説   教  歴代志上16章28〜29節  ヨハネ福音書15章18〜19節

「人生の唯一の主」

2010・08・01(説教10311335)  私たちキリスト者は救い主イエス・キリストによって罪を贖われ「天に国籍ある者」とさ れています。しかしその恵みの中でこそ、生活の場をこの地上に持っている私たちでありま す。旧約聖書のエノクや預言者エリヤのような例外はありますが、私たちは一足飛びに天国 に移されるわけではありません。かならずこの地上の生涯、一人びとりに与えられた人生の 歩みの全体を通して、永遠の御国に入る道を主が備えておられるのです。その意味ではエノ クやエリヤもそうなのです。私たちは与えられた人生の旅路を神の賜物として重んじるので す。  それは突き詰めて言うなら、私たちの人生の全体が、その一日たりとも省略することのでき ない“神の国”への旅路だということです。その全てに意味と目的があるのです。だから人 生は一本の橋に譬えられます。橋の役割は向こう側に人を渡すためであって、その上に滞在 するためのものではありません。同じように私たちは人生にいつまでも滞在することはでき ない。やがて去なくてはなりません。しかしこの人生という「橋」を渡らなければ決して「永 遠の御国」という目的地に行くことはできないのです。そこに人生の限りない意味と尊さが あるのです。  そのことは、私たちの人生には真の唯一の「主」がおられること、この主の贖いの恵みに 本当の生命があることを意味します。そのかたこそ主イエス・キリストです。キリストのみ が私たちの罪を十字架で贖って下さった唯一真の救い主です。すると、私たちの人生は何に 属するものなのかが明らかになるのです。私たちはこの人生という「橋」を渡っている者で すが、私たちの目的地は「永遠の御国」にあり、私たちの「国籍」も主なる神のもとにある のです。  そこで、主イエス・キリストは今朝のヨハネ伝15章19節の御言葉ではっきりと言われま した「もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分の ものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わた しがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むので ある」。  ここで主が明確に告げておられることは、私たちは「この世」に属するものではなく「神」 に属する者たちであるという事実です。言い換えるなら、私たちの人生の「主」は「この世」 ではなく「唯一の主なる神」であり、そのかたのみが「人生の唯一の主」だということです。 だから主は言われます「もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あ なたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。 かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである」。  主が私たちを「永遠の御国の民」としてお選びになったから「だから、この世はあなたが たを憎むのである」と主は言われるのです。では、私たちはこのように主が語られたように、 自分の人生を「神に属する」ものだと自覚しているでしょうか。主イエスに“選ばれた者” としての喜びと自由と幸いに生きているでしょうか?。逆に問うならば、私たちは主イエス に属する者として、ときに「この世」に「憎まれる」ほどの経験をしているでしょうか?。 それとも私たちは「この世」に「憎まれる」ことを恐れ、人の人気を失うことを憚るあまり、 自分が「神に属する者」であることを恥じ隠してはいないでしょうか?。「この世」に遠慮し て、キリストの「選びの恵み」を足蹴にしていることはないでしょうか?。  私たちはこのヨハネ福音書の御言葉を丁寧に読んで参りまして、この15章の中ほどに至っ てはっきり見えてきたひとつの光景があるのです。それは私たちのために主が担って下さっ た十字架の光景です。私たち全ての者の「罪」の贖いとして神の御子が死んで下さった出来 事です。すでに主イエスとパリサイ人、祭司、律法学者との対立は決定的なものになってい ました。弟子たちの身にも危険な情勢が日々刻々と感じられていました。どうも自分たちの 先生はユダヤの王様になられるのではなく、こともあろうに十字架にかけられそうな形勢だ。 このことを察知した弟子たちは大きな恐れと不安を感じました。まさに「この世」が自分た ちを「憎み」はじめていることを感じて不安におののいたのです。  だからこそ主はいま弟子たち(私たち)に言われるのです。「恐れないがよい」と。わたし の平安の内にいなさい。なぜならあなたがたは私が「この世から選び出した」者たちだから である。あなたがたはいま「この世」が自分たちを憎み敵対していると知って不安に捕らわ れている。しかしあなたがたは「この世」に属する者ではなく、わたしが選んだ者たちだか らこそ「この世」はあなたがたを「憎む」のである。たとえ「この世」に憎まれることがあ ろうとも、それはあなたがたが本当に私の「弟子」である証拠なのだ。そのように主ははっ きりと言われるのです。  そして何よりも「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎 んだことを、知っておくがよい」と主は言われます。これがとても大切な御言葉です。ここ で「憎んだ」と訳された元々の言葉は「(十字架で)抹殺した」という意味ギリシヤ語だから です。すると主は18節でこう語っておられるのです「もしこの世があなたがたを憎むときに も、あなたがたは忘れないでいなさい。あなたがた全ての者に先立って、この全世界の救い のために、わたしが十字架において抹殺されたことを」。つまり主イエスはこの18節で明確 にご自分の十字架の出来事を告げておられるのです。すでに主は私たちのために全てを献げ ておられるのです。私たちの人生が罪と死の縄目に絡みつかれ「落ちて」ゆくとき、その落 ちてゆく私たちの全存在をしっかり受け止めて下さる唯一の「救い主」として、すでに主は 十字架を背負っていて下さいます。ただそのようなかたとしてのみ御言葉を語っておられる のです。  十二人の弟子たちでさえ十字架の出来事を目前にして、自分たちも「この世」から抹殺され ることを恐れ、主を裏切って逃げました。しかし復活された主に出会い、主の平安と祝福と 派遣によって新たに立ち上がったとき、もはや弟子たちは以前の弟子たちではありませんで した。彼らはキリストのために「この世」から憎まれることさえ厭わぬ、まことの主の弟子 とされていったのです。そしてあのペンテコステ(聖霊降臨)の出来事によって、弟子たち は全世界へと御言葉と祝福を携え、その生涯を主の証人として喜んで献げる者になりました。 弟子たちに続く初代教会の人々は、あのローマ帝国の激しいキリスト教迫害の嵐の中で伝道 をし、地下の礼拝堂で真の礼拝を献げ、聖礼典を行い、教会形成をし、「聖徒の交わり」に生 きたのでした。  そもそも私たち人間は、誰かから憎まれたら相手をも憎み返す。誰かから酷い仕打ちを受け たらそれを倍にして復讐しようとする「罪」の性質を持っています。しかし主の弟子たち、 また初代教会の人々は、どんなに「この世」から憎まれてもこの世を憎み返すことをしませ んでした。なぜなら彼らは「この世」にではなく十字架の主に属する「神の僕」だったから です。主は十字架の上からご自分を十字架にかけた「この世」の全ての人々を赦し、祝福を 祈られ、彼らに救いを告げたまいました。だからこそ「もしこの世があなたがたを憎むなら ば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい」と主は言われたので す。それはただ時間的な前後の問題ではなく、主はこの世の罪の全て、神に敵対し抹殺せん とする私たち人間の「罪」をことごとく十字架に担われ贖いの死を遂げて下さったのです。 それを「知っておくがよい」(いま信じなさい)と主は言われるのです。  一昨日の祈祷会で一人の長老が奨励をしました。先日24日に天に召された中村功執事のこ とにふれ、中村執事があるとき長老会で言われた言葉を改めて思い巡らしました。中村兄弟 は最愛の息子さんの突然の死という測り知れない悲しみを通してキリストに導かれた人です。 そのことを中村兄弟は「私は息子の突然の死という測り知れない苦しみの中から、キリスト によって救われました。だからこれからの生涯をキリストへのご恩返しとしたいのです」と 言われたのです。去る5月9日(日)に中村執事は重篤の病の身であるにもかかわらず礼拝に出 席され、当番長の務めを立派に果たされました。それこそ中村兄弟が地上の葉山教会の礼拝 に出席された最後の姿になりました。兄弟は本当に全生涯を通して「キリストへのご恩返し」 をなさったのです。その姿がいま私たちの心を神讃美へと向かわせるのです。  私たちは本当に、ときに「この世」から憎まれるほど十字架の主への「ご恩返し」をして いるでしょうか?。キリストのみを自分の「人生の唯一の主」としているでしょうか?。私 たちは「この世」の顔色だけを見て恐れ、いつのまにか安全なパリサイ人の立場に立ってい ないでしょうか?。「神」ではなく「この世」に属する者になっていないでしょうか?。主は 言われました「あなたがたは神とこの世とに兼ね仕えることはできない」と。私たちは「二 心の者」になってはいけないのです。私たちはキリストが生命を献げて選び取って下さった 者たちなのです。人生の全ての局面において、キリストに贖われた者(神の民)として福音 に堅く立って生きてゆく者であり続けようではありませんか。真のキリスト者は、たとえこ の世から「憎まれ」ても相手を呪いません。非通知の無言電話もかけません。むしろ相手を 赦し祝福し、その救いのために祈り働きます。そのとき世から「憎まれる」ことは使徒パウ ロの言うように「キリストのために苦しみをも恵みとして賜わっている」ことなのです。正 しいことをして(神と人とを愛して)それでもなお世に憎まれるなら、私たちはキリストの ゆえに、ただキリストを信ずるのみならず、キリストのために苦しむことをも「恵みとして 賜わっている」のです。  ドイツ告白教会の牧師として、ヒトラーのユダヤ人虐殺に真正面から反対し、強制収容所で 処刑されたボンヘッファー牧師は、処刑される直前、愛読していた聖書の表紙裏にこう書き ました「これは終わりです。しかし、キリストに贖われ、教会に結ばれた者にとっては、新 たなる始まりです」。ボンヘッファー牧師は「キリストに属する者」として、たとえ「この世」 に憎まれても(抹殺されても)最後まで「この世」の救いと祝福のために、キリストの僕と してみずからを献げたのです。私たち一人びとりもまた、多くの主の証人たちと共に「キリ ストへのご恩返し」に生かされている主の僕たち(御国の民)なのです。その私たちの人生 を、主がいつも共にいて導き支え祝福して下さるのです。  西暦2世紀、初代教会の時代に書かれた「ディオグネトスへの手紙」という文書の中にこ ういうくだりがあります。「キリスト者は自分たちを憎んでいる者を愛する。魂が身体に取り 囲まれていながら逆に身体を支えているのと同じように、キリスト者も世界の中にありつつ この世界を祝福と執成しによって支えている。……キリスト者たちはこの世に生活している が、この世に属する人々ではない。この世の人々は彼らを苦しめるが、キリスト者たちはこ の世の人々を愛する。この世の人々は法律が定めることだけを守るが、キリスト者たちは神 の福音に生きるゆえに、法律以上の善き行いに生きる。彼らにとってこの世界の全てが異国 であるが、彼らは天に国籍を持つゆえに、この世界のどこにおいても懐かしい故郷を見いだ す」。  どうか私たちは、そのような信仰の志に溢れた主のまことの教会を、ここに建てて参りた いと想います。そしてこの人生の日々をかけがえのない「永遠の御国」への旅路として、キ リストに属する者として、心を高く上げて歩んで参りましょう。