説    教   イザヤ書44章6〜8節  ヨハネ福音書15章26〜27節

「始めより我と共に」

2010・08・15(説教10331337)  主イエス・キリストは今朝のヨハネ伝15章27節においてこう言われました。「あなたがた も、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである」。ここで「あかしを する」とは“明らかにする”という意味です。すなわち前の26節において「わたしが父のみ もとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御 霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」と語られたことを指しているので す。  もしも今朝の御言葉が26節だけなら、私たちはむしろ抵抗なく聴くことができるでしょう。 なぜならそれは「わたしがあなたがたに“真理の御霊”なる聖霊を遣わすとき、あなたがたは その導きによって、本当にわたしがキリスト(世の救い主)であることをはっきりと知るであ ろう」という意味になるからです。しかしそこに27節の御言葉が加わるとき、私たちは途端 に当惑してしまうのです。と申しますのは、主イエスはここに「あなたがたも初めからわたし と一緒にいたのであるから、あかしをするのである」と語っておられるからです。つまり主イ エスは、父なる神の御もとから「真理の御霊」を遣わされる理由として、それは「あなたがた」 が「初めからわたしと一緒にいた」からであると語っておられるのです。このことに私たちは 驚き戸惑うほかはないのです。  単純に考えてみれば良いのです。いったい私たちのうちの誰が「初めから」主イエスと「一 緒にいた」などと言えるでしょうか。主イエスが「初め」と言われるのは単に時間的な順序や、 他と比較して自分は何番目かという問題ではないのです。そうではなく、聖書の元々のギリシ ヤ語でこの「初め」と訳された“アルケー”という言葉は“歴史を超えた万物の始まり”とい う意味です。たとえば旧約の創世記1章1節に「初めに神は天と地とを創造された」とありま す。その「初めに」というヘブライ語のギリシヤ語訳が“アルケー”です。だからその「初め」 とは、私たちが何かを始めることではなく、ただ神の御手による根本的な「初め」です。まさ にそのような神の御手の中にしかない御言葉を、主イエスはここで用いておられるのです。  だからこそ私たちは本当に驚かざるをえません。私たちのうちいったい誰が、そのような根 本的な「初め」を主イエス・キリストと“共にしていた”と言えるでしょうか。私たちは神の ような永遠なる存在なのでしょうか?。むしろ私たちは肉なる人間にすぎず、この世に誕生し た「時」を持ち、限られた人生の「時」を生き、やがて死ぬべき「時」を迎える、有限な存在 にすぎないのです。そのような私たちがどうして主イエスから「あなたがたは初めからわたし と一緒にいた」などと言って戴けるのか?。主イエスは嘘をついておられるのでしょうか。そ れとも何か意図があって誇張した表現を用いておられるのでしょうか。いずれにせよ私たちの 常識と現実からは考えられない言葉です。これほど難かしい御言葉はないとさえ言えるでしょ う。  ところで、この「初め」という言葉はもう一箇所、同じヨハネ伝8章25節にも出て参りま す。それは主イエスが「あなたはいったい、どういうかたですか」と問うパリサイ人らに対し て「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか」と答えて おられる場面です。この8章25節についてソウターというイギリスの優れた聖書学者が「聖 書の中で最も難しい言葉である」と語っています。そしてソウターはみずから編集したギリシ ヤ語辞典の中で、この「初め」という言葉について「この言葉は未だかつて正しく解釈された ことがない」とさえ語っているのです。同じことが今朝の15章27節にも言えるのです。  そこで私たちがこの「初め」という御言葉をよく読むとき、実は8章25節にも今朝の15章 27節にも共通する、ひとつの大切な事柄があることに気が付くのです。それは、いずれの箇所 でも主イエスは御自分がキリスト(世の救い主)であられることを「あかしする」(明らかに する)ために、この「初め」という言葉を用いておられるということです。私たちはここに心 を注ぎたいのです。それは私たちの信仰の本当の意味を問うことだからです。私たちは「信仰」 について思うとき、実は自分のことしか考えていないことが多いからです。「信仰」がわかっ ているようでいて、実はわかっていないことが多い私たちなのです。  ある国語辞典で「アーメン」という言葉を調べたらこう書いてありました。「アーメン、そ れは真実です、という意味。祈りの最後に、自分も同じです、という意味で用いる」。これは 半分正しく、半分間違っています。たしかに「アーメン」という言葉はヘブライ語で「それは 真実です」という意味です。しかし「祈りの最後に、自分も同じです、という意味で用いる」 とあるのは間違いです。私たちが祈りの最後に「アーメン」と唱えるのは「自分も神と同じよ うに真実です」と神に申し上げることではありません。そうではなく、神に対して、ただ神の みが“真実でありたもう”と告白することなのです。神を信じる自分の真実さではなく、ただ 主イエス・キリストの御言葉と御業における神の真実のみを崇め告白する言葉が「アーメン」 なのです。だから私たちは祈りの最後にかならず「アーメン」と唱えるのです。しかもそれは 私たちの名によってではなく「主イエス・キリストの御名によって」唱えられるのです。  言い換えるならこういうことです。「主よ、あなたの真実は常に私の罪と不真実を超えてい ます。十字架の主の真実がいつも私の朽つべき全存在を覆っていて下さいます」。それが「ア ーメン」ということです。もし私たちに神と等しい真実がなければ救われないとすれば、私た ちの「救い」は永遠にありえず、救われる人間は地球上に一人もいないでしょう。私たちが天 地創造の昔からキリストと共に在る存在でなければ“救われない”のだとすれば、そこには絶 望しか残りません。しかしヘブル書12章10節には、神は「ご自身の神聖(永遠性)にあずか らせるため」に私たちを訓練したもうとあります。また使徒パウロは「キリストの満ち満ちた 徳の高さに至るまで」歩んでゆくべきことを勧めています。それは私たちが自分の力で神と同 じ真実に到達することではありません。そうではなく「朽ちるべきものが、朽ちないものに覆 われ、死ぬべきものが、死なないものを着ること」なのです。私たちの内の「古き罪の人」が キリストによって贖われ、キリストの義によって「新しき人」へと甦らされることです。それ を信じることが「信仰」であり、そこに私たちの確かな「救い」があるのです。  そこでこそ、ローマ書3章21節はこう語ります「しかし今や、神の義が、律法とは別に、 しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる 信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」。この「神の義」とは 罪からの確かな救いと復活の永遠の生命です。それは「律法と預言者とによってあかしされ」 しかも「律法とは別に現された」のです。それこそが「イエス・キリストを信じる信仰による 神の義」なのです。そこでこの「神の義」(私たちのためになされたキリストの御業)こそ「永 遠」なるものです。御子イエス・キリストによる世界の救いは永遠の昔から、つまり万物の「初 め」から、三位一体なる神の聖なる御心の内にあったことです。黙示録にあるようにキリスト は「世の初めよりほふられたる神の羔」です。その「神の義」(確かな救い)が歴史の中に、 歴史を超えた永遠なる神のもとから、歴史の中に人となりたもうたイエス・キリストによって、 私たちのただ中に現わされたのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。私たちは歴史の「初め」から主イエスと共にい た者でないのは当然です。しかしまさにその私たちを、主イエスはただ十字架の測り知れぬ恵 みによって「初めからわたしと一緒にいた者」と呼んで下さるのです。「なんぢ初より我とと もに在りたればなり」と宣言して下さるのです。私たちはいま在るがままに、主イエス・キリ ストの永遠の救いの御心の内に「一緒にいた」者とされているのです。それほどの「聖なる愛」 をもって、主は私たち一人びとりの名を呼んで下さるのです。少しも私たち功績ではありませ ん。ただ御子イエス・キリストを信じる信仰による「神の義」(私たちのためになされたキリ ストの御業)を戴いている者として「あなたはいま『世の初めからわれと共にありし者』とさ れているではないか。あなたの『救い』は永遠の昔から神が定めて下さったものではないか」 そのように主ははっきりと告げていて下さるのです。  だからこそ主は「わたしは…あかしをするのである」と言われました。「真理の御霊」なる 聖霊があなたがたに降るとき、あなたがたは「わたしについて」の「あかし」をするであろう と。それはなにかと言えば主イエスの御業なのです。私たちが主を信じて教会に連なって生き るとき、私たちの全生活を通してキリストの愛と祝福が「あかしされる」のです。だから私た ちの信仰は自分の所有物ではありません。そうではなく、私たちの信仰は主イエス・キリスト が「真理の御霊」によって与えて下さった「神の義」そのものであり「聖なる公同の教会」の 信仰告白に連なることです。それこそ十字架のキリストによる確かな「救い」にあずかること なのです。私たちの信仰は世々の聖徒たち(ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、エ レミヤ、ペテロ、パウロ)が告白したのと同じ信仰なのです。聖なる公同の教会の信仰告白に 「アーメン」と連なるとき、私たちはいま聖霊によって現臨しておられる活ける復活の主に出 会っているのです。まさにそのキリストの現臨を「最も大切なこと」として宣べ伝えているの が私たちの教会なのです。  先日、私たちは信仰の大切な友である中村執事を天に送りました。兄弟はまことに忠実な主 の僕でした。私たちは兄弟と共に主の御名を崇めます。帰天者(信仰の先達)たち、今は主に ありて永遠の故郷なる天に憩う全ての人々、その人々と私たちがいま共に戴いている恵みは何 でしょうか。それこそ主イエスが今朝の御言葉により、はっきりと「なんぢら初より我ととも に在りたればなり」と告げていて下さるその「神の真実」なのです。私たちは十字架の主の贖 いの恵みに生かされ、キリストの御業という「神の義」を身に纏うて生き、そして天に住処を 備えられている主の証人たちなのです。私たちはともに「初より我とともに在りたればなり」 と主が告げていて下さる永遠の救いの御手の中に生かされているのです。罪も死もいかなる力 も、キリストに贖われた私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。それこそ最初か ら家族であった者の絆をもって、主は私たちを天の家族の一員としていて下さる。その絆から 誰もあなたを引き離す者はないとはっきり告げていて下さる。「あなたがた」は「初めからわ たしと一緒にいたのであるから」と告げていて下さるのです。  あの“ぶどう園の譬”で、早朝からぶどう園で働いた者にも、日没間近になって来た者にも、 主なる神は等しく1デナリを与えて下さいました。その1デナリとは主イエス・キリストによ る永遠の生命(罪の贖いと復活の生命)です。ある人が主に「なぜ後から来た者と初めからあ なたと一緒にいたわたしを同じ扱いになさるのですか」と問いました。すると主は「友よ、わ たしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」と答えられたのです。それが主の御 心なのです。私たちはみな「この最後の者」にすぎません。しかしその私たちを、主は「初め から一緒にいた」者のごとくに愛し、永遠の生命の恵みを与えて下さるのです。その確かな救 いの恵みに、私たちはいまここで、主の御身体なる教会により、豊かに与からしめられている のです。