説     教    詩篇43篇1〜5節  ヨハネ福音書15章9〜11節

「キリストの喜び」

2010・07・04(説教10271331)  主イエス・キリストはいま私たち一人びとりに、このように語りかけておられます「父がわた しを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。も しわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。  そして、主はこうも言われました「それは、わたしがわたしの父のいましめを守ったので、そ の愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなた がたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」。  昔から「三つ子の魂、百までも」と申します。しかし持って生れた子供の性格より、むしろ大 切なのは親の教育ではないでしょうか。人間にとって最も大切なものは、幼い時に受けた親の愛 であり、暖かい家庭環境です。もしそれが充分でないまま育ちますと、私たち人間は大人になっ てからもその影響を引きずることがあるのです。  “アダルト・チルドレン”という言葉を聞いたことはないでしょうか。幼児期に親の愛を充分 受けないまま育った人は、自分が親になっても人間関係になんらかのひずみが出てしまう。そう いう人間本来の問題が深刻化しています。まして幼いころ親に虐待されて育った子供は、今度は 自分の子供を虐待してしまう傾向があると言われます。いわゆる“虐待の連鎖”がそこに生まれ るのです。  そこで私たち人間は、まず自分が大きな愛によって受け入れられ、愛されてこそ本当に自立で きる。安心して立ち上がることができる、そういう存在なのだと言えるでしょう。天に召された 荒巻富士子姉妹が、幼児教育こそ人間の生涯を決定するいちばん大切な教育であると常々語って おられました。ナチスドイツに反対して投獄され、最後にヒトラーによって処刑されたドイツの 神学者ディートリッヒ・ボンヘッファー牧師は、獄中において自らの幼児期を思い起しこのよう に記しています。「想像もつかないここでの苦しみの中で、常に自分を信じられないほど力強く 支え、勇気をもってあらゆる苦難に立ち向かわせるもの、それは私が幼い日に受けた両親の愛で ある」。  しかし、実はそこでこそボンヘッファー牧師は、人間をして真に人間たらしめる本当の「愛」 は実は家庭環境でさえなく、主イエス・キリストにおける“神の愛”のみだと語っているのです。 幼児期に暖かい愛情の中で育つことは、その人にとって生涯の幸福であろうけれども、しかしそ れだけでは人間は本当の意味で人間たりえない。何にもまして私たちを立ち上がらせ人生を決定 する本当の愛、それは主イエス・キリストにおける“神の愛”である。その愛を知り、その愛に 根ざして生きる人生なのです。  それは何故かと申しますと、端的に言うなら、人間はやがて死を迎える存在だからです。それ は強制収容所にいたボンヘッファー牧師にとって切実な問題でした。絞首台の階段を上がる日は まさに今日かもしれない。そのとき自分を死を超えてまで支えるまことの「愛」は、ただ私のた めに十字架にかかられた主イエス・キリストの愛のみである。この「神の永遠の愛」のみが、死 を超えてまでも私を支え続けるとボンヘッファーは語っているのです。  東京のある下町の高層住宅で、母親が眼を離した僅かな合間に8階の窓から幼子が転落して亡 くなるという痛ましい事故がありました。しかし痛ましさはそれにとどまりませんでした。その 約30分後にはその子の母親が後を追うように同じ窓から身を投げて亡くなったのです。この母 親の自殺の動機はおそらく、自分がほんの一瞬眼を離した隙にわが子が死んでしまったという慙 愧の思いと同時に、なんとかしてあの子の傍にいてあげなければという不憫の想いであったでし ょう。  しかし私たち人間は、たとえ後追い自殺という行為においてさえ、愛する者の死の身代わりに はなりえない存在なのです。私たちは自分自身の死にさえ責任を負うことはできない存在であり、 ましてや愛する者の死に対して自分がその贖いとなることはできません。言い換えるなら、誰も 死の彼方にまで附いて行くことはできないのです。死の壁を破って同行できる同伴者はいないの です。言葉を変えるなら、私たちは自分の存在の重みをさえ担うことはできないのです。まして や他者の存在を死の彼方にまで担うことは不可能なのです。そこに人間存在の決定的な限界があ るのです。  そこで、ボンヘッファー牧師はこのように申しています。これも獄中で書かれた文章です。「私 はいったい、何者か」と彼は幾度も問うのです。「私はいったい、何者か」。「ある人々は言う。 あなたはどんなに辛い日にも、温和な笑顔で周囲の人々を慰めてくれる強い人だと」。「またある 人は言う、あなたは本当の信仰の持ちぬしだ。あなたには確固とした信念がある」と。「またあ る人は言う、あなたの語る言葉には力がある。あなたは立派な牧師だと」。しかしボンヘッファ ーは言うのです。「私はいったい、何者か」…。「実は、それを私は知らないし、知りえない。確 かなことは、本当の私は皆が言うような立派な人間などではないということだ」。「しかし」とボ ンヘッファーは言います。「しかし、全てにまさって確かなことがある。大切なことはただひと つ。たとえ私が何者であっても、どのような人間であっても、主よ、汝はわれを知りたもう。わ れは汝のものなり」。  本当にそうではないでしょうか。「たとえ私が何者であっても、どのような人間であっても、 主よ、汝はわれを知りたもう。われは汝のものなり」その一事のみが私たちにとって最も大切な のです。本当に大切なことは、私たちが人間としてどのように生きて来たか、どのような愛を人々 から受けてきたか、ということでさえない。人間にとって本当に大切なことは、まことの神の愛 を知り、その神の愛に生かされることです。それは十字架の主イエス・キリストに現わされた神 の永遠の愛です。この愛を知り、この愛に教会を通してキリストを信じることによって連なると き、私たちの存在は根本から新しくされるのです。大いなる力と慰めと、勇気と平安を得て立ち 上がる者とされるのです。  そのとき、私たちにとって大切なことは、もはや「私はいったい、何者か」という問いではな くなるのです。大切なことはただ一つ「主よ、汝はわれを知りたもう。われは汝のものなり」と いうことなのです。だから私たちキリスト者にとって“自分を知る”とは、自分の足元を見つめ ること(脚下照順)ではなく、“私たちを知りたもう主を知ること”です。十字架のキリストを 信じることです。まさにパスカルが言うように「キリストを知らない人は、自分自身を知らず、 また世界の何たるかを知らない」のです。  中世の修道院の入口にラテン語で「汝の死を覚えよ」(メメント・モリ)と記されていたこと は意味のないことではありません。それは「あなたのために十字架に死にたまえるあなたの主イ エス・キリストを覚えなさい」という意味だからです。私たち人間は、最愛の者のためにさえ、 死の彼方に同伴することはできません。私たちの限界がそこにあります。しかし十字架の主イエ ス・キリストは違うのです。このかたのみは全ての限界を超えて私たちと共にあり給う絶対の救 い主なのです。キリストは私たち全ての者のために、その罪と死を贖うために、あの十字架にか かって下さいました。ご自身の死によって主は私たちの罪と死を贖い取って下さいました。本当 の自由を私たちに与えて下さったのです。  そこでこそ「メメント・モリ」には深い意味があります。この修道院(教会)の入口を入る人 は誰でも、ただ十字架の主イエス・キリストのみを仰ぎつつ生きる者となるのです。キリストが あなたの死を贖って下さった。キリストの内にこそあなたの真の生命がある。それを覚えなさい との喜びの調べを聴くのです。それが本当の「メメント・モリ」の意味です。その教会は主キリ ストの身体であり、そこで私たちは贖い主なるキリストに繋がるのです。キリストの復活の身体 なる教会に連なり、礼拝者として生きることにおいてのみ、私たちは与えられた生涯の全てを通 じて、極みなき主の愛に結ばれて生きる僕とされているのです。キリストの復活の生命に連なる 者とされているのです。  キリストの弟子のひとりピリポが「主よ、わたしたちに御父を示して下さい」と願いました。 そのとき主は彼に答えて言われました「ピリポよ、かくも長く私と共に居るのに、私がわかって いないのか。私を見た者は、父を見たのである。私が語っている言葉は、私自身から出たもので はない。父が私のうちにおられて、御業をなさっておられるのである」。  私たちは、キリストが担われ、キリストが十字架にかかられて、私たちのいっさいの罪と死を 贖って下さった、その尊い人生を生きているのです。「神はその独り子を賜わったほどに、この 世を愛して下さった」この福音の喜びこそ歴史上最大の事実です。十字架の出来事は誰も否定で きません。だから主ははっきりと言われました「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた がたを愛したのである」と。そして「わたしの愛のうちにいなさい」とお命じになりました。キ リストの愛の内に「おる」とは、生きた信仰の生活をすることです。私たちの弱さと破れの中に、 活きて働きたもうキリストを救い主としてお迎えすることです。そして神の栄光を現す生活へと 勤しみ励む私たちとならせて戴いているのです。  それはまず、キリストご自身があの十字架の「愛」をもって、私たちを愛して下さったからで す。主は「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」 と言われました。この「わたしのいましめ」という御言葉で私たちがすぐ思い浮かべるのは同じ ヨハネ伝の13章34節です。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合い なさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合う ならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。  今朝の御言葉における「わたしのいましめ」とは、この13章34節の「新しいいましめ」と 同じなのです。「主が私たちを愛されたように、私たちもまた互いに愛し合う」ことです。そこ で私たちは気をつけましょう。私たちはすぐにこの御言葉を“道徳”として努力目標にしてしま うのです。しかしそれは違います。「互に愛し合いなさい」とは私たちの努力目標ではありませ ん。それが達成できない人は「キリストの愛のうち」にいないということではないのです。そう ではなく、この御言葉は主の喜びであり“福音”なのです。努力目標ではなく「主の喜びへの恵 みの招き」であり「愛による選び」なのです。私たちに与えられた新しい喜びの生命の恵みなの です。主イエスはまず私たちをご自身の愛に繋がって生きる者として下さいました。だからこそ 私たちは、いまそのキリストの限りない愛に支えられて、そこにはじめて「互に愛し合う」生活 を造りだす者とされているのです。  主イエスは今朝の御言葉で「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがた のうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」と言われました。こ こに主ははっきりと「わたしの喜び」と言われます。かつて弟子たちに「わたしの平安をあなた がたに与える」と言われたように、今日の御言葉では「わたしの喜びをあなたがたに与える」と 約束して下さるのです。それは“キリストの喜び”です。失われることも奪われることもない本 当の「喜び」なのです。そして主が「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため」と言われ た「宿る」とは「いつまでも変わらない」という意味です。私たちがキリストの復活の生命に連 なり、キリストに愛され、キリストに知られ、キリストのものとされている喜びは、いつまでも 変わらない本当の喜びなのです。それこそが私たちの生涯において最も大切な祝福の生命です。 私たちの永遠の慰めなのです。  だからパウロは、ピリピ書の2章で「たとえあなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わ たしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、 あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」と語ることができました。暗い獄中にあっ てもパウロは、なお獄中にいる人々に福音を宣べ伝える喜びに生きたのです。その「キリストの 喜び」が「わたしの喜び」である。その「キリストの喜び」は「あなたがたの喜びである」だか ら、自分がどこに囚われていても、いつも大胆に福音の実が宣べ伝えられるように祈って欲しい と語りました。また第一テサロニケ書5章にはこうあります「いつも喜んでいなさい。絶えず祈 りなさい。すべての事について、感謝しなさい」。  私たちは苦しみや悲しみの中にも、主に結ばれて「いつも喜んで」いることができるのです。 それは変わることのない「キリストの喜び」が私たちの人生に完成しているからです。どのよう な苦しみ、悩み、悲しみの中にあっても、逆境の日々においても、私たちの歩みからキリストと 共にある真の「喜び」は失われることなく、変わることはないのです。ここに集う私たち一人び とりに、主はその「喜び」を新たにして下さるのです。