教    説    詩篇20篇6〜7節   ヨハネ福音書16章1〜4節

「主の御手に支えられ」

2010・08・22(説教10341338)  「わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである」と主 イエスは言われました。今朝お読みしたヨハネ伝16章1節にある御言葉です。この「つまず く」という言葉を、私たちキリスト者は今日でもときどき用いるのです。たとえば熱心に教会 に通っていた人が、ある出来事をきっかけに礼拝に来なくなってしまう。そういう時に「あの 人は“つまずいて”しまった」などと申します。ある意味で私たちにとって最も身近な聖書の 言葉の一つかもしれません。  そこで、もともとこの「つまずく」と訳された本来の言葉は“スカンドロン”というギリシ ヤ語です。これはマスコミなどで言う「醜聞」を意味する“スキャンダル”という言葉の語源 にもなりました。しかしもともとの意味は、ある人の前に“故意に石を置くこと”です。人の 足を滑らせてわざと転ばせることです。つまり本来はこの言葉は受身の形なのです。事実、私 たちは自分の意志に反して他人に陥れられることを「スキャンダルに巻きこまれた」と言いま す。「つまずかされた」と受け身の形で言います。ところが今朝の御言葉において主イエス・ キリストは、全く違う意味でこの言葉を用いておられるのです。それが16章1節です「わた しがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである」。  ここで主イエスは「あなたがたがつまずくことのないため」と言われ「つまずかされること のないため」とは言われませんでした。受身の形ではなく、私たちが自分で「つまずく」とい う意味でこの“スカンドロン”という言葉を用いておられるのです。これは不思議なことです。 自分の意志で「つまずく」ことなど常識ではありえないからです。その「ありえないこと」を 主イエスは敢えて弟子たち(また私たち一人びとり)に語っておられるのです。  それでは、主イエスが言われる私たちの「つまずき」とはどのようなものでしょうか?。そ れが続く2節に記されている「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたが たを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう」と いうことです。この「会堂」とはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)のことですが、シナゴーグを 中心とする地域社会の交わりのことを「会堂」と言いました。つまり主イエスは弟子たちに「あ なたがたは、わたしを信じるその信仰のゆえに、地域社会の交わりから“追い出される”であ ろう」と言われるのです。さらに「あなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に 仕えているのだと思う時が来るであろう」と言われるのです。  これらのことは、私たち人間にとって、最も嫌なこと、あって欲しくないことではないでし ょうか。地域社会の交わりから疎外され、人々に排斥されること。あまつさえ人々が自分を殺 そうとし、その死ぬ姿を見て「自分たちは神に仕えているのだと」拍手喝采することは想像す るだに恐ろしい場面です。わが国で過去何度も死刑廃止論が起りましたが、そのたびに立ち消 えになったのは、残虐非道な犯罪に対して“赦してはならない”という世論が廃止論にまさっ たからです。残忍無比な犯罪をおかした人間が絞首台に上がることを、世の人々はある意味で 当然の報いだと思っています。 端的に言うなら、それと同じことがあなたがたの身に起るの だと主イエスは言われるのです。しかもそれは残忍無比な犯罪を犯したからではない。ただ主 イエス・キリストを「主」と告白する信仰のゆえに、地域社会の交わりから追放され、自分を 殺す人々が拍手喝采する。そのような仕打ちを受ける「時」が「来るであろう」と主は弟子た ちに言われるのです。  そこで、事実このことは初代教会の歴史、また過去2千年の教会の歴史の中で起こってきた ことです。このヨハネ福音書が書かれた西暦2世紀の初めごろ、既にローマ帝国による組織的 なキリスト教迫害が始まっていました。国家の名においてキリストを信ずる人々が迫害され殺 されたのです。同じことは16世紀ヨーロッパの宗教改革の時代にも、または20世紀のナチス ドイツよる教会の迫害にも現れました。日本においてさえ、戦時中はどんなに教会が迫害され 信者が嫌な思いをしたか、記憶を持つ人々がまだたくさんいます。礼拝の前には国民儀礼が強 制され、説教の内容も特高警察の監視下に置かれたのです。逮捕され獄中で死んだ牧師もいた のです。  それでは、私たちがそのような長い教会の歴史の中で本当に忘れてはならないこととは何で しょうか。戦時中の教会が受けた迫害の記憶でしょうか。信教の自由が大切だという教訓でし ょうか。否、そうしたことより遥かに大切なこと、本当に忘れてならないことは、そうした時 代の流れの中で、たとえ少数であっても、なお「つまずく」ことなく信徒たちが主に従い続け た(礼拝を献げ続けた)事実です。  あの戦争の時代、わが国のどの教会も礼拝出席者は戦前の五分の一、十分の一にまで減りま した。消滅してしまった教会もあり、空襲で焼かれ再建できなかった教会もあります。私たち の葉山教会も例外ではありませんでした。戦争当時の牧師であられた杉田虎獅狼先生、また宮 崎豊文先生は、病身のうえ栄養失調という苦難の中で、なお福音に堅く立って葉山に変わらぬ 伝道の火を灯し、数少ない信徒を励まして礼拝を守り続けられたのです。そうした牧師先生た ちと長老会、信徒の主に従う歩みがあってこそ、現在の葉山教会の歴史が刻まれているのです。 これを忘れてはなりません。  それでは、私たちはどうなのでしょうか?。もし私たちが当時のキリスト者と同じ状況に立 たされていたならどうでしょうか。私たちもまた教会から(キリストから)離れない信仰生活 を貫けるでしょうか?。いまそのような「礼拝中心の生活」をしているでしょうか?。それと も私たちは、主イエスが今朝の御言葉で言われるように、地域社会から疎外され迫害を受ける ことを怖れて、教会から離れ信仰を捨て「つまずいてしまう」のでしょうか?。そう考えると き、今朝の御言葉は今日の私たちへの問いなのです。戦時下であろうと平和な時代であろうと、 もし私たちが本当にキリストに従うなら、信仰のゆえの苦しみも伴うのです。キリストのみを 真に「救い主」と信ずる人々が、慰めと喜びと共に苦しみをも受けなかった時代はないのです。 思わぬ過酷な経験が私たちを待ち受けているかもしれません。そのようなとき、私たちは礼拝 から離れるのでしょうか?。「つまずく」のでしょうか?。私たちは「つまずくことのない」 ためにどうすれば良いのでしょうか?。「私をつまずかせたのは誰々だ」と他者を批判すれば 良いのでしょうか。「仕方がない」と諦めれば済むのでしょうか。徹底抗戦の構えを見せるの でしょうか。  私たちが執るべき道はそのいずれでもなく、私たちが歩むべき道はただキリストに従う道で す。十字架の主を見上げて信じる道です。それ以外にないのです。それは「わたしにつながっ ていなさい」と言われた主に繋がる道であり、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたは その枝である」と言われた主の招きに従順な僕であり続けることです。キリストの贖いの恵み の内にあり続けることです。何よりも主イエスは今朝の御言葉ではっきりと言われました「わ たしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである」。たとえど のような時代や状況にあっても決して「つまずく」ことのない本当のキリストの弟子へと私た ちは招かれ導かれているのです。  だから今朝の御言葉は受身ではなく、まさに私たち自身の信仰の歩みなのです。主イエスは まさに私たちがどのような時にも決して「つまずくことのない」(キリストのまことの弟子に なる)ためにこの御言葉を語られたのです。使徒行伝7章にはエルサレム教会の執事ステパノ の説教と殉教の様子が記されています。ユダヤ人たちに「イエスはキリストなり」と証したス テパノは怒り狂った人々によって町の外に「追放され」石打ちの刑に処せられました。しかし 石で打たれているあいだ、ステパノは自分を殺害する人々のために祝福と赦しを祈り続け息絶 えました。その殉教の様子を上着の番をしながら見ていたのが後に使徒パウロとなったパリサ イ人サウロでした。そしてこの出来事こそサウロがキリストの使徒パウロになるきっかけにな ったのです。サウロはステパノの殉教に本当の神の僕の姿を見たのです。ステパノの死がサウ ロの死せる魂を甦らせたのです。  なぜそれができたのか?。それはステパノが最後まで「つまずかなかった」からです。さら にはエルサレム教会が迫害によっても「つまずく」ことがなかったからこそ、サウロを救う神 の恵みの証人たりえたのです。むしろ人々は教会の中で「つまずいた」人々を励まし、忠実に 教会に仕え、キリストの証人として死に至るまで従順でした。それはジェンケヴィッチが“ク ォ・ヴァディス”に描いた使徒ペテロの姿でもあります。迫害の嵐吹き荒れるローマから避難 すべくペテロがアッピア街道を歩いていると、途中で復活の主に出会いました。驚いたペテロ は「わが主よ、何処に行きたもう?」(クォ・ヴァディス・ドミネ)と訊いた。すると主は答 えて言われた「われローマヘ行かんとす。もし汝がわが教会を棄ててローマを去るなら、われ 再び十字架にかかるためにローマに赴くべし」。この言葉を聴いてペテロは決然としてローマ に引き返し、殉教の死をとげたと伝えられているのです。  こうしたことは、ステパノやペテロ自身の力によるのでしょうか?。特別な強い人間だから できたのでしょうか。そうではありません。ステパノもペテロも私たちと同じ弱い人間でした。 彼らはただその弱さの中に働きたもうキリストの贖いの満ち溢れる恵みの内を歩んだのです。 たとえ自分が「つまずく」ことがあっても、キリストの生命が、キリストの祝福が、福音の豊 かな慰めと喜びが、何度でも彼等を立ち上がらせ、支えたのです。彼らはいつも「まことのぶ どうの木」であられるキリストに連なる「枝」であり続けたのです。だから、たとえ自分が弱 くても「つまずく」ことはなかったのです。キリストが存在の根底から支えていて下さるから です。その幸いを同じ「つまずき」の中にある人々にも鮮やかに指し示すことができたのです。  主は言われました。今朝の御言葉の4節です「わたしがあなたがたにこれらのことを言った のは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。 これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである」。 ここで主が言われる「彼らの時」とは、キリストを信じる者がその信仰のゆえに多くの苦しみ を受ける「時」のことです。それは私たちにとって今のこの時代です。その苦難の「現代」に あたり、同じヨハネ伝15章16節以下に記されている恵みを主は私たちにはっきりと告げて下 さいます「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。 そして、あなたがたを立てた」と。  まさに私たち全ての者を贖うために、主イエス・キリストは十字架を担って贖いの死をとげ て下さいました。私たちはキリストが既に十字架によって罪と死を打ち滅ぼして下さった世界 に生かしめられているのです。キリストが永遠に主でありたもう世界に「立てられている」の です。いま私たちは教会において堅く主に結ばれ「つまずく」ことのない者とされているので す。フォーサイスが語るように「十字架によって歴史の中に救いが決定した」のです。救いは いま確定しているのです。神の愛が永遠に勝利し、祝福の生命が世界を潤し、キリストが永遠 に救い主であられる世界に、私たちはいま存在しているのです。  主イエスを3度も裏切ったペテロに、あの最後の晩餐の席で主は語って下さいました。「シ モン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と。終末にお ける永遠の勝利が、いまイエス・キリストにおいて先取りされ、私たちが連なるこの教会にお いて礼拝の内に豊かに現れているのです。いま御言葉と聖霊によって私たちのただ中に現臨し ておられるキリストは、十字架の御傷そのままにしかも甦られたかたなのです。全ての罪の贖 い主であり、復活の勝利の主であられるかたなのです。そのかたがいまここに、私たちと共に、 永遠までも共にいて下さるのです。そこでこそ私たちは、決して「つまずかない僕」(主の御 手に支えられた僕)とされているのです。ここに主の御身体なる「聖なる公同の教会」がある のです。