説    教  出エジプト記33章7〜11節 ヨハネ福音書15章12〜13節

「人その友のために」

2010・07・11(説教10281332)  今朝お読みしましたヨハネ伝15章13節に「友」という言葉が出てまいります。「人がその 友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。文語訳ではこうです「人そ の友のために己の生命を棄つる、之よりも大なる愛はなし」。これこそ今朝、私たち一人びと りに与えられている主イエス・キリストの福音です。  さて、まず主イエスは12節に弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたが たも互に愛し合いなさい」と命じておられます。それを主イエスは「わたし(が与える新し い)いましめ」であると言われました。そこで、この「互に愛し合いなさい」という御言葉 を聴くとき、私たちはそれをどのように受け止めるでしょうか。  もし私たちがこの御言葉を「みんなで仲良くする」という意味に理解しているとすれば、 それは私たちにもさしたる苦労もなく実行できることかもしれません。家庭の中に諍いがな いようにする。近所づきあいを大切にする。職場の人間関係に気を配る。友達を労わり大切 にする。その程度のことならば、私たちも充分とは言えぬまでも、まずは合格点には達して いるかもしれないのです。  ところが、主イエスが言われる「互に愛し合う」とは、その程度のことではなさそうです。 それが今朝の「友」という御言葉の重みなのです。主イエスは言われます。「人がその“友” のために自分の命を捨てること、それよりも大きな愛はない」と。そうしますと私たちは、 途端に口篭らざるをえないのです。容易ならざることに気付くのです。少なくとも私たちは 「友のために生命を棄てる」ような「本当の愛」を問われるとき、自分が無力な存在である ことを痛感せざるをえないからです。  太宰治の作品に「走れメロス」という短編小説があります。古代ギリシヤのある町に幼馴 染の親友同士がいました。その一人メロスが悪代官によって無実の罪を着せられ、市民の前 で処刑されることになった。しかしメロスは妹の結婚式に出席するため、2日間だけ刑の執行 を待ってくれるよう代官に頼むのです。その願いは「友」を人質に置いてゆくことを条件と して聞き届けられます。もし2日目の日没までに戻って来なければ、メロスの身代わりに「友」 が処刑されるのです。メロスは約束を守るために急ぎますが、帰る途中で一度は「もう間に 合わない」と諦めかけるのです。しかし意を決して必死で走りぬき、ようやく日没の寸前に 町に戻り「友」の命を救うことができます。2人の友はそこでしっかりと抱擁し、互いに一瞬 でも友情を疑ったことを赦し合うのです。その様子を見てさしもの悪代官も感動し、メロス はめでたく罪の汚名を漱がれて、この物語は終わるのです。  この物語は、実は作者太宰治自身が求めていた真の「友」の姿そのものでした。太宰はそ こに実は主イエス・キリストの姿を見つめているのです。それは太宰の作品全体についても 言えることです。罪人の生命を救うために身代わりとなり、私たちを「友」と呼んで下さっ た主イエスのお姿に、太宰は今朝のヨハネ伝15章13節を重ね合わせているのです。そして 自分を愛して「友」と呼んで下さったキリストのために力の限りに走りぬいたメロスの姿に、 太宰は人間として自分がなすべき理想の生きかたを見ているのです。その意味で太宰の作品 として異色を放つ「走れメロス」こそ、実は太宰文学の本質を理解する上で非常に重要な小 説なのです。  そこで、私たちへの問いなのです。私たちはどうかと申しますと、私たちはメロスのよう になれないのです。メロスの「友」のようにもなれないのです。自分の生命を犠牲にしてま で「友を愛する」ことはできないのです。またそのような「友」に自分がなることもできな いのです。昔から「逆境の時の友こそ真の友」と申します。友が悩み苦しんでいるとき、そ の「友」のために自分を犠牲にして助ける友こそ「本当の友」の名に値するのです。逆に言 うなら「本当の友」の条件とは、相手のために自分を犠牲にして厭わないことです。もし必 要なら自分の生命をも「友」のために献げる。そういう「友」こそ「本当の友」なのです。  しかし私たちは、それとは逆のことが殆どではないでしょうか。自分にとって利益であり 都合がよいときにだけ「友」を大切にする。逆に自分にとって損になる友、都合の悪い友と はなるべく疎遠になる。そういう価値観を私たちは本能的に持っています。まず自分を大切 にし、自分を守り、自分を中心に人生を組み立てる価値観です。そこでは友は“利用価値の ある相手”にすぎません。利用価値のない相手を、最初から「友」にする人間はいないので す。その意味で私たちは、友情においてさえエゴイストです。太宰治が真剣に求めたのは、 そのエゴイズムを超えた「本当の友」であり、また自分が他者に対してそのような「友」た りうるかという問いでした。そしての「本当の友」の姿を太宰は十字架の主イエス・キリス トに見たのです。  主イエスは、はっきりと言われます。改めて今朝の13節です「人がその友のために自分の 命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。この「人」とは誰のことでしょうか?。また 「友」とは誰のことなのでしょうか?。私たちは「人」と聴くとすぐ「人間一般」のことか と思います。しかし主イエスがここで「人」と言われるこの御言葉は単数形です。つまりた った一人の「人」をさしているのです。それは“マコトノ神ニシテマコトノ人”なるイエス・ キリストご自身のことです。それに対して「友」と訳された言葉は複数形です。英語で言う と“His friends”(ヒズ・フレンズ)です。しかもこの“He”は大文字であり神ご自身をさ しています。つまり主は私たち全ての者を「友」と呼んで下さったのです。  そこで、この13節の元々のギリシヤ語を直訳するとこうなるのです。「これこそ何と大い なる愛であろうか!。人がその友らのために自分自身を棄てるとは」それこそ。文語訳で言 う「人その友のために己の生命を棄つる、之よりも大なる愛はなし」なのです。主イエスは 「これこそ愛の極み」であり「これこそ神の愛」であると示して下さったのです。それは一 人の「人」(キリスト)が多くの「友」(私たち全ての者)のために自分の生命を「棄てる」 ことです。神の御子みずから私たちの救いのために十字架におかかり下さった出来事です。 キリストの十字架の出来事以外にこの「愛の極み」に合致するいかなる出来事もないのです。  主イエスはいまここに、限りない十字架の愛をもって私たち全ての者に「あなたがたはわ たしの友である」と宣言していて下さるのです。これは一方的な主イエスの恵みであり招き です。ほんらい「友」とは対等な関係であり、不平等関係では成り立ちません。つまり一方 が真実であり他方が不真実な場合、そこに友情は成り立たないのです。それが私たちの常識 です。しかし主イエスはただご自分の限りない愛と真実のみを唯一の保障として、私たち全 ての者を「わたしの友」と呼んで下さるのです。たとえ弟子たちが(私たちが)どんなに主 イエスに対して不真実であっても(事実そうなのですが)主イエスは私たちを変わることな く「友」と呼んで下さるのです。  そればかりではありません。主イエスは「イスカリオテのユダ」が裏切った時にさえも、 そのユダに対して「わが友よ」とお呼びになったのです。このユダの罪は他の弟子たちも同 じでした。主イエスと共に死ぬ覚悟さえあると意気込んでいた弟子たちは、実際に十字架を 目前にして恐怖のあまり、主イエスを棄てて逃げてしまったのです。全ての者が主イエスを 裏切ったのです。  ドイツのある聖書学者がこういうことを言いました。主イエスの時代たとえ冗談にしても 「口にしてはならない言葉」があった。それは「お前など十字架にかかってしまえ」という 言葉であった。それほど十字架は恐ろしい呪いの死であったのです。神に見棄てられた罪人 の最終的な滅びであったのです。だから、最初は主イエスを歓呼の声を上げて喜び迎えたエ ルサレムの民衆も、主イエスが十字架にかけられることになったと聞くや否や、掌を返した ように主イエスをあざ笑い、侮り、軽蔑し、呪い、唾を吐きかけ、石を投げたのです。主が ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の途中で、十字架の重さに耐えかねて倒れたときにも、 誰一人助けようとはしなかったのです。  それこそ、主イエスに対する私たちの姿なのです。私たちは主イエスの「友」たりえたこ となど一度もない者です。しかし、今朝の御言葉で大切なことはその私たちの現実の姿でさ えないのです。主が告げておられる福音の本質は、私たちが主イエスに対していかに在るか ということではなく、主イエスが罪人の頭なる私たちをいかに愛して下さったかということ なのです。太宰治の誤りはそれを見落としていたことです。聖書を読むとき明らかになるの は、自分が真の神の前にいかに測り知れぬ罪人であるかと同時に、その自分が主イエス・キ リストの十字架によって、その大きな罪をことごとく赦され、贖われているという事実なの です。この事実に驚き、打ち砕かれ、生ける十字架の主イエス・キリストに出会い、私たち を「友」と呼んで下さる主の招きの御声に従うこと、そのキリストを信じる者になること、 それが本当に聖書を読むということです。御言葉を正しく聴くことなのです。  主イエスは誰一人として「友」のないあの“悲しみの道”を最後まで十字架を負われてゴ ルゴタへと歩み抜いて下さいました。キリストの「友」などになりえない私たち、それゆえ 人に対しても決して「本当の友」となりえなかった私たちのために、主イエスはご自分の生 命を棄てて「まことの友」となって下さったのです。それが主イエスのなして下さった救い の御業なのです。それがあの十字架の出来事なのです。  そこでこそ、私たちはもう失望してうな垂れることはない。口篭って自らの弱さに尻込み する必要もない。自分に絶望する必要もない。ただ主イエスが私たちのまことの「友」とな って下さった恵みのゆえに、心を高く上げて、私たちもまた「互に愛し合う」生活を造り出 してゆくことができるのです。主イエスのみを仰いで、主イエスの愛に生かされて、神の僕 として生きることができるのです。私たちのあらゆる弱さや汚れ、愚かさや脆さにも関わら ず、そこにこそ力強く活きて働いて下さるキリストの恵みの力に生かされ、満たされて、喜 んで立ち上がる者とならせて戴いているのです。  「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。この主イエス の御言葉は、主イエスの御生涯そのものです。すなわち主イエスが私たちの「友」となって 下さったこと、私たちを何の価もなきままに「友」とお呼び下さったことが、私たちの「救 い」そのものなのです。それは出エジプト記33章7節以下の御言葉に繋がるのです。ホレブ の山の麓にある「会見の幕屋」において、主なる神は「人がその友と語るように、主はモー セと顔を合わせて語られた」と記されています。モーセにその資格があったからではありま せん。ただ神の測り知れない恵みにより、モーセは神と「友」のように語る者とされたので す。そこにモーセの、また全イスラエルの「救い」があったのです。  そして、いまここに私たちもまた、このキリストの復活の御身体なる教会において「(神が) その「友」と語るように(私たちと)顔を合わせて語って下さる」恵みを持つ者とされてい るのです。それが私たちの「救いの出来事」そのものなのです。そしてそれは、ただ主イエ スがその「友」である私たち全ての者のために、呪いの十字架を担われ、御自分の生命を献 げて下さった恵みによるのです。主イエスは私たちのために御自分の生命を棄てて下さいま した。「それよりも大きな愛はない」その極みまでの「友」の愛に、私たちはいま生かされて いるのです。