説     教    申命記8章3〜5節   ヨハネ福音書15章7〜8節

「主の弟子たる道」

2010・06・20(説教10251329)  いま主イエス・キリストは、私たち一人びとりにこのように告げておられます。「あなたがた がわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望む ものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」。  まことに驚くべき御言葉です。主イエスはここでまず私たちのことを「あなたがたはわたしに つながっている」と語っておられるのです。これは「あなたの力でわたしに繋がっていなさい」 という誡めの言葉ではなく「あなた(がた)はすでに(教会によって)わたしに繋がる者とされ ている」という恵みの事実の宣言なのです。  私たちは、自分の信仰の生活に責任を持ちたいと願っています。「キリストの弟子」でありた いと願っています。しかしだからこそ私たちは、自分が「キリストの弟子」と呼ばれるには余り にも無力であり、内実が伴っていないと感じることがよくあるのではないでしょうか?。そのよ うな私たちに、主はいまはっきりと告げていて下さいます。「あなたがたはすでに、わたしに繋 が者とされている」と。これは主イエスの恵みの宣言です。この主の御言葉を信じることから、 私たちの弟子たる歩みが始まるのです。  私たちは何とかして「キリストの弟子になりたい」という願望を信仰生活の目標とするのでは なく「私たちはすでにキリストの弟子とされている」という恵みの事実が信仰生活の出発点であ り日々の祝福の歩みを作るのです。「キリストに繋がる」ということは、私たちの努力目標では なく、主がいま与えていて下さる祝福の出発点なのです。  さて、私たちの長老会では毎月の定期長老会の前に、必ず30分ほど神学書の学びをします。 かなり難しい本も読みます。数年前のことですが、オランダ改革派教会の神学者ファン・リュー ラーの「キリスト者は何を信じているか」という本を読みました。これはかなり読み応えのある 使徒信条の講解書です。  そのとき、一人の執事の兄弟からこういう質問が出ました。この本の中に「救いとは全く私た ちの内にはなく、私たちの外で現実にもたらされた出来事である」とありますが、それはどうい う意味ですか?。良い質問だと想いました。ファン・リューラーはかなり難しい文章を書く人で す。実はリューラーはこの文章によって逆説的な言いかたで、ヨーロッパ社会に今日も影響力を 持つ“実存主義”の立場を批判しているのです。  実存主義とはひと言で言うなら、真理というものは客観的な確かさを持たず、ただ主観的な確 かさがあるだけだという立場です。たとえばある人が「カラスは白い」と言い、他の人々が「そ うだそうだ」と追従すれば、いつのまにか「カラスは白い」ことになってしまうのです。だから この立場を福音理解にあてはめると、ずいぶんおかしなことになります。  それは何かと言えば、実存主義の立場では、キリストご自身よりも、キリストを信じる人間の 確かさが重要だということです。「いくらキリストが真実な救い主でも、それを信じる人間がい なければ、キリストはいないのと同じだ」というのが実存主義なのです。「真理の基礎は人間に ある」と主張するわけです。これは自由主義の立場と相俟って近代ヨーロッパ社会に広く蔓延し た価値観であり、今日でも大きな影響力を持っています。  そこでこそリューラーは問うのです「いったい私たちキリスト者は、何を信じているのか」と …。私たちが拠って立つ真理とは何か?。それは主イエス・キリストご自身なのか、それとも自 分という人間なのか?。この問いは“救いの確かさ”においてより明確になります。私たちは何 を「救いの確かさ」とするのか。キリストを信じる自分の確かさか、それとも、私たちを贖って 下さったキリストの確かさか。  もちろんそれは、私たちを罪から贖って下さった「キリストの確かさ」しかありえないのです。 そこにのみ私たちの「救い」があるのです。それがリューラーの「救いとは全く私たちの内には なく、私たちの外で現実にもたらされた出来事である」という言葉です。「私たちの内」に救い の根拠はひとつもない。それは個々の人間だけではなく世界全体にも言えるのです。この世界は 世界それ自体の中に救いの根拠を持たない。この歴史もまた歴史それ自体によっては救われない。 人間は人間それ自体によっては救われないのです。自然の中にも救いはないのです。被造物の中 に私たちの救いはないのです。  私たちの救いはただ、宇宙万物の創造主なる神と、神の遣わし給いし主イエス・キリストにの みあるのです。まさに先ほどのリューラーの言葉で言うなら「救いは全く私たちの内にはなく、 私たちの外で現実にもたらされた出来事」なのです。私たちが自分の力で神を発見するのではな く、私たちが恵みによって神によって見出され、神に招かれること、神の愛を受けていること、 御子イエス・キリストを与えられていること、ただそれだけが、私たちの救いの確かな唯一の根 拠なのです。  想えば、私たちには確かさなどどこにもないのです。突き詰めて言うなら、自分については疑 いしか残らないのが人間なのです。自分の存在、自分の人生、自分の力、自分の可能性、自分の 考え、自分の生命、これら全てには限界があり「疑い」しか残らないのです。しかし私たちは他 の全てを疑っても「主イエス・キリストによる救いの確かさ」だけは疑わなくてすむ、否、疑う ことはできないのです。なぜならキリストの御業こそ「私たちの外で現実にもたらされた(救い の)出来事」だからです。キリストが私たちのためにして下さった全ての御業(十字架の出来事) の確かさだからです。  すると、どういうことになるのでしょうか。改めて今朝の御言葉を受け止めたいのです。「あ なたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」と主 は言われます。この「ならば」とは主が生命をかけて実現して下さった私たちの救いの確かさの 確認です。「あなた(がた)はすでに、わたしの弟子とされている。わたしの言葉はあなたがた の中にとどまっているのだ」と主は言われるのです。この「わたしの言葉」とはキリストによる 救いの出来事(十字架の出来事)です。十字架による贖いの恵みがいまあなたがたの内に「とど まっている」と主は言われるのです。  それは主の教会の確かさと言って良い。主の教会に連なるとき、私たちは「この私にも十字架 の贖いの恵みの確かさが“とどまっている”」と信じることができるのです。私たちは自分の罪、 自分の弱さ、自分の不確かさを根拠にキリストの「救い」を疑うことはできないのです。何より キリストみずから「あなたはすでに、わたしに繋がっている」「わたしの言葉は、あなたの中に とどまっている」と告げていて下さるからです。言い換えるなら、キリストの「救いの確かさ」 によって、私たちのあらゆる不確かさは打ち砕かれるのです。朽ちるほかない私たちを、主が覆 っていて下さるのです。  私たちは、私たちがまだ主を知らなかったとき、主がまず私たちを訪ね求め、見いだして下さ り、私たちのために十字架にかかって下さったことを信じます。主がまず私たちを何の価もなき ままに、祝福の生命のもとに招いて下さったのです。私たちのために十字架の上に死んで下さっ たのです。このことをパウロはローマ書5章8節にこう語りました「しかし、まだ罪人であった 時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を 示されたのである」。  だからこそ、主は今朝の御言葉の8節で、さらにこう語られるのです「あなたがたが実を豊か に結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるで あろう」。すでに私たちはヨハネ伝15章5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝で ある」と読みました。「もし人がわたしにつながっており、またまたわたしがその人につながっ ておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」と。私たちが自分の力で主イエスに「繋がって いる」確かさではなく、主イエスが私たちに「繋がっていて下さる」確かさこそ、私たちを「豊 かな実」を結ばしめる救いの確かさなのです。  主イエスはいま、私たち一人びとりを、その満ち溢れる祝福の生命の確かさへと招き入れてい て下さいます。そして「あなた(がた)は私に結ばれて、すでに豊かな信仰の実りを結ぶ者とさ れているではないか」と言われるのです。「あなた(がた)はいま、私の真の弟子となっている ではないか」と宣言して下さるのです。  キリストの真の弟子になることは、私たちの信仰の全生涯を費やしてもなお足らぬ課題です。 しかしそれはそれ以上に、いまここで無条件に、主イエスを信じて教会に連なる私たち全てに主 が与えて下さる「恵みの賜物」なのです。私たちはすでに主イエスによって捕らえられているの です。御国の民とされているのです。その恵みが私たちと共にあればこそ、私たちはパウロのよ うに「いつも全力を尽くして主の御業に励む」ことができるのです。「後のものを忘れ、前のも のに向かって身を伸ばしつつ、神がキリストにあって備えていて下さる栄光の賞与を得んとて努 める」者とされているのです。  キリストの弟子たる道、それを英語では「ディシプリン」と言います。「戒規」とも訳される この言葉の本来の意味は「キリストに結ばれ、御言葉に養われる生活」です。真の教会とは真の ディシプリン(キリストの真の弟子)が現れる場所です。礼拝を通して絶えず生命の御言葉のも とに呼び戻され、私たちは信仰生活の新たな出発点を与えられます。これもディシプリンです。 聖書を正しく学ぶことも、たえず祈ることも、諸集会や家庭集会に出席することも、奉仕や献げ もののわざも、教会生活の全体がキリストのみを「かしら」とするディシプリン(キリストの弟 子たる道)を歩むことなのです。だから「ディシプリン」という言葉は「ディサイプル」(キリ ストの弟子)とひとつなのです。  私たちは、キリストの弟子とされた者として、いつも主の御前に真の礼拝者へと呼び出されて います。すでに私たちに、十字架の主の限りない救いの確かさが(キリストご自身が)与えられ ています。だから私たちはいつもキリストのみが「かしら」であられる本当の教会生活を続けて ゆくことができます。キリストの満ち溢れるディシプリン(弟子たる道)を豊かに戴く生活を続 けてゆくことができます。そこにキリストの真の弟子の姿があります。主がいまここで私たちに その弟子たる道を歩ませて下さるのです。  その私たちには、全てにまさる幸いが約束されています。今朝の御言葉の最後です。「あなた がたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば」「わたしの父は栄光をお受けになる であろう」。なんという幸いでしょうか。私たちが真のキリストの弟子とされるとき、私たちの 全生涯を通して、主の御業が現れるのです。誰の目にもとまらぬところで毎日、病気の家族の看 護に明け暮れている人もいるでしょう。しかしその全てのわざが神の国で限りない意味を持つの です。確かな輝きが現れるのです。それは「わたしの父は栄光をお受けになる」すなわち主イエ ス・キリストの父なる神の栄光、神の救いの御業、神の愛の確かさ、全ての人への祝福と平和が、 私たちの全生涯を通して世に現されるのです。  私たちは、そのようなキリストの弟子とされています。そのような主の証人たちを知っていま す。教会の本当の教勢は、真のキリストの弟子を幾人「天の教会」に送り出したかで測られます。 いま私たちは主に贖われた僕とされ、キリストの真の弟子として地上の生活を忠実に歩み、御国 に召された多くの証人に雲のように囲まれているのです。地上にあっては数々の涙の谷・試練の 山を越えつつ、しかも常に主の真の弟子として、神の愛の祝福の確かさを人々に証しつつ、その 歩みを主の御手に支えられつつ、主に結ばれて世を去った多くの人々を私たちは知っているので す。  私たちもまた、同じ御霊によって導かれています。私たちもまた同じ御言葉に支えられていま す。私たちもまた同じキリストの復活の生命に連なっているのです。同じキリストの弟子とされ ているのです。心を高く上げて、キリストの弟子たる道を、心新たに、最後まで、死を超えてま でも、歩んで参りたいと思います。