説     教   ダニエル書7章18節   ヨハネ福音書16章5〜11節

「わが去り行くは」

2010・08・29(説教10351339)  われらの主イエス・キリストは、すでにヨハネ福音書の13章33節において「あなたがたはわ たしの行く所に来ることはできない」と弟子たちに語られました。また14章29節においては「わ たしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る」とも仰せになりました。主イエス おんみずから愛する弟子たちに、地上における決別の言葉を語られたのです。だからこのヨハネ 伝13章から16章までの部分を「主イエスの決別の説教」と呼ぶことができるのです。  もしそこに私たちが居合わせていても、主イエスのこうした御言葉には言い知れぬ不安と怖れ を感じるのではないでしょうか。事実、弟子たちの心は主イエスとの別れを察知して大きな不安 に慄いたのです。それは今朝の16章5節以下にはっきりと現れています。すなわち16章5節に おいて主イエスが語られたように、弟子たちは誰一人として主イエスに「『どこへ行くのですか』 と尋ねる者は」いなかったのです。怖くて訊けなかったのです。  そこで主イエスは「今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている」と 弟子たちに言われます。「わたしをつかわされたかた」とは、もちろん主イエス・キリストの父 なる神のことです。あのクリスマスの晩、ベツレヘムの馬小屋に人として生まれたもうた神の御 子キリストは、父なる神の御心のままに十字架による全人類の罪の贖いを成しとげる道を歩まれ、 いまや私たちの罪のために死んで葬られようとしているのです。まさにその十字架の死と葬りを 通してのみ、主イエスは再び天の父なる神の御もとにお帰りになろうとしておられます。十字架 の苦難を通してのみ、主は父なる神の御許にお帰りになるのです。  すでにその主イエスの御心は、この“決別の説教”の最初であるこのヨハネ伝13章の冒頭に おいて、福音書記者ヨハネの手でこう書きあらわされていました。13章1節です「過越の祭の 前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自 分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」。これは「これは主イエスの全生涯を要約 している御言葉」です。アウグスティヌスという人はこの13章1節についてこう語りました。 私たちは普通、主イエスが「彼らを最後まで愛し通された」と聴けば、それは主イエスが「十字 架で死なれる時まで、弟子たちを(また私たちを)愛して下さった」という意味だと理解するで あろう。しかしそういう意味ではない。「主イエス・キリストこそ、まことの神の子であられる ことを思い起しなさい」とアウグスティヌスは申します。  いったい神に「最後」というものがあるであろうか。もしそれがあるとすれば、それは歴史の 「最後」ということ以外にはない。つまり主イエスが「彼らを最後まで愛し通された」というの は、世界の最後、歴史の最後、終末の時に至るまで、私たちを愛したもうという御心の現れなの です。主イエスの十字架の死は罪と死に対する勝利の始まりであり「最後」ではないのです。キ リストは御自身の死と葬りによって、私たちを支配していた罪と死の支配を滅ぼし、信ずる者に 「永遠の生命」すなわち活ける神とのまことの関係に生きる祝福の生命を与えて下さるのです。  とこが、この「最後」(十字架による罪の赦しと贖い)の意味がわからなかった弟子たちの心 は、主イエスが今朝の16章6節で語られたように「憂いで満たされて」いるのです。「憂いで満 たされて」いるとは「不安と悲しみで心が覆い尽くされている」ということです。そのため弟子 たちは主イエスに「どこに行かれるのですか?」と訊くことすらできなかったというのです。そ のような彼らに(また私たち一人びとりに)主イエスははっきりとお告げになります。それが今 朝の16章7節以下の御言葉です。  「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あな たがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないで あろう。もし行けば、それをあなたがたに遣わそう」。そして更に8節以下にこう言われます「そ れがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、 彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あ なたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。さばきについてと言ったのは、この世の君 がさばかれるからである」。  まず7節の御言葉を心にとめましょう。主は「わたしが去って行くことは、あなたがたの益に なるのだ」と言われました。この「益」とは「助け主なる聖霊が」私たちに遣わされることです。 あるとき主イエスは弟子たちに「灯火を灯してそれを枡の中に置く者はいない」と言われました。 灯火を灯したなら、かならずそれを高いところに置いて部屋全体を照らすであろうと主は言われ たのです。当然のことです。それと同じことが主イエスの昇天についても言えるのです。主イエ スが十字架におかかりになり、死んで葬られ、甦られて、天の父なる神の御もとに帰ってゆかれ るのでなければ「助け主」なる聖霊は私たちのもとに遣わされないのです。聖霊は私たちをキリ スト告白へと導き教会を建てる“キリストの霊”です。もし主イエスが弟子たちと共に地上にと どまっておられたなら、それは「枡の中に置かれた灯火」と同じで枡の中しか照らしません。し かし主イエスは弟子たちを離れて父なる神の御もとにお帰りになり、そこから「助け主」なる聖 霊を全世界に遣わされることにより、全ての人を照らす「まことの光」となられたのです。  それは主イエスが全世界に、聖霊によって救いの御業をなされ、世界のいたる所に贖われた群 れである教会をお建てになることです。私たちのこの葉山教会もキリストご自身が聖霊によって お建て下さった神の家なのです。そしてこの教会によって、教会を通して世に明らかにされるも のは福音による真の救いです。生ける神の御言葉そのものです。キリストの現臨の恵みです。そ のことを主イエスは今朝の8節において「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の 目を開くであろう」と言われたのです。  「罪」と「義」と「さばき」について「世の人の目を開く」こと、それが教会の使命であり福 音による真の救いの力であると主は言われたのです。これはとても大切なことです。私たちにい つも問われていることは、私たちは教会に連なる者としてこれら3つの事柄にいつも正しく「目 が開かれているか」どうかです。まず自分の目がキリストを見つめていないで、世の人々にキリ ストを証しすることはできないからです。  ここで「目を開く」と訳されたもともとのギリシヤ語は「誤りを糺す」という意味の言葉です。 私たち人間には見えている事柄より見えていない事柄のほうが多いのです。しかも事柄が大切で あればあるほど、私たちはそれについて無知であり「誤りを糺されねばならない」のではないで しょうか。まして主イエスが語られる「罪」と「義」と「さばき」についてはなおさらなのです。 これらについて正しく「目を開く」ためには教会に連なり「助け主」なる聖霊の導きを受けねば なりません。誰でも聖霊によらなくてはキリストを「主」と告白することはできないのです。逆 に言うならば、どんな人でも教会に連なり聖霊の導きを受けるなら、必ず福音を信じて「アーメ ン」と告白し「永遠の生命」を戴くことができるのです。  実は私たち人間にとって「罪」ほどわかりにくいものはないのです。それはちょうど、真暗な 部屋の中にいる人が自分の姿を見ることができないのと同じです。生まれながらに「罪」の支配 の中にある私たち人間は、深海魚と同じように罪を見るまなざしが退化してしまっています。主 が言われるように「目を開く」ことができずにいるのです。では、どのようにして私たちは「罪」 を知るのでしょうか。それはただキリストの福音の「光」を受けることによるのです。わが国が 生んだ最も優れた哲学者の一人であり改革長老教会の牧師の子として育った森有正がこういう ことを語っています「私たちはただ、罪の中においてのみ神と出会う。それは、神はまさに私た ちの罪のただ中においでになったからである」。  これこそは福音の神髄です。それこそ主イエスが今朝の御言葉で語っておられることと一つな のです。すなわち9節に「罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである」と言 われたことです。「罪」について「目を開く」とは、まさに「私たちのただ中においでになった」 神の御子イエス・キリストを信じることです。それ以外にはありえないのです。そしてイエス・ キリストを信じるとは、私たちは自分の「罪」をすでにキリストが十字架において贖い取って下 さったものとして「知る」ということです。それ以外の罪を知る方法はありえないのです。それ が大切なことです。私たちは自分の「罪」について何ひとつ知ることはできない。ただ「私たち の罪のただ中においでになった」キリストを信じるのみです。それで充分なのです。なぜならそ のキリストこそ十字架の主であられ、全ての人を「罪」から救う唯一の「救い主」永遠の勝利の 主であられるからです。  次に主イエスは10節に「義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがた は、もはやわたしを見なくなるからである」と言われました。「義」という言葉について、パウ ロはローマ書3章21〜22節に大切なおとずれを告げています。「しかし今や、神の義が、律法と は別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを 信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」。ここに示されて いることは、聖書が語る「義」とは私たちの正しさのことではなく「神の正しさ」のことであり、 それは「イエス・キリストを信じる」信仰によって「すべて信じる人に与えられるものである」 ということです。私たちは神の御前に決して立ちえぬ者ですが、ただイエス・キリストを信じる 信仰によって神に「義」と認めて戴けるのです。漢字の「義」という字は「我」の上に「羊」を 載せています。「我」(わたし)の上に神の「羔」なるキリストを戴くことが「神の義」なのです。 主イエスは「あなたがたは、もはやわたしを見なくなる」と言われました。それは、これから後 あなたがたは肉眼ではなく信仰によって私を「見る」のだと告げて下さったことです。ただ信仰 によってキリストを「見る」ことがキリストを正しく「見る」ことなのです。  最後に、主イエスは11節に「さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからで ある」と言われました。ここで主が言われる「この世の君」とはただ単に国王や皇帝などのこの 世の支配者のことではありません。何よりも主はここで私たち人間を支配している「罪」のこと をさしておられるのです。そのことはエペソ書6章10節以下によく現れています「最後に言う。 主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、 神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配 と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪し き日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけな さい」。  キリストが世に来られたのは、正しい「さばき」をなさるためです。この「さばき」とは「も ろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦い」に主が永遠 に勝利されたことなのです。それゆえ、私たちは堅く心にとめましょう。キリストは(キリスト のみが)これら全ての「罪」の支配に対して完全に勝利して下さった私たちの贖い主なのです。 私たちは今ここに世界が新しい時代を迎えていることを知るのです。その新しい時代とは、マリ ヤの讃歌に歌われているように「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださった」とマリヤ が歌った出来事がいま私たちのただ中に現れている時代です。この「大きな事」こそ全ての人の ための“救いの出来事”です。  つまりキリストの「さばき」とは“救いの出来事”のことです。私たちを捕らえていた「罪」 は十字架のキリスト(現臨の主)によって「さばき」を受けたのです。キリストによって罪は打 ち斥けられ、この世界は新たな喜びの装いを身に纏うたのです。世界の意味は一変したのです。 人生の目的地は死を超えた地点にまで引き上げられたのです。神と人を隔てていた断絶は取り払 われ、私たちは主の身体なる教会において「この世の君はさばかれたり」と自由の宣言を聴く者 とされているのです。もはや私たちの「主」は「やみの世の主権者」ではなく、キリストのみが 永遠の主なのです。だから私たちは「神の武具」を身に付けて信仰の歩みをします。主の御手に 自分を委ね、キリストの義によって覆われます。そこに私たちの変わらぬ喜びと平安があるから です。  キリストはいま、弟子たちのもとから去りゆかれます。しかしその去りゆきたもうキリストこ そ、聖霊によって永遠に私たち全ての者と共におられる十字架と復活の主なのです。このかたこ そ、罪の贖い主であり、神の義の与え主であり、まことの「さばき」を行われるかたなのです。 この主がふたたび私たちのもとに来られるのです。そして世界に救いを完成して下さるのです。