説    教  エゼキエル書2章1〜2節  ヨハネ福音書15章20〜25節

「永遠なる慰め」

2010・08・08(説教10321336)  あるとき主イエス・キリストは弟子たちに「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさる ものではない』と言ったことを、おぼえていなさい」と言われました。同じヨハネ伝13章16 節の御言葉です。主は十字架を目前にされて「よく、よく、あなたがたに言っておく。僕はそ の主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない」と言わ れたのです。では私たちはこの主イエスの御言葉を「おぼえて」いるでしょうか?。この「お ぼえる」という元のギリシヤ語は「いま自分に与えられている救いの出来事を信じる」という 言葉です。主イエス・キリストによっていま私たちに与えられている生命(救いの出来事)を、 この私と全世界への福音として信じ告白し、主の御身体なる教会に連なって生きることです。    この御言葉において「主人」とはもちろん主イエスであり、「僕」とは私たちのことです。 私たちは主イエス・キリストに「まさるもの」でないことは当然のことです。しかしそれは単 なる比較の問題(神と人間との違い)ではないのです。なにより主イエスがここで明らかにし ておられることは“十字架の恵みの絶対性”ということです。それはどういうことでしょうか?。 それは主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みに逆らえる「罪」の力は存在しないというこ とです。いかなるこの世の力も、罪も死も、十字架の主「イエス・キリストにおける神の愛」 から私たちを引き離すことはできないのです。それが“十字架の恵みの絶対性”です。キリス トの十字架こそ私たちの絶対の救いの力なのです。    するとなおさら、そこで明らかにされることは、私たちはいま誰に属する群れとして生きて いるのか、誰を「主」として教会に連なっているのかということです。主イエスは「あなたが たがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と言われました。そ して「あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び 出したのである」とはっきり告げて下さいました。これをこそ私たちは「おぼえて」いなくて はなりません。私たちはいまこの教会において、すでに主イエス・キリストに連なる「救われ た者」とされているのです。あるがままにキリストに属する者とされているのです。    その事実を保障する福音が今朝の御言葉であり、これが“十字架の恵みの絶対性”なのです。 キリストが私たちのいっさいの「罪」を担って十字架にかかって下さり、私たちのために贖い の死を遂げて下さり、復活して下さった。だからもはや私たちは「罪」と「死」の支配のもと にではなく、キリストの永遠の恵みの御支配のもとにあるのです。私たちは教会においてキリ ストの十字架の贖いと復活の勝利の生命に結ばれている者たちです。今ここにおいて「まこと のぶどうの木」なるキリストに連なる活きた「枝」とされているのです。    そこでいよいよ明らかなことは「主人」であられる主イエス・キリストと「僕」である私た ちとの活きた関係です。それは極みなき愛をもって私たちを愛し神に立ち帰らせて下さった主 イエスと、その愛によって救われ贖われた私たちとの関係です。そこでこそ「僕はその主人に まさるものではない」と言われた主の御言葉の意味が明らかになるのです。主の十字架によっ て全ての「罪」を贖って戴いた私たちは、キリストの極みなき愛に応えて生きる僕とされてい るのです。そこに本当の自由と平和と喜びがあります。私たちは自分の救いについては全く無 力な者にすぎず、ただキリストの御業と御力のみが私たちの確かな救いなのです。救いは少し も私たちのわざではなく、ただ十字架の主の御業であるゆえに、その救いは永遠に確かなので す。それを「おぼえていなさい」(いま自分に与えられている救いの出来事として信じなさい) と主は私たちに言われるのです。    墓に葬られたラザロを主が甦らせたもうたとき、主は疑うマルタに「信ずる者には、何でも できる」(それをあなたは信じるか?)と言われました。私たちもマルタのように主を疑うこ とがあるのです。キリストが「主」であられることはわかる。しかし私たちの人生には不条理 な病気や災害や苦しみがあるではないか。この疑問と共に私たちも主を疑うのです。そこでこ そ主は私たちに告げて下さいます「信ずる者には、何でもできる」と。不思議な言葉です。し かしこれは事実なのです。なぜならここで「何でもできる」のは私たち自身ではなく、私たち の人生の主であられるキリストご自身だからです。主は十字架において私たちの全てを贖い、 私たちの「からだ」すなわち全存在を(身も心も魂も全てを)復活の生命にあずかる者として 下さいました。キリストに結ばれて生きる者の人生には主ご自身が御業を現わして下さるので す。だから「信じる者には何でもできる」のです。ローマ書8章32節にこうあります「ご自 身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、 御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。私たちはイエス・キリストにおいて「万 物」を神から賜わっているのです。存在を虚無に陥れていた罪から十字架の主に贖われた私た ちは、この世界と人生の全体を主の御手から限りない祝福として賜わっているのです。    キリストの弟子たちには絶えざる願いがありました。それは、どうにかして一人でも多くの 人々に十字架の主による救いの出来事と祝福を宣べ伝えたいという願いでした。ヨハネ福音書 が書かれた西暦2世紀の初めはローマ帝国によるキリスト教迫害が始まった時代です。教会に 連なる人々は信仰のゆえに家を奪われ、職を追われ、家族を引き離され、財産を没収され、鞭 で打たれ、殺害されました。しかし教会員は地下の隠れた礼拝場所に集まり、自分たちを迫害 する世の人々のために神の祝福と赦しと救いを祈り続けたのです。殉教者たちの棺がそのまま 聖餐の食卓になりました。迫害の苦しさに耐えかねて信仰から離れてしまう人もいました。し かし信徒たちは祈りをもって互いに励まし合い、キリスト者の数は減るどころか逆にふえ続け てゆきました。殉教者の祈りと血が献げられるところに新しい主の教会が建てられてゆきまし た。なによりも日々の信仰の歩みの中で、人々はいつも今朝のこのヨハネ伝15章20節以下の 御言葉に“永遠なる慰め”を見いだしていたのです。この御言葉が説教壇から語られるたびご とに、人々はそこに鮮やかに十字架の主を「おぼえた」(信じ告白した)のです。そしていっ さいの栄光を神に帰したのです。    主は言われました。「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。 また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。彼ら はわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わ たしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。もしわたしが来て彼らに語らなかった ならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪につ いて言いのがれる道がない」。    ここには主の弟子たち、また初代教会の人々にも共通した切実な思いがありました。自分た ちは主の教会に連なる者として世の人々に福音(十字架の主イエス・キリスト)を宣べ伝えて いる。しかしその結果は激しい迫害であった。それはどうしてなのか?。主は言われるのです 「(それは)人々が(まず)わたしを迫害したからである」と。だからあなたがたが苦しみに 会うなら、それはあなたがたが私の弟子である証拠なのだ。教会を通して福音が宣べ伝えられ ることは、生けるキリストのお姿が世に現わされることです。主ご自身が御業を現わしたもう ことです。そこには人間の罪も噴き出るのです。まさにその事態を予告されるように主は語っ ておられるのです。「もしわたしが来て彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないです んだであろう」と。そして続く24節にはこうも語られました「もし、ほかのだれもがしなか ったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであ ろう」。    それは譬えるなら、夜が明けて太陽が昇ることに似ています。太陽が昇ると全てのものが明 るく照らされます。そのとき影の部分もくっきりと現れるのです。日差しが強ければ強いほど 影の濃さも際立つのです。それと同じように、十字架の主の福音が世界に宣べ伝えられるとい うことは、その福音の光によって人間の罪の姿も明らかにされるということです。それこそ 「罪」の支配から全ての人々を救うための主の御業なのです。私たち人間は罪に漬かりこんだ 存在(罪が体質そのものになった存在)ですから自分では「罪」がわかりません。ただ福音の 光に照らされてのみ、私たちの真の姿とまことの救いが明らかになるのです。それこそパスカ ルが語るように、私たちはただ十字架の主によってのみ自分の「罪」を知り、それと同時に同 じ主から「汝の罪、赦されたり」との恵みの宣言を「いま自分に与えられている福音の出来事」 として聴くのです。    私たちは、私たちを限りなく愛され、十字架を担われた主イエス・キリストによって救われ、 神の国の民とされたのです。教会により主の復活の生命に連なる者とされたのです。では私た ちは、ただその恵みを受けるだけで良いのでしょうか?。救いの恵みを戴いた私たちの生活は、 主に贖われた感謝と自由をもって、神の栄光を現わすものへと変えられてゆくのではないでし ょうか?。それこそ使徒パウロが語るように「キリストの内に自分を見いだす」私たちとされ ているのです。キリストに結ばれることにより「古き人」(罪の支配)は終わりを告げ、「新し き人」(キリストの恵みのご支配)が私たちの中に始まったからです。だから私たちは安心し て蹲るのではない。安心して立ち上がり、主のご支配の内を勇気をもって歩む者とされている のです。    今朝あわせてお読みした旧約エゼキエル書2章1節以下に、エゼキエルが神により預言者に 召された出来事が記されています。主なる神は彼にこう言われたのです「人の子よ、立ちあが れ、わたしはあなたに語ろう」と。そのとき「霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがら せた」とエゼキエルは語っています。この「霊」とは聖霊(贖い主なる神の救いの御力)です。 私たちも主の御身体なる教会に連なる者として、いつもこの神の御力のもとにあるのです。そ こに十字架の主の福音をいつも「いま自分に与えられている救いの出来事として信じる」生活 (礼拝生活)が新たにされてゆきます。私たちではなく、キリストご自身が御業を現わして下 さる生活です。「信ずる者には、何でもできる」。  私たちはいつも礼拝者として御言葉を正しく聴き、十字架の主の恵みに「アーメン」と告白 し応える群れでありたいと想います。そうするなら、そこに必ず神の救いの御力が私たちを通 して世に現わされるのです。キリストの十字架の恵みの絶対性の中に全ての人々の真の救いが あるのです。主が生命を献げてこの世界を、そして私たちの朽つべき全存在を贖い取って下さ った事実に、全ての人々の確かな救いがあり、世々の聖徒らを雄々しく生かしめ導いた「永遠 なる慰め」があるのです。私たちは今それを勝利の主の御手から豊かに受け取っているのです。