに、彼の重要な作品のほとんどは耳が不自由になってから作曲されたも のなのです。このベートーベンが語った有名な言葉に「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」(ドリ ュヒ・ライデン・フロイデ)という言葉があります。大切なのは「ドリュヒ」(突き抜けて) という意味です。ベートーベンにとって「苦悩」は本当の喜び(歓喜)へと至らせるために、 神が自分の人生に備えて下さったかけがえのない通路でした。だからその「喜び」を見いだし たとき、もはやあらゆる「苦悩」さえもその「喜び」の中に覆われてしまった。「苦悩」を克 服したのではなく、喜びに覆われてしまったと語ったのです。その「喜び」を奪う者はいない のです。それは決して奪われることのない「喜び」なのです。  私たちが「喜び」と名付けているもののほとんどは、実は受け身のものではないでしょうか?。 私たちは「喜んでいる」よりも「喜ばされている」ことのほうが多いのです。たとえば欲しい モノが手に入ったとき、人はそこに「喜び」を感じます。しかしその「喜び」は欲しいモノが 所有できたという前提あっての「喜び」で、もしモノが所有できなければその「喜び」もない のです。またはそのモノが奪われれば喜びも奪われてしまうのです。そう考えますと、私たち が人生で感じる「喜び」のほとんどが実は内側からの「喜び」ではなく「喜ばされている」の だとわかるのです。だから私たちは「喜び」の儚さも味わうのです。今日は喜びに踊っていた 人が次の日には絶望のどん底に突き落とされている、そういうことは珍しくないのです。私た ちの喜びは常にそういう「脆さ」と裏腹の「奪われる喜び」にすぎないのです。  主イエスが私たちに与えて下さる「喜び」は、そのような脆く不確かな奪われる「喜び」な どではありません。それどころか主イエスは今朝の20節で「あなたがたは泣き悲しむが、こ の世は喜ぶであろう」と語られました。あなたがたはいま「泣き悲しんで」いる。予期せぬ悩 みや苦しみに出会って「不安」と「焦り」に打ちひしがれている。しかしあなたがたのその「悲 しみ」「不安」「焦り」はまさにあなたの人生の中で限りない「喜び」に変えられるであろう。 そればかりではなく、それは「この世」すなわち「全世界の人々」の限りない「喜び」に変る 日が来るであろう。そのように主ははっきりと約束して下さるのです。  それはどういうことでしょうか?。その御言葉の意味が22節に明らかにされています。「こ のように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。 そして、あなたがたの心は喜びで満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者 はいない」。この「あなたがた」とは、私たち一人びとりであるのと同時に「この世」すなわ ち全世界の人々のことです。この全世界が主の教会により主に贖われた者の永遠の「喜び」に 「満たされる」時が来ると約束されているのです。この「満たされる」とは「神の恵みによっ て占領される」という意味です。この世界が神からの大きな「喜び」の恵みによって覆われる 「時」が来る。その「喜び」は決して奪われることがないと、主ははっきりと約束して下さる のです。  私たちは第一ペテロ書1章5〜9節の御言葉を想い起こします「あなたがたは、終りの時に 啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを 思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなた がたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ち る外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さん びと栄光とほまれとに変わるであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、 彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜 びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」。  讃美歌の305番にこういう歌詞があります。「ふたたびわが世に、きたもう主を、待ちのぞ む身こそ、げにさちなれ」。私たちはいま主に救われ、再び世に来たりたもう主を「待ち望む 身」とされているのです。チリの炭鉱事故を想ってみましょう。地下700メートルの暗黒の世 界に取り残された人々は、喜んで一致協力しつつ現在の苦しみに耐えています。それは「いま はどんなに辛くても、必ず救援隊が訪れる」と知っているからです。それなら私たちはなおさ らではないでしょうか。それどころか、すでに主は私たちのために十字架にかかられ、復活さ れ、墓を虚しいものにされたのです。私たちは終わりの日の完全な救いの喜びに、いま人生の ただ中であずかる者とされているのです。  だからこそ、改めて問われているのは、私たちは「悲しみ」も「憂い」をも、いつも主の御 手に委ねる者となっているか?ということです。あるがままの私たちの悲しみと憂いを主に委 ねるとき、その「悲しみ」は第二コリント書7章10節が語るように「神のみこころに添うた (生命を与える)悲しみ」となります。「憂い」という字に人偏が付くとそれは「優しい」と いう字になります。少しも悪い意味ではありません。「不安」と「焦り」はパニック(優先順 位がわからなくなること)です。だから自分が中心になります。しかし「悲しみ」と「憂い」 は私たちを主なる神へと向かわせるのです。なによりも聖書において「悲しみ」と「憂い」は 私たちを「祈り」に導くものです。全てにまさって、それは主イエス・キリストの「ゲツセマ ネの祈り」そのものを私たちに示すのです。  主は十字架におかかりになる前の晩「ゲツセマネ」の園で夜を徹して世界の救いのために祈 られました。主は弟子たちに「わが心いま憂いの内にあり」と言われ、そして「アバ、父よ、 願わくはこの杯(十字架)をわれより遠ざけたまえ。されど、わが思いにあらず、御心のまま になしたまえ」と祈られたのです。つまり今朝の御言葉において「悲しみ」と「憂い」の中心 に立っているのは主イエスご自身なのです。十字架の主が私たちの「悲しみ」と「憂い」の中 心に立っていて下さるのです。それこそ使徒パウロの語る「イエス・キリスト、しかも十字架 にかかられたイエス・キリスト」が私たちと共に永遠にいて下さるのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。最初は弟子たちも「不安」と「焦り」の中で自 分が中心でした。そしてキリストを裏切りました。しかし復活の主に出会い十字架の主イエ ス・キリストを信じたとき、弟子たちはもはや古き人ではありませんでした。あるがままに主 が下さる新しい喜びの生命に覆われて生きる者とされたのです。十字架の主を信じて神中心の 礼拝生活をした弟子たちは、奪われぬ真の喜びと真の自由に生きる者となったのです。キリス トを信じても私たちの人生になお「悲しみ」や「憂い」はあるかもしれない。しかしその「悲 しみ」と「憂い」はパニック(自己中心の罪)から私たちを救う神の恵みの通路となるのです。 なによりも主は私たちに「祈り」(真の礼拝)を与えて下さいます。私たちの人生は「罪」と 「死」の支配のもとにではなく、私たちを限りなく愛し、私たちの存在を根底から贖い、喜び の生命で覆って下さる十字架の主のご支配のもとにあるのです。  「喜びの手紙」とも呼ばれるピリピ書2章17節で、パウロはこう語りました「たとえあな たがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血を注ぐことがあっても、わたしは喜ぼう。 あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさ い」。それこそ「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝し なさい」と語った使徒パウロの「喜び」でした。私たちも同じ主にある「喜び」に結ばれてい るのです。その主にある「喜び」に結ばれた者の幸いが(救いと平安が)が主の教会を通して (私たちを通して)全世界に宣べ伝えられているではないか。やがて主は全世界に救いの「喜 び」を完成させて下さるではないか。いま私たちはその「喜び」にあずかっているではないか。 そのように今朝の御言葉は私たちにはっきりと語り告げているのです。