説    教    詩篇139章1〜6節  ヨハネ福音書16章12〜15節

「ミステリウム・フィデイ」

2010・09・05(説教10361340)  「ミステリウム・フィデイ」という言葉があります。宗教改革の時代にカルヴァンが大切に したラテン語で、訳せば「信仰の奥義」という意味です。これを今日の説教題にしました。坂 下の看板には「信仰の奥義」と奉仕者がルビを付けて下さいました。「ミステリウム」が「奥 義」、「フィデイ」が「信仰の」という意味です。このわかりにくい説教題に興味を持って、こ のピスガ台に登って来てくれる人が一人でもいればどんなに良いかと思いました。  もともとこの言葉は礼拝順序の中にありました。初代教会の時代です。牧師が「ミステリウ ム・フィデイ」と唱えますと、それに応えて会衆一同が「イエス・キリストは、昨日も、今日 も、永遠までも変りたもうことなし」と、ヘブル書13章8節の御言葉を朗読したのです。や がて宗教改革の時代にはその言葉は「キリストは来られ、キリストは死なれ、キリストは再び 来りたもう」という定型句に変ってゆきました。特に聖餐式の前にこの言葉は唱えらました。 主の御身体と御血潮とにあずかるたびに、初代教会のキリスト者たちは「イエス・キリストは、 昨日も、今日も、永遠までも変りたもうことなし」この言葉こそ「ミステリウム・フィデイ」 (信仰の奥義)であると告白したのです。  そこで、この「奥義」とは何でしょうか?。もともと「ミステリウム」という言葉は「主が 明らかにして下さった救いの出来事」を意味します。だからこの言葉は「サクラメント」(聖 礼典)つまり「洗礼」と「聖餐」を現わすものになりました。主イエス・キリストご自身が制 定された2つの聖礼典を「ミステリウム」と呼んだのです。それこそ「主が明らかにして下さ った救いの出来事」だからです。  同じヨハネ伝の第6章に、主イエス・キリストが弟子たちに「わたしの肉はまことの食物、 わたしの血はまことの飲み物である」と言われた御言葉が記されています。こは十字架の主が 私たちの罪を贖い、神に立ち帰らせて下さった恵みの福音そのものなのです。しかしこれを聞 いた「弟子たちのうちの多くの者は『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておら れようか』」と言ったのでした。弟子たちはこの主イエスの御言葉に「つまずいた」のです。「ひ どい言葉だ」と感じたのです。「聞くに堪えない」と思ったのです。つまり弟子たちは御言葉 の主なるイエス・キリストより、聞く自分たちを“正しい”としたのです。その自分たちが「聞 くに堪えない」言葉、それは「ひどい言葉だ」と評したのです。  私たちにも、それと同じことがないでしょうか。私たちはキリスト者として生きています。 しかしそのことがいつのまにか形式化して生命を失い、キリストが「主」ではなく自分の考え や思いこみが「主」になっていることはないでしょうか?。「祝福」の「祝う」という字と「呪 う」という字は“神を主とするか、それとも自分(の口)を主とするか”という違いです。自 分の口(自分自身)を「主」とするとき、私たちはいとも簡単に「祝福の器」であることをや めて「呪いの器」になってしまうのです。  ウィリアム・ジェイムズというアメリカの宗教哲学者がその著書の中で、15世紀にいた聖ル イという聖人について論じています。聖ルイという人は子供の頃から極端な潔癖症であった。 9歳の頃にすでにあらゆる女性との接触を自らに禁じていた。母親がルイに食事を持ってきた 時も彼はドアの蔭から手を伸ばして受け取るだけだった。彼は大人になって修道院に入るので すが、あるとき同僚の修道士から一枚の紙きれを貰った。しかし彼はその紙切れを貰ったこと を修道院の院長に報告し、自分は修道士にもかかわらずこのような財産を所有したことを懺悔 した。そこでジェイムズは言うのです「もう充分であろう。彼が正しく我々が間違っているの か、それともその逆であろうか。もはやどうでも良いことだ。ひとつ確実に言えることは、も し我々がこの聖ルイと同じ場所にいたとしても、彼は我々に対して、我々もまた彼に対して、 決して心を開くことはなかったであろうということだ」。これは極端な例かもしれません。し かしジェイムズが問うている大切なことは、私たちもまた自分を中心にする想いの中で、一人 のパリサイ人になってはいないかということです。  しかし本当の問題は、この聖ルイのようにはなれず、また「なりたい」とも思わない私たち は、ではこの世の中でどのように「キリスト者」として生きているのかという問いなのです。 私たち自身の信仰の問題なのです。私たちはともすると“神の領域”と“この世の領域”とを 分けて、器用にその間を往復してはいないでしょうか。礼拝に出席している今はもちろん私た ちは“神の領域”にいる。しかし教会の坂を降りてそれぞれの家に帰った途端そこに“この世 の領域”が始まる。私たちはこの2つのチャンネルを上手に切り替え、適当に妥協させて生き ていることはないでしょうか?。  もし私たちがそうした考えで生きるなら、それこそ主の御言葉を「ひどい言葉だ」と言った 弟子たちと同じだということを今朝の御言葉は示しているのです。なにより主イエス・キリス トは「この世」に来て下さいました。この世の最も低く、暗く、悲惨な、罪のただ中に、主は お生まれ下さったかたです。主は私たち人間の最も醜く、卑しく、弱く、罪深いところに来て 下さったかたです。そこでこそ私たちに真の救いと自由を与えて下さるために…。ひとたびこ の福音の喜び(主が明らかにして下さった救いの出来事)に与った私たちは、もはや“神の領 域”と“この世の領域”を分けて考えません。その必要はないのです。パリサイ人になる「罪」 から自由にされているのです。  だから先ほどのジェイムズはこう申しています「本当のキリスト者は、神に自分を明け渡し ているゆえに、人生の全領域における最も勇敢な挑戦者であり続ける」。自分の穴を掘ってそ こに身を屈めて生きるのがキリスト者なのではないのです。キリストが私たちに与えて下さる 平安は身を屈めて生きる平安ではなく、立ち上がって主と共に歩み、この世のあらゆる戦いの 中に喜びと平安をもって遣わされてゆく者の「平安」なのです。屈みこむ平安ではなく、立ち 上がる平安なのです。聖書では自然的領域(この世の領域)と超自然的領域(神の領域)とは 一つのものです。なぜならキリストはエペソ書2章に記されているように「二つのものを一つ にし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒 めの律法を廃棄した」かただからです。神はキリストにあって「二つのものをひとりの新しい 人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解 させ、敵意を十字架にかけて滅ぼして」しまわれたのです。  どうか私たちは心にとめましょう。主イエスは「あなたがたは二人の主人に兼ね仕えること はできない」と言われたことを。「兼ね仕えるべきではない」と言われたのではないのです。 それは福音の光に照らされたこの世界は「2つの領域」からできているものではなく、私たち の人生全体が神の愛の現れるかけがえのない恵みの世界だからです。私たちは人生の旅路のど こに在っても、変ることなくキリストの御手の御支配の中にあるのです。だから「兼ね仕える べきではない」ではなく「兼ね仕えることはできない」のです。私たちの「主」は唯一のまこ との「主」のみだからです。永遠の昔から、そして今も永遠までも、ただ一人の主なるイエス・ キリストが「主」なのです。そして讃美歌532番に歌われているとおり「主の受けぬこころみ も、主の知らぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、いずこにも、みあと見ゆ」なのです。私た ちはこの世のどこにあっても「主が現わして下さった救いの出来事」の内に生きる者とされて います。どのような経験の中にも、私たちは贖い主なる十字架の主にお会いするのです。主は どのような時にも私たちと共にいて下さるのです。  だから、いつの時代にあっても私たちの教会は「ミステリウム・フィデイ」(主が現わして 下さった救いの出来事)のみを宣べ伝えます。主は弟子たちに、あなたがたは十字架の福音に 「今はまだ、それに堪えられない」と言われました。じじつ弟子たちは主の御言葉を「これは ひどい言葉だ」と言いました。しかしその弟子たちがキリストを信じ、キリストのみがまこと の「主」であると告白したとき、彼らは全生涯を通してキリストの愛と祝福を現わす僕とされ たのです。ただ聖書の福音のみ「ミステリウム・フィデイ」のみが、全ての人を真の救いと自 由と平和へと至らせるからです。そこで、この「ミステリウム」のもう一つの意味があります。 それは「やがて明らかにされる真理」という意味です。その「明らかにされる」時こそ、今こ の時なのです。今ここで主イエス・キリストみずから、私たちと共にいて下さるのです。教会 を通して生命の御言葉を与えて下さるのです。そして御言葉を戴いた私たち一人びとりを、祝 福の内にこの世の旅路へと遣わして下さるのです。福音の言葉に信仰をもって応える者として 下さるのです。  だからこそ、主は今朝の御言葉の15節にこう言われました「父がお持ちになっているもの はみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるの だと、わたしが言ったのは、そのためである」。これはなんと恵みに満ち溢れた福音の宣言で しょう!。主イエスが十字架にかかられ、復活され天に上られたのは、それはいまあなたの救 いに不可欠な「父がお持ちになっているもの」を全て、聖霊によってあなたに届けるためであ ると言われたのです。今朝、角田李音さんが洗礼を受け、主の民(聖なる公同の教会)に迎え られました。まさにここに「主が明らかにして下さった救いの出来事」があるのです。それが いま私たちに現わされているのです。  主イエス・キリストは限りない神の恵みと祝福と愛をもって、いつまでも私たちと共にいて 下さいます。このかたが過去、現在、未来の全てを、私たちの全生活・全存在を、満ち溢れる 祝福のもとに支えて下さる「主」でありたもうのです。第一コリント書1章30節で告げられ たように、キリストは私たちの全て「義と聖とあがないとになられた」のです。そこに「ミス テリウム・フィデイ」があります。ご臨在の主のもとまことの礼拝がささげられ、私たちは真 の自由と幸いにいま生きる者とされているのです。「イエス・キリストは、昨日も、今日も、 永遠までも変りたもうことなし」。この恵みのうちに、勇気と慰めと祝福をもって、世の旅路 に出てゆく私たちであり続けたいと思います。