説     教   詩篇138篇7〜8節  ヨハネ福音書15章5〜6節

「キリストに繋がる」

2010・05・13(説教10241328)  この新しい礼拝堂を献堂してはや10年になります。以前の古い礼拝堂のとき、ときどき風の ため電話線が切れて電話が通じなくなることがありました。電話が通じないことに気が付くのは こちらから電話をかけるときです。外からかかって来ても全く気がつかないわけです。「今日は 電話がなくて静かな日だね」などと妻と話していたら電話線が切れていた、そういうことがよく ありました。牧会はもちろん日常生活にも支障をきたします。修理を頼むにも電話自体が不通な のでどうしようもない、そういう経験をしました。  そこで改めて感じたことがあります。私たちはふだん電話という「文明の利器」の恩恵を当然 のように受けています。そしてそれが機能しなくなるとパニックに近い不自由さを感じます。一 刻も早く修理しなくてはと慌てるのです。  それでは、人間どうしの対話に必要な電話をそれほど大切にする私たちが、主なる神との対話 をそれ以上に大切にしているのかと言うと、そうではないのではないでしょうか。私たちは神の 言葉を聴き応えることをいつも生活の中心にしているでしょうか。電話が故障すれば一刻も早く 修理をと焦る私たちは、神との対話にそれ以上の切迫感をもって対応しているでしょうか。神と の間の電話線は切れたまま平気でいることはないでしょうか。  私たちの主イエス・キリストは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われ ました。今朝のヨハネ伝15章5節です。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがそ の人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。これが今朝の御言葉において 与えられた私たちへの主イエスの御教え(福音)です。そしてさらに主はこのようにもお教えに なります。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。  もし私たちが電話の故障には迅速に対応するのに、主なる神との関係の断絶には気をとめよう ともしないとすれば、それはとてもおかしなことです。不思議なことです。矛盾したことです。 電話が切れても私たちは人間として立派に生活ができます。しかし主なる神との関係が失われた 人生は、決して実を結ぶことのない、生命の喜びと平安を失った人生だからです。私たちは一本 の電話線よりも遥かに大切な神との関係を見失っていることはないでしょうか?。  そこにも私たちは自らの根本的な「罪」の姿を見出すのです。「罪」の目的とするものは私た ち神の愛と摂理によって造られた人間を、造り主にして父なる神から引き離すことだからです。 神との関係を切断することです。神との対話を成り立たなくすることが「罪」の目的だからです。  かつて、南洋の孤島のジャングルに取り残され、戦争の終結を知らずに何十年も孤独な戦いを 続けていた兵士がいました。戦争は終わったのだから安心して出てきなさいと幾度呼びかけても、 それは敵の策略だと頑なに思いこみ、ただ一人で戦争を続けていたのです。私たちはその兵士と 同じではないでしょうか。私たちこそいつのまにか罪の虜となり、神からの恵みの呼びかけに耳 を傾けようとせず、ひとり死の支配の中に頑として閉じ籠っている存在ではないでしょうか。矛 盾した逆さまなその姿こそ、実は全ての人間の本質的な矛盾(罪の姿)なのです。私たちは在る べき「神の恵み」のもとには在らず、在るべからざる「罪の支配」のもとに在る存在なのです。 ほんらい在るべき処に在らぬその矛盾のゆえに、私たちの人生は根本的に実を結ばぬ“在りえぬ” 人生となってしまうのです。その“在りえぬ”人生とは、生命に代わって死が支配するようにな った人生です。死が私たちの生命を呑みこみ、罪が私たちの存在を支配してしまう人生です。  使徒パウロは、そのような私たちの根本的な矛盾をローマ書7章15節において「わたしは、 自分のしていることが、わからない」と語っています。この「わからない」とは、ただ“知識が ない”という意味ではなく“何の意味も持たない”という意味です。つまりパウロは、自分のし ていること(自分の人生)は「罪の支配」のもとにあるかぎり“何の意味も持たない”のだと言 っているのです。  そしてパウロはその結果「わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしてい る」と語りました。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には 別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則 の中に、わたしをとりこにしている」。パウロはその「罪の支配」のただ中から主なる神に祈り を献げます「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わ たしを救ってくれるだろうか」。  その祈りに対する唯一の確かな答えは、神の遣わされた御子イエス・キリストによって与えら れました。それがパウロの知った真の救いです。「わたしたちの主イエス・キリストによって、 神は感謝すべきかな」。「わたしたちの主イエス・キリストによって」とパウロは高らかに讃美の 歌声を上げるのです。この「キリストによって」とは「キリストに居る」(キリストに結ばれて いる)という意味です。主イエスは「わたしに繋がっていなさい」と言われました。この「繋が っていなさい」もまた文語訳では「われに居れ」でという言葉です。つまり「キリストによって」 とは「キリストに繋がる者として」という意味です。  私たちは知るのです。罪と死の支配はもはや、キリストに繋がる自分に対して何の力も持ちえ ないことを…。死に呑みこまれるほかなかった私たちの人生を、そのあるがままにキリストが贖 い取って下さった。キリストは十字架によって罪を打ち砕き、復活によって死に勝利して下さっ たのです。そのキリストの復活の生命に結ばれた私たちを、罪と死は支配することはできない。 神の永遠の勝利の恵みのご支配が私たちと共にある。そのようにパウロは宣言しているのです。 「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」とはその勝利の讃美歌です。  この救いの勝利の喜びと確信を、パウロはさらに同じローマ書6章20節以下にこう語ってい ます。「あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、 どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、 死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。 その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの 主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。  そこで、改めて今朝の御言葉です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし 人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結 ぶようになる」。主イエスはここに私たちのあらゆる「罪」の現実を超えた、神の限りない「賜 物」を私たちに福音として告げておられます。それこそ「わたしはぶどうの木、あなたがたはそ の枝である」という事実です。この「枝である」とは“すでにキリストに結ばれたあなたは、全 ての罪を贖われた者として、永遠にキリストに連なる者とされている”という事実の宣言です。  たとえ電話線が風で切断されても、私たちが主の教会に連なるなら、神との関係は決して切断 されることはありません。そればかりではなく、主は「もし人がわたしにつながっており、また わたしがその人とつながっておれば」と言われました。これこそ恵みの約束であり確かな福音の 事実です。私たちは自分の力だけを見るなら、いつもキリストにしっかり「繋がっている」わけ ではありません。しかし私たちの力がどんなに弱くても、キリストは常に変ることなく私たちを 堅く捕らえていて下さるのです。私たちを主に連なる枝としていて下さるのです。それこそ神の 限りない「賜物」であり、その「賜物」は死の支配からさえ私たちを解放するのです。キリスト の生命が私たちを覆って下さるのです。  そのように顧みますと「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」と言われた主の 御言葉がより明らかになります。私たちはキリストに結ばれていなくても、肉体の生命において は普通の人間として生活することができます。健康に恵まれ、多くの友を持ち、家族に囲まれ、 有意義な仕事を全うすることもできるかもしれない。しかしキリストに結ばれていないかぎり、 たとえいかなる人生といえども決して「罪と死の支配」から逃れることはできません。パウロを して「わたしは、自分のしていることが、わからない」と嘆かしめた、人生の根本的な虚無に対 する解決を見いだすことはできないのです。  その解決の道は、ただ十字架にかけられたまいし主イエス・キリストにのみあります。キリス トに結ばれている人生のみが、死に打ち勝つ復活の生命に支えられた真に豊かな実を結ぶ人生な のです。その意味で私たちは本当に、十字架のキリストから離れては「何一つできない」存在な のです。「ぶどうの枝」は「ぶどうの木」に連なっていてはじめて生命があります。幹から離れ た「枝」もほんのしばらくは生命を保っています。しかしその生命は束の間の実を結ばない生命 にすぎません。  私たちはそのような人生を生きる僕なのではない。私たちは御言葉と聖霊によって新しく生き る群れとされているのです。教会によってキリストに繋がる者とされているのです。真の礼拝者 とされているのです。キリストに贖われた者とされているのです。そこに、キリストの復活の生 命に結ばれて生きる新しい喜びと幸いの人生が始まっているのです。いますでに主に繋がってい ることにより(主が私たちを捕らえていて下さる恵みによって)その喜びの生命の「賜物」は今 ここで私たちのただ中に実現しているのです。  それゆえに私たちは、いつも主イエスに繋がって生きる僕であるゆえに、日々の生活の中で、 次の5つの事柄に心を用いたいのです。  第一に、礼拝中心の生活を確立することです。教会はキリストの復活の御身体です。教会から 離れた生活はキリストから離れることです。私たちには礼拝を休む口実など探さなくても幾らで もあります。それに流されては礼拝中心の教会生活はできません。私たちはキリストがご自分の 生命を献げて私たちを礼拝へと招いていて下さることを深く覚え、全てにまさって礼拝を大切に する生活を確立したいものです。  第二に、日々聖書の御言葉に親しむことです。御言葉こそ私たちの内にキリストの救いをもた らす変わらぬ生命です。御言葉に親しむことは、家で聖書を読むことだけではありません。礼拝 の説教を正しく聴くこと。教会の聖務集会を重んじて出席すること。家庭集会で御言葉の学びを 深めることが大切です。そしてわらないことがあったらいつでも牧師に質問してよいのです。  第三に、祈りの生活を確立することです。祈りはありのままの自分の言葉でよいのです。特に 「主の祈り」はいつでも祈りの手本です。祈りの生活を失った信仰生活は、主なる神との電話線 が切れたままの生活です。祈りは主なる神との対話です。この対話を通して私たちは自分の生活 の全体を神の聖なる御心に寄り添わせるようになります。祈りが毎日の呼吸のようになるまで、 私たちは絶えず祈りの生活に務めたいものです。  第四に、伝道をすることです。伝道とは心にかけている人をまず教会に誘うことです。親友の ピリポを主イエスのもとに誘ったアンデレ、また、スカルの村の人々を主イエスのもとに導いた スカルの女性の働きに倣う私たちでありたいのです。  最後に、献げものにおいて、いつも神の御前に感謝の献げものを献げる僕になりたいと思いま す。日曜学校の生徒でさえ精一杯の維持献金を献げています。献金はお賽銭ではありません。初 穂(大切なもの)を献げる心なくして本当の献金はできません。私たちは自分の所有の一部分を 神に献げるのではないのです。私たちが神に献げるものは神が私たちに与えて下さったものです。 神から受けた賜物を感謝して神の御業のために献げるのが信仰生活です。私たちはこの志をいつ も瑞々しく保つ主の僕でありたいと思います。