説     教    申命記7章6〜8節  ヨハネ福音書15章16〜17節

「われ汝を選べり」

2010・07・25(説教10301334)  今朝のヨハネ福音書15章16節は聖書の中で最もよく知られた御言葉のひとつです。今朝のこ の御言葉がご自分の“愛唱聖句”だというかたも少なくないのではないでしょうか?。主イエス はこのように言われました「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選 んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実 がいつまでも残るためである」。そこで、私たちはこの御言葉を“当然のこと”として受け止め るかもしれません。私たちが主イエスを選んだのではなく、主イエスが私たちを選んで下さった のだ。改めて聴くまでもなく、それは“当然のこと”ではないかと私たちは考えています。しか し本当にそうなのでしょうか?。本当に私たちはこの御言葉を“当然のこと”として聴いている のでしょうか?。  主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない」とはっきり言われます。もともとのギ リシヤ語原文の順序で申しますなら「何々ではない」(英語のnot)という否定の言葉がまず最初 に来て、その次に「あなたがた」という意味の“ヒュメイス”という言葉が続きます。そしてさ らに「わたしである」と主の御言葉が続き、そのすぐ後に「わたしが選んだのだ」という主の恵 みの宣言が続いているのです。つまり、口語訳の聖書では句読点をつけて区切ってありますが、 本来これは文語訳が示すように、ひとつの流れと中心を持つ文章なのです。ですからこの16節 を原文に忠実に直訳しますなら「あなたがたではなく、わたしである。わたしが、あなたがたを 選んだのだ」となるのです。つまり単なる“選びの方向”の問題ではなく、主イエス・キリスト が私たちを選んで下さったという事実に今朝の御言葉の確かな中心があるのです。  もしこの御言葉が単なる「選びの方向の違い」の問題であったなら、私たちが主イエス・キリ ストを選ぶ場合の「選び」も、キリストが私たちを選びたもう場合の「選び」も、同じ「選び」 であることに変わりはありますまい。ただ「選びの方向」だけが違うという問題になるのです。 もしそうならいっそ私たちにはとてもわかりやすいのです。自分が主イエス・キリストを“選ん だ”というならその選びは不確かだけれども、主イエス・キリストが私たちを“選んで下さった” というならその選びこそ確かなものである。私たちはごく自然にそう思えるからです。私たちの 常識で判断できるのです。どちらが与え主でどちらが受け手かという問題になるからです。  しかし今朝の御言葉は、ただそれだけに尽きないのです。私たちが常識で「わかった」と言っ て読み過ごすことができない御言葉なのです。それが先ほど申した「あなたがたではなく、わた しである」という確かな中心点(キリストの十字架の恵み)です。ここに主イエスははっきりと 言われるのです「あなたがたではなく、わたしである。わたしが、あなたがたを選んだのだ」と …。ここにいま主が私たちの中心に立っておられるのです。私たちのために十字架を担われたか たとして…。この“十字架の主”のみが私たちを選んで下さったのです。それは私たちの持つ「選 び」とは根本的に違う「神の選びの恵み」です。与え主と受け手の違いという問題ではないので す。そのことを明確に示すのが、続く16節後半にある「そして、あなたがたを立てた」という 主の御言葉です。実はこの「立てた」と訳されたもとの言葉は「任命する」とか「指名する」と いう意味の(英語の聖書では「アポインテド」と訳される)言葉です。主はいま私たちに「わた しは恵みをもってあなたを任命した」と言われるのです。「あなたこそ、わたしが選んだ人であ る」と主は宣言して下さるのです。  現代社会はさまざまな技術が高度に発達し生活が便利になった反面、人間が大切なものを失い つつある時代です。その中でも現代社会が失った最大のものは何かといえば、それは「人間一人 びとりの“かけがえのなさ”」ではないでしょうか。人間の価値が物質の価値に置き換えられて しまった。人格が物質と同列になってしまった。そこに現代社会の最大の問題があるのです。あ る意味で現代社会は徹底的な唯物論の上に成り立っていると言えるのです。  だいぶ以前の新聞にこういう記事がありました。東北のある小学校で理科のテストをしたとき、 問題の中に「氷が溶けたら何になりますか?」というものがあった。もちろん理科の問題ですか ら「水になります」という答えが正しいのです。それが相対的評価です。ところがどういうわけ か一人だけ違う答えを書いた女の子がいました。その子は「春になります」と答えたというので す。「氷が溶けたら、春になります」。もちろんこれは不正解なのですけれども、しかしその子の 担任の先生はその答えに「すばらしい!」と書いたそうです。正解ではないけれども、しかしあ なたの答えは「すばらしい!」。それが絶対的評価です。正解ではないけれども「春になる」と いうその女の子の答えの中に、その子が持つ瑞々しい豊かな感性を見いだし、それを「すばらし い!」と評価できるのが絶対的評価です。そして大切なことは、主イエス・キリストは私たちに 対して、また全ての人に対して「絶対的評価」しかなさらないかたなのです。言い換えるなら主 イエスは私たちを、誰かと比較して評価なさらない。そうではなく、どのような人も“かけがえ のない”人格として絶対的に受け入れて下さるのです。それが主イエスのなさりかたなのです。  もともとキリストの十二弟子たちも、どうして主イエスの弟子に選ばれたのか、人間的な常識 で言うならこれほど不思議なことはないのです。誰も優れた技術や能力を持っていたわけではな い。知識や学問に秀でていたわけでもない。特別な人生哲学を持っていたわけでもない。主イエ スに対する揺るがぬ忠誠心があったとさえ言えない。集団としてチームワークがしっかりしてい たということもない。いわば烏合の衆のごとき輩にすぎませんでした。それどころか十二弟子の 中には、もと取税人であったマタイがおり、その反面取税人を不倶戴天の敵とする熱心党のシモ ンもいたのです。今日流に言うなら、パレスチナゲリラとイスラエルのシオニストが同じ家の中 にいるようなものです。人間的に見れば主イエスに選ばれる「相応しさ」などどこにもない人々 でした。極めつけは主イエスが十字架にかかりたもうたとき、最後まで主に従った弟子は一人も いなかったのです。みな主を見捨てて逃げてしまったのです。主を裏切った弟子たちなのです。  そのような弟子たちを主はなぜお選びになったのでしょうか?。それ自体が大きな謎ではない でしょうか。しかし、たったひとつだけ言えることがあります。それはまぎれもなく主に選ばれ たこの弟子たちが、やがて最初の教会を設立し、キリストの愛と恵みと祝福の証人になったこと です。それがあのペンテコステの出来事でした。聖霊を受けた弟子たちは新たなる力を受け、御 言葉によって立ち上がり、生涯にわたって変わることなき主の証し人、主の御業のため「任命さ れた人」になったのです。もしキリストによる「恵みの選び」がなければ、そのような弟子たち の生涯はありえず、またこの世界に(このピスガ台にも)教会はありえなかったのです。  その意味では私たち一人びとりも同じなのです。私たちもまたキリストの「恵みの選び」がな ければ救われえなかった僕たちだからです。主に選ばれることなくして教会の枝となることはあ りえなかった私たちなのです。それこそ、私たちが主を選んだのではないのです。いろいろな宗 教、さまざまな神の中から、イエス・キリストを私たちが選んだというのではないのです。ただ “十字架の主イエス・キリスト”がその十字架の限りない愛と恵みによって私たちを選んで下さ ったのです。そこに私たちの救いと喜び、生命と祝福の全ての根拠があるのです。それこそ「主 イエスの選びの恵み」なのです。  それこそが測り知れない「神の絶対的評価」なのです。ジョン・オーマンというイギリスの神 学者がこのように語っています「神はこの世界における最も小さな者を、すなわち私たちをお選 びになった。そこに私たちは神が創造された世界の恵みの逆説を見いだす。そしてこの逆説 (Paradox of the World)なしに、私たちは世界の真の意味を理解しえないのである」。ここで オーマンが言うことは、私たちが世界を神の世界、神の御心の実現する世界として知るのは、た だ神が御子イエス・キリストによって私たちを選びたもうたその恵みによるのだということです。 同じことをパスカルは「選びの恵み」と語り「我らはただイエス・キリストを通してのみ、自分 自身を知り、また世界を知る」と語りました。  何よりも使徒パウロは第一コリント書1章26節以下にこう告げています「兄弟たちよ。あな たがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力 のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それなのに神は、知者をはずかしめるた めに、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な 者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等 しい者を、あえて選ばれたのである」。そしてパウロは続いてこうも語るのです「それは、どん な人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるの は、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがな いとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」。  私たちは日々の信仰生活において、本当にキリストを「誇り」(喜びの生命)としているでし ょうか?。自分の知恵や力や能力や業績に頼み、十字架につけられたまいし主イエス・キリスト を見つめていない私たちであることはないでしょうか。十字架の主以外に私たちの「誇り」(喜 びの生命)はありません。それは主イエスがまず測り知れない十字架の贖いによって私たちを選 んで下さったからです。何の価もなきままに私たちを“かけがえのない”ご自身の弟子として下 さったからです。任命して下さったからです。それ以外になんの理由もありません。主が私たち をお立て下さった。指名して下さった。その恵み以外に、私たちの救いと真の生命はないのです。  ただ十字架の主の恵みのみが私たちの祝福の生命の根拠であるゆえに、その「選びの恵み」は 私たちの「義と聖とあがない」そのものなのです。この「義」とは滅びの子であった私たちがキ リストの生命に覆われた者にされたことです。「聖」とは私たちが教会を通して礼拝者とされ、 いつも復活の生命に連なる者にされていることです。そして「あがない」とは私たちの全ての罪 がキリストによって赦され、御国の民とされていることです。この地上の生活は神の「義と聖と あがない」とに基づく“かけがえのない”生活です。この世界は私たちがあらゆる境遇と経験に おいて真の神の子へと成長するための神の世界です。だからパウロはローマ書8章33節でこう 語りました「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたか たが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者 たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである」。  私たちは主イエス「選びの恵み」によって、今ここでキリストの「義」にあずかる者とされて いる。神の「神性」と「あがない」にあずかる者とされているのです。もはや罪と死の力は私た ちを支配しえないのです。キリストの選びを「誇る」(喜ぶ)とはキリストの勝利の御手に支え られていることです。十字架の主によって絶大な勝利に連ならされた事実の中に、自分の人生の 全体を新しく受け取る者とされているのです。だから宗教改革者カルヴァンは、聖書に記された 「選びの恵み」は「キリストへの選び」であると語りました。私たちは何よりも、キリストに向 けて、キリストの復活の生命に連なるために「選ばれた」者たちなのです。だから「選び」は十 字架の主イエス・キリストという明確な中心点を持っているのです。まさにこの十字架の主の恵 みにおいて、私たちを選び立てて下さったキリストによって、私たち一人びとりが祝福の担い手 とされているのです。「行って実をむすび、その実がいつまでも残る」ことが約束されているの です。  この「行って」とは、私たちの人生全体をさしています。キリストと共に、キリストの選びの 恵みによって歩む私たちの人生全体を通して、喜びにも悲しみにも、健やかな日にも病めるとき にも、いつも変ることなく私たちはキリストに連なる枝とされているのです。そのような者とし てかならず祝福の実を結ぶ者とされているのです。そしてその実は「いつまでも残る」と主は宣 言して下さるのです。私たちの信仰の歩みは永遠の御国へと繋がっているのです。そのことを、 私たち一人びとりに現された救いの出来事として、感謝し、喜び、誇りつつ、歩んでゆく私たち でありたいと想います。