説    教   アモス書3章7〜8節  ヨハネ福音書15章14〜15節

「友と呼びたもうキリスト」

2010・07・18(説教10291333)  主はいま、私たち一人びとりに告げて言われます。「あなたがたにわたしが命じることを行 うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕 は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父 から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」。  わが国のすぐれた詩人であり、キリスト者として信仰の生涯を貫いた八木重吉という人の 「無題」という短い詩があります。「キリスト、われにありと思うはやすしが、われみずから、 キリストに在りと、ほのかにても思えるまでの遠かりし道よ」。ここには八木重吉の日々の祈 りが込められています。  キリストが常に「私と共にいて下さる」こと、それを確かな恵みとして実感することは私た ちにとっても自然なことでしょう。それこそ「キリスト、われにありと思うはやすし」なので す。しかし私たちの信仰生活はそれだけではない。ただ恵みを受けるだけの「わたし」である にとどまらず、主が与えて下さった恵みに応える「わたし」であろうとするとき、私たちもま たこの詩人と共に「われみずから、キリストに在りと、ほのかにても思えるまでの遠かりし道 よ」と言わざるをえないのではないか。キリストが常に私と共にいて下さる恵みに対して、そ の恵みに応える自分はなんと弱く疎い存在であるかと思わずにおれないのではないでしょう か。  私たちは主イエス・キリストが私たちの「友」となって下さった恵みについては、いつも確 信をもって語ることができます。しかしそこで改めて自分の姿を問われると忸怩たる私たちな のです。つまり、キリストはいつも私たちの真実の「友」であられますが、私たちはそのキリ ストの「友」にふさわしい人間なのかと問われるならば、答えは常に“いいえ”でしかない私 たちなのです。「キリスト、われにありと思うはやすしが、われみずから、キリストに在りと、 ほのかにも思えるまでの遠かりし道よ」この想いは私たち自身の「祈り」でもあるのです。  顧みて、私たち人間どうしの親友関係さえ一方通行ではありません。たとえば私たちが友人 と明日の午後6時に横浜駅西口で待合わせる約束をしたとします。その約束をもし私たちが平 気で破って連絡もせずに来なかったとしたら、もうそこで人間どうしの信頼関係は成り立たな いわけです。「友」と呼ばれる資格はないと言われても仕方がないのです。その意味では人間 関係は(友情も含めて)お互いの信頼のもとにはじめて成り立っています。言うなれば「友」 の関係は平等の関係です。一方が真実であり他方が不真実である所には友情は成り立たないの です。その意味では「友」は相手に対して自分と同じ真実さを求めるのです。  それならば、主イエス・キリストは私たちに対してどのようであられるのでしょうか?。私 たちは主イエス・キリストに「友」と呼ばれるに相応しい人間なのでしょうか?。答えは「い いえ」です。むしろ私たちは主イエスを「十字架につけよ」と叫んだ群衆の中に立っています。 主に向かって石を投げ唾を吐きかけています。その私たちをキリストは限りない愛と真実をも って「友」と呼んで下さいました。「友」となって下さいました。今朝の前の15章13節のと おりです「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。この「人」 とは単数形でキリストのことです。そして「友」とは複数形で私たち全ての者のことです。こ の御言葉のままにキリストは私たち全ての者の罪を背負って十字架にかかって下さいました。 生命を献げて贖いをなしとげ、その恵みによって私たちの「友」となって下さったのです。  もともと日本語の「友」という字は「共にいる者」という意味だそうです。主は私たちの罪 を贖い、ご自分の全てを献げて私たちと「共にいる者」になって下さったのです。「われ汝を 捨てざるべし」と宣言して下さったのです。主イエスと共に十字架にかけられた犯罪人の一人 が、その死のきわに主イエスを信じ告白しました。主はそのとき彼に「汝今日われと共にパラ ダイスにおるべし」と告げて下さいました。  それでは、この“キリストの真実”に対して、私たちは少しでも応えているでしょうか。「わ れみずから、キリストに在り」と言えるでしょうか?。まことに忸怩たる私たちではないでし ょうか。キリストの「友」と呼ばれる資格は私たちには少しもないのです。私たちとキリスト との関係は平等関係ではないのです。キリストだけが一方的に真実でありたまい、私たちは限 りなく不真実な者にすぎないのです。その意味では、私たちはキリストの「友」と呼ばれるは ずはないのです。  むしろ私たちはキリストの「僕」というなら自然なのです。「僕」なら不平等関係でも良い からです。実はそれすら怪しい私たちなのですけれども、少なくともキリストの「友」と呼ば れるより「僕」と呼ばれたほうが、私たちの実情に近いと言えるのではないでしょうか?。と ころが、主は今朝の御言葉において明確に告げていて下さいます「わたしはもう、あなたがた を僕とは呼ばない」と。「僕は主人のしていることを知らないからである」。そして主は「あな たがたはわたしの友である」とはっきりと告げて下さるのです。  まさにここに、福音の驚くべき出来事があります。たしかに主が言われるように、もし私た ちが「僕」なら「主人のしていることを知らない」でもよい存在です。「僕」は主人の「して いること」を知る必要はなく、ただ主人が命じたことを行えば良いからです。理由がわからな くてもただ言われたことをすれば良いのが「僕」です。つまり「友」と「僕」との違いとは、 互いに“心を打ち明ける相手”であるかどうかという点にあるのです。  それならば、主が私たちに「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない」と言われたこと に私たちは驚くほかはないのです。主は「わたしはあなたがたを友と呼んだ。(それは)わた しの父から聞いたことを皆、あなたがたに伝えたからである」と言われました。言い換えるな ら、そこにこそ私たちが主イエスの「友」と呼ばれる唯一の根拠があるのだと告げられている のです。すなわち、主イエスは御父なる神の御言葉を(父なる神から聴いたことを)すべて、 弟子である私たちに語って下さったということです。神の聖なる御心(つまり神の御言葉=福 音)を私たちに全て打ち明けて下さったということです。  今朝あわせてお読みした旧約聖書アモス書3章7節にこうありました。「まことに主なる神 は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」。ほんら い預言者は神の「僕」です。アモス自身もそう理解していました。しかし「主なる神」はその 「しもべである預言者」に対して「その隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とい うのです。つまり主なる神はまず御自身の聖なる御心(福音)を御言葉をもって預言者にお告 げになる。決して隠したまわないというのです。この厳かな事実にアモスは存在の深みから揺 り動かされ、打ちのめされ、そして新たにされたのです。神の御言葉を宣べ伝えるということ は、神の聖なる御心を打ち明けられ、神と共に働く“神の友”(神が共におられる者)にされ ているということだからです。  だから、アモスはこう語らざるをえませんでした「ししがほえる、だれが恐れないでいられ よう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。ライオンの声を聞けば誰もが 恐れを抱くならば、なおさら、主なる神がその聖なる御心(福音)をお告げになるとき、誰が 預言(説教)せずにおれるだろうか。これは教会の存在理由でもあります。「神まず語りたも う」それが私たちの喜びの生命の根幹です。主まず十字架を負いたもうて、私たちの(全世界 の)救いを成し遂げて下さったのです。私たちの測り知れない「罪」(決定的な滅び)のただ 中に、生命の御言葉を告げて下さったのです。そのかたが御言葉によって常に私たちと共にい て下さる。まさに私たちを「友」とお呼びになる。それこそが福音の本質なのです。  そこでこそ私たちは、今朝のヨハネ伝15章15節を改めて心にとめます。それは「わたしは あなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」 と主が語られたことです。「わたしの父が聞いたことをみな(全て)あなたがたに知らせた」 と改めて聴くとき、私たちもアモスのように畏れずにはおれません。私たちの中でいったい誰 が「自分は神の御言葉を全て聴いた」と言いうるでしょうか?。聖書の通読さえまだしたこと がないという人がいるかもしれないのです。たとえ読んでいたとしても完全な「正しい理解」 を私たちは持っているでしょうか?。それなのになぜ主は私たちに「わたしの父の御言葉を全 てあなたがたに知らせた」と言われるのでしょうか?。なにを根拠としてそのようなことを言 われるのでしょうか。  実はこの御言葉の根拠は、主イエス・キリストご自身の中にあるのです。それは同じヨハネ 伝5章39節に示されています「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べてい るが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」。つまり聖書が宣べ伝えるもの は神の御子イエス・キリストによる全ての人への「真の救いの出来事」です。だから聖書を読 むということは、イエス・キリストを救い主として信じることです。聖書の中心(神の言葉の 中心)はイエス・キリストなのです。  それならば、主が今朝の御言葉で「神の御言葉を全部、あなたがたに知らせた」と言われる のは、それは主ご自身のことを語っておられるのです。だから同じヨハネ伝1章14節に「そ して言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」とあるのです。この「肉体となった(神の) 言」こそとはイエス・キリストだからです。それならば「神の御言葉を全部、あなたがたに知 らせた」とは、主がご自身の全てを私たちの「罪」の贖いと赦しのために献げて下さった十字 架の出来事を示しているのです。それこそ「人がその友のために自分の命を捨てること、これ よりも大きな愛はない」そのままの十字架の生涯を主は私たちのために歩まれたのです。  そこでこそ明らかになることは、私たちがキリストの「友」と呼ばれる資格とは何かという ことです。私たち自身の中にはどこにもその資格はありません。私たちはそこに「われみずか ら、キリストに在りと、ほのかにても思えるまでの遠かりし道」を見いだすのみです。そうで はなく、私たちがキリストに「友」と呼んて戴いた資格はただ主の十字架の出来事にあるので す。キリストの御業にのみあるのです。神の御言葉(福音)そのものであるキリストにのみあ るのです。主の十字架の御業の中にのみ、私たちがキリストの「友」と呼んで戴ける唯一の根 拠があるのです。それ以外に私たちの救いの理由はないのです。それゆえに、それは最も確か な永遠の救いなのです。  主はいま私たちに語っていて下さいます。「私があなたのために十字架にかかった。それな らばあなたは、私の“友”として、聖なる神の御言葉の全てにあずかっているのだ」と!。主 みずから完全な神の言葉であられます。その主みずから十字架という一方的な恵みによって私 たちをもはや「僕」ではなく「友」と呼んで下さったのです。たとえ私たちにそのような忝き 恵みを受ける何の資格もなくても、ただ主の限りない愛と慈しみのゆえに、私たちは世々の預 言者また主の聖徒らと共に、いまここにおいてキリストの「友」と呼んで戴いているのです。  それは救いの出来事そのものです。主が永遠に変わることなく私たちと共にいて下さる。私 たちを贖われた御国の民としていまここに生かしめ、祝福の内を歩む者として下さるのです。 この「友」なる主が私たちの全てを贖い、新たにし、御自身の教会を通して豊かな御言葉の糧 に、永遠の生命にあずからせて下さるのです。