説     教    民数記6章22〜27節  ヨハネ福音書14章27節

「主の平和」

2010・06・27(説教10261330)  あるイギリスの哲学者が、人間が幸福になるためには「4つの条件」があると言いました。 第1は「人生を貫く信念があること」。第2は「充実した仕事があること」。第3は「よき家庭 と友人があること」。そして第4は「良い趣味を持つこと」なのだそうです。もっとも最後の 「趣味」などは、多くの人にとって「健康」に取り替えられるかもしれません。健康こそ幸福 の条件だという価値観は多くの人々が持つものです。それは現代における新しい偶像崇拝です。 テレビや新聞の広告にも健康器具や健康食品の宣伝が溢れています。  しかし私たちは疑問を抱きます。そのような“幸福の条件”を満たすことができない人は不 幸なのでしょうか?。逆にその4つを(健康も)全て満たせば、それで私たちは「幸福」にな れるのでしょうか?。答えは「いいえ」です。いくら4つの条件を満たしても、私たちはそれ で幸福になるのではありません。なによりも“幸福の条件”は“平和の条件”と同じではない のです。たとえいくら“幸福の条件”を満たしても“平和の条件”が満たされなければ人生は 虚しいのです。逆に言うなら“幸福の条件”が一つも満たされていなくても、日々の生活がい つも「主の平和」に満たされている“真に幸福な人生”へと、私たちは主によって招かれてい るのです。  先日、私は一人の姉妹から手紙を戴きました。その姉妹は家庭の中にいろいろな苦しみや重 荷を抱えている人です。しかし毎日を聖書の御言葉に支えられ、苦しみや悩みの中でこそ礼拝 生活を大切にし、より強くキリストの祝福と平和(平安)を感じるようになったと書いておら れました。普通に考えればとても不幸な人生のはずなのに、誰よりも喜び感謝して生きている この姉妹の生活は“主の平和”なしには説明できないことです。それこそが人間の“本当の幸 福の条件”ではないでしょうか。私たち人間にとって“本当の幸福の条件”とは「主の平和」 にいま生かされているか否か。それを受けている人生であるか否かにあるのです。  今朝、私たちに与えられた福音の御言葉・ヨハネ福音書14章27節で主イエス・キリストは こう語られました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしは これを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。これは昔の文 語訳聖書ではこうなっています「われ平安を汝らに遺す、わが平安を汝らに與ふ。わが與ふる は世の與ふる如くならず、なんぢら心を騒がすな、また懼るな」。文語訳でも新共同訳でも「わ が與ふるは世の與ふる如くならず」というように、平和を与えて下さるキリストご自身が中心 です。これはとても大切なことです。なぜなら主イエスはこの御言葉を、愛する弟子たち(私 たち)への最大の祝福として語っておられるからです。そして、この“平和の生命の祝福”の 与え主はただキリストのみであることが示されているのです。  さて、ここで「平和」と訳された言葉は旧約聖書の原語である“シャローム”というヘブラ イ語にもとづいています。聞いたことのあるかたも多いでしょう。新約聖書の中に「平和」と いう言葉は約90回出てくるのですが、そのほとんど全てがこのヘブライ語を元にしています。 それではこの“シャローム”とはどういう意味でしょうか?。それは“神の救いの御業がいま あなたの上に実現している”という意味なのです。だからある人は“神の祝福(生命)の充満” と訳しました。神の恵みのご支配が私たちに満ち溢れることです。それが“シャローム”(主 の平和)です。  主イエス・キリストは、いよいよゴルゴタの十字架へと向かわれるにあたり、愛する弟子た ちに「神の救いの御業がいまあなた(がた)の上に実現している」(救いの御業があなたに満 ち溢れている)と宣言して下さったのです。それが「わたしは、平和をあなたがたに残し、わ たしの平和を与える」と言われた意味です。つまり主イエスはここではっきりと、ご自分の十 字架をさして「平和」を私たちに与えておられるのです。しかし弟子たちにはまだその意味が 充分わかりませんでした。だから「平和をあなたがたに残す」と言われて「心を騒がせ、おび えた」のでした。弟子たちは人間イエスだけを見ていて、十字架のキリストを見ていなかった のです。  そこでこそ問われているのは、私たちの信仰ではないでしょうか。主イエス・キリストはい ま私たち一人びとりに、ご自分が背負われた十字架の恵みを根拠とされて“シャローム”(主 の平和)を告げておられるのです。「神の救いの御業がいまあなたの上に実現している」「わた しはその平和をあなたに残す(救いの御業があなたに満ち溢れている)」と宣言して下さった のです。この「主イエスの平和」を戴いている私たちは、その平和に信仰によって生きている でしょうか?。この「主の平和」はいま私たちに十字架によって実現している神の“救いの出 来事”そのものです。「神の国は言葉ではなく力である」と主が言われたとおりです。キリス トのみが唯一の真の平和の与えぬしです。主イエスの口から“シャローム”(主の平和)が語 られるとき、そこには十字架による私たちの罪の完全な贖いがあるのです。だからこそ主はそ れを「あなたがたに残す」と言われました。その救いが永遠にあなたと共にあり、あなたの人 生を満たし、あなたを支え続けると、宣言して下さったのです。  主の弟子たちがこの御言葉の意味を悟るのはペンテコステ(聖霊降臨)によってでした。聖 霊によって主の教会が建てられる以前の弟子たちはまだ、この世のあらゆる恐れに満たされ 「心騒ぎ、おびえて」いたのです。それは彼らだけではなく現代社会全体の姿でもあります。 私たちの国は世界有数の経済大国と言われます。不景気の暗い影が覆っているとはいえ、世界 全体から見ればまだ日本は本当に豊かな国です。しかしその豊かなはずの日本で、年間3万5 千人以上の人々が自殺のため亡くなっている現実があるのです。私がいる葉山町の人口より多 くの人々が毎年自ら生命を絶っているのです。それはまさに“主の平和なき国家”の姿そのも のではないでしょうか。たとえいくら“幸福の条件”が揃っていても「主の平和」のないとこ ろに本当の人間の幸福はありえないのです。  まさに、そのような私たちの現実のただ中にこそ、十字架の主イエス・キリストは共にいま し、はっきりと語り告げていて下さるのです。「わたしの平和をあなたがたに与える」と…。 そしてこうも言われるのです「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と。こ こで私たちが心を向けたいのは、同じ新約聖書ローマ書5章1節の御言葉です。「このように、 わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神 との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神 の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。ここに主が私たちに与えていて下さる根本的な 本当の平和が示されています。それは私たちの罪の贖いによる「神との平和」(まことの神に 立ち帰ること)です。キリストの満ち溢れる恵みのご支配を受けて、真の礼拝者として生きる ことです。それが私たちの生きる「主の平和」なのです。  ときどき私たちの教会の中にさえ「平和」が失われることがあります。ある特定の人々の声 が教会の中で大きくなり、主の御声に変わって教会を支配するようになり、いつのまにかキリ ストのみが「主」である“恵みの共同体”の喜びが失われ“人間の支配する群れ”になってし まうことがあるのです。私たちの教会は信仰の上でも眼に見える制度の上でも「教会の主は十 字架の主イエス・キリスト」以外にあってはなりません。私たちは今朝の御言葉によって本当 に問われています。「あなたはいま、この教会で主が生命を献げて与えて下さった“主の平和” に、信仰をもって応える者になっているか?」と…。私たちの考える小さな平和ではないので す。そうではなく「主の平和」とは、ただキリストのみが「主」であられ、私たち全ての者が その満ち溢れる恵みのご支配を受けて立ち上がることです。  言い換えるなら、私たちはその満ち溢れるキリストの恵みのご支配を見失うとき、「主の平 和」を失った者(教会)になってしまうのです。自分の声や力の大きさ(人間の確かさ)が教 会を動かすのだと錯覚してしまうのです。しかし教会を建てるかたはキリストのみであり、教 会の永遠の「主」もキリストのみです。数年前「親分はイエス様」という映画がありました。 正しい意味で私たちもそうであらねばならないのです。「親分はイエス様」だけである。キリ スト以外に「親分」を持つとき、私たちは今朝の弟子たちのように「心を騒がせ、おびえて」 しまうのです。私たちが「主の平和」に生きるとは、眼に見える形で「親分はイエス様」だけ と証しすることです。そのときはじめて私たちは「主の平和」を全ての人に宣べ伝える器とさ れるのです。それこそ教会の本当の幸いであり喜びではないでしょうか。  みなさんはまだ幼かった頃、親からはぐれて迷子になった経験があるでしょう。あるいはご 自分のお子さんが迷子になった経験をお持ちのかたもあるでしょう。迷子になった心細さは譬 えようのないものです。迷子になった幼な子が安心するため(泣きやむため)には何が必要で しょうか?。モノを(お菓子やおもちゃを)与えることでしょうか?。そうではありません。 迷子の幼な子が安心する方法はただひとつ、それは親を見いだし、親のもとに帰ることです。 そのときはじめて幼な子は泣きやみ、安心して笑顔に戻るのです。「平和」に満たされるので す。私たちもそれと同じではないでしょうか。内村鑑三という人が「求安録」という本の最後 でこう語りました「しからば我は誰なるか。光なくして泣く赤子、光欲しさに泣く赤子、泣く よりほかに言葉なし」。私たちは人生という遠い旅路の中で、また世界という広大な海の中で、 いつも「まことの光なる神」を求めてやまぬ存在なのです。まことの神を見いだし神の御懐に 抱かれるまでは決して“真の平和”をえない存在なのです。  私たちの“真の平和”は、私たちの底知れぬ罪と死の重みを十字架で贖い取って下さった神 の御子イエス・キリストにのみあります。だからパウロはエフェソ書2章14節で「キリスト こそわたしたちの平和である」と語りました。それはただこのかただけが私たちの全ての罪を 身代わりに背負われ、罪によって神に叛いていた私たちをご自身の死によって神へと立ち帰ら せて下さったからです。だから「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたち の主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵み に信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにして」いるのです。新しい祝 福の生命の喜びを与えられているのです。それこそ“永遠の生命”です。御子イエスと父なる 神が一つであられるように、私たちもまた御子イエスによって造り主なる神に立ち帰り、いま あるがままに神の民とされているのです。  主イエスははっきりと「わたしは、わたしの平和を、あなたがたに、与える」と宣言して下 さいました。これは主の招きですから、私たちはただ感謝と喜びをもって受けるのみなのです。 それは私たちのものではなく「主の平和」ですから、その確かさはキリストの救いの確かさな のです。それこそ私たちから決して奪われることのない“本当の幸福の条件”なのです。まさ に私たち一人びとりの人生に“神の救いの御業がいま実現している”と主が宣言して下さいま す。だからこそ主はいま私たちに言われます。「あなたがたは、心を騒がせるな。おびえるな」 と!。「勇気をもって信仰の道を歩みなさい。心を高く上げてわたしの平和の内を歩み続けな さい」。そうすれば私たちの人生の全体をキリストの祝福の生命が満たして下さるのです。  私たちの人生にいま「神の救いの御業が実現している」のです。主イエス・キリストの十字 架に根ざす「主の平和」がいま私たちの全存在を支え、この教会に満ち溢れ、宣べ伝えられて いるのです。そこに私たちの変わらぬ幸いがあり、本当の力と慰めと喜びがあります。その幸 いと喜びのもとに、神は全ての人々を、教会を通して招いておられるのです。