説    教     イザヤ書5章7節   ヨハネ福音書15章1〜4節

「われに居れ」

2010・06・06(説教10231327)  今朝の御言葉は「ぶどうの樹と枝の譬え」として、聖書の中でも特によく知られている御言葉 のひとつです。主イエス・キリストが語られた譬え話は、常に身近な物事を通して神の国の奥義 (福音の真髄)を私たちによく理解させてくれるものです。  ぶどうの樹は、主イエスがおられた古代イスラエルでもっとも大切な植物でした。いまでもイ スラエルでは、ぶどうは最も重要な農産物のひとつです。良いぶどうの収穫を得るためには、入 念な準備と手入れが必要です。  まず何よりも、良いぶどう園を作らねばなりません。そのために農夫は何十年ものたゆまぬ努 力を必要とします。そして良いぶどう園が出来たら、今度はそれを維持管理するための日々の手 入れを怠ることはできません。ぶどう園の管理は細心の注意と忠実さが求められる仕事です。  しかし、たとえどんなに農夫が注意ぶかく忠実にぶどう園を管理しても、植えられたぶどうの 樹が“良いぶどうの樹”でなければ、決して良い収穫をえることはできません。そのために熟練 した農夫は、自分のぶどう園に植えるための“良いぶどうの苗木”を選ぶ特別な鑑識眼を必要と したのです。  彼らは、自分が探し求めていた“良いぶどうの苗木”に出会ったとき、その苗木を「まことの ぶどうの樹」と呼んで大切にしました。「これこそ私が捜し求めていた“まことのぶどうの樹” である」と呼んだのです。  今朝の御言葉であるヨハネ伝15章1節に、主イエス・キリストは「わたしはまことのぶどう の樹」であると、ご自分を呼んでおられます。主イエスは傲慢にご自分を偉く見せようとしてこ う言われたのではないのです。むしろここで主が「わたしはまことのぶどうの樹」と言われると き、2つの重要な事実が示されているのです。  第一には、同じ1節に「わたしの父は農夫である」と言われているように、父なる神が御子主 イエス・キリストを「まことのぶどうの樹」として、この世界という名の“神のぶどう園”にお 遣わしになった(つまり十字架を通して世界を救われた)という事実。そして第二に、その「ま ことのぶどうの樹」に連なる「枝」こそ私たち一人びとりだという事実です。  まず、主イエスが「わたしの父は農夫である」と言われたことをご一緒に考えてみましょう。 この「農夫」とはぶどう園の「主人」のことです。つまりこの「農夫」という言葉によって私た ちは、この世界は偶然・自然の産物などではなく、父なる神が限りない愛をもってお造りになっ た“神のぶどう園”にほかならないことを示されているのです。  私ごとで恐縮ですが、私はかつて農学校で学んだ経験があります。そのとき「ぶどう園の管理」 をするという経験をしました。ぶどうの栽培には非常な忍耐と努力が必要です。その農学校では “マスカット・オブ・アレキサンドリア”という品種のぶどうを栽培していたのですが、良い収 穫をえるためには、天候の変化や温度や湿度の管理などをいつも念頭に置いて、適切な処置を怠 らずにしなくてはなりません。まさに細心の注意と忠実さとを必要とする仕事でした。  私はこの農学校在学中の16歳のとき教会の礼拝に初めて出席し、17歳のときに洗礼を受けま した。はじめて今朝のヨハネ伝15章の御言葉を読んだとき、この「わたしの父は農夫である」 と言われた主イエスの御言葉に非常に感動したことを覚えています。  古代イスラエルの人々はなおさらであったことでしょう。主イエスの御口から「わたしの父は 農夫である」と聴いたとき、人々はすぐに理解したのです「そうだ、主なる神はこの世界を、ぶ どう園の主人のように、心をこめて、最善のものとしてお造りになられたのだ」と…。気の遠く なるような聖なるご配慮と神の大きな御心が現れている世界であることを、人々は「農夫」とい う言葉から理解したのです。  そこで、主なる神が「農夫」すなわち“ぶどう園”の「主人」として、この世界においてなさ っておられる働きが続く2節以下に示されているのです。「わたしにつながっている枝で実を結 ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、 手入れしてこれをきれいになさるのである」。  ぶどうの樹の管理でいちばん気を使うのは「枝の剪定」です。一本の幹から何本もの太い枝が 伸び、さらにその太い枝から、実を実らせる細い枝が無数に伸びるのです。その細い「枝」を剪 定する作業が大切です。実が実る枝と実らない枝があるからです。その枝の違いを見抜いて、実 らない枝はこれを「とりのぞき」実をみのらせる枝は「もっと豊かに実らせるために、手入れし てこれをきれいに」する。まさに今朝の御言葉に記されているとおりの手入れか必要なのです。  ここで「これをきれいにする」と訳された元々の言葉は、ただ単に「整える」とか「刈り揃え る」という意味ではなく「心をこめて育てる」あるいは「慈しむ」という意味の言葉です。主な る神は“ぶどう園の農夫”が心をこめて“ぶどうの樹”を慈しみ育てるように、その枝である私 たちを罪から贖い「実を実らせる枝」としてお育てになるのです。つまりキリストの十字架の出 来事がここにはっきり示されているのです。  同じぶどうの樹の「枝」の中にも「とりのぞかれる」枝もあり、逆に主が「手入れされて(実 をみのらせる)」ものもあるのです。ということは、私たち人間はその両方の「枝」を自分の中 に持っているということです。真の神を求めてやまぬ自分と、神から離れてゆこうとする自分が いつも共存しているのです。同じように、社会全体を見ても、そこには良いものや美しいものも ありますが、反対に悪いものや醜いものをも、私たちは見いだすのです。  太宰治という作家が「人間失格」という小説を書きました。この中で太宰は「生まれて来て済 みません」という言葉を語り、これが自分の偽らざる思い(結論)だと語っています。太宰とい う人は正直で繊細な魂の人ですが、人間を(自分を)透徹したまなざしで見つめるとき、太宰は どうしても自分は「生まれて来て済みません」としか言えないのだと言うのです。慙愧なしには 存在できないのだと言うのです。太宰は自分をごまかせない人であったからこそなおさら、その 慙愧の重みに耐えられなかったのかもしれません。  では、私たちはどうなのでしょうか?。私たちは「生まれて来て済みません」などと思いもせ ぬほど正しく清い人間なのでしょうか?。あるいは、そうした思いを心の奥に秘めてはいても、 太宰ほど繊細でもなく正直でもないゆえに、自分と他者を欺きつつ適当に生きているだけなので しょうか?。いずれにせよ大切なことは、私たちは自分を含めて人間を欺くことはできても、主 なる神を欺くことはできないということです。  神は私たちの本当の姿を知っておられます。本当の私たちを見ておられます。そして主なる神 の前に私たちは全て「とりのぞかれる」べき“実らぬ枝”にすぎません。「生まれて来て済みま せん」と言うほかはない存在なのです。それならば神のなさる「手入れ」とは、私たちを「とり のぞく」ことでしかないはずです。  しかし今朝の御言葉の3節に、驚くべき事実が告げられているのです。すなわち主イエスはは っきりと「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」と言われたこと です。この「きよくされている」とは元々のギリシヤ語を直訳すれば「手入れはもう終わってい る」ということです。「手入れはもう終わっている」。つまり、あなたがたはもう「取り除かれる べき実らぬ枝」なのではなく「もっと豊かに実らせるために」神が「心をこめて育てておられる」 「実を実らせる枝」とされているのだという事実です。それが「きよくされている」という言葉 の意味なのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。まさに今朝のこの「ぶどうの樹の譬」は十字架の 主イエス・キリストの贖いの出来事を指し示しているのです。私たち全ての者の罪のために神の 御子イエス・キリストが十字架に死んで下さったことです。そのキリストの十字架の贖いによっ て、はじめて私たちは「実を実らせる枝」とされて、いまここに集められているのです。私たち は「豊かに実を実らせる」ものとされているのです。「生まれて来て済みません」ではないので す。主があなたをかけがえのない存在としておられるのです。  「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」。この「言葉」とは十 字架の出来事なのです。つまり主は「わたしの担った十字架によって、手入れはもう終わってい る」と宣言して下さるのです。罪と死の支配は審かれ、終わりを告げたのです。主イエスの十字 架によって、神の愛が永遠の勝利を治めた世界に、私たちはいま存在せしめられているのです。 復活の勝利の生命に連なるものとされているのです。  それは神の御子イエス・キリストみずから、私たちに代わって、取り除かれるべき「枝」とな って下さったからです。父なる神は実にその独子を賜わったほどに、この世を(このぶどう園を) 限りなく愛され、慈しみ、養い、育てておられるのです。私たちの代わりに最愛の独子を取り除 き、その独子の十字架の死と葬りによって、私たちの罪を贖って下さったのです。その恵みの出 来事によって、私たちはいまここに「かならず実を結ぶ枝」とされているのです。主に結ばれて いるなら「実を結ばない枝」はひとつもないのです。  そのような私たちに、いま主が求めておられることは何でしょうか?。それが最後の4節に告 げられています。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっ ていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないよう に、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」。  まことに単純明快な真理です。しかしこの単純明快なキリストの恵みに立たないかぎり、私た ちの世界は「生まれて来て済みません」との慙愧に囚われ続けるのです。反対に私たちが真実に キリストのみを「かしら」とし、本当に主を信じる群れへと成長してゆくとき、私たちの人生は かならず豊かな実を結び、全ての人々に神の祝福を証するものとなるのです。どうか私たちは十 字架の主のみを仰ぐ群れへと成長しましょう。「わたしにつながっていなさい」と言われた主イ エスの御声にそのまま従う者になりたいのです。  これは文語訳の聖書ではさらに明快です。「われに居れ」であります。この「居る」という字 は「住む」という意味です。「家に居る」の「居る」と同じ字です。つまり、キリストの家の家 族になること、主の家に留まり続けること、それが「われに居れ」と言われた主に従う道です。 その「キリストの家」とは教会です。だから「われに居れ」とはすなわち「教会に連なるとき、 あなたはわたしと共に住まう者になるのだ」と主が告げて下さっているのです。私たちは教会に 結ばれてのみ、キリストに「居る」者とされるのです。  その「キリストに居る」私たちに、さらに驚くべき祝福が告げられているのです。「そうすれ ば、わたしはあなたがたとつながっていよう」と…。文語では「われに居れ、さらば我なんぢら に居らん」です。私の家に住む人を、私が贖ったあなたを、私は決して私から離れた者にしない と、主ははっきりと約束して下さるのです。  私たちの力は、本当に弱く不確かです。自分の力でどんなに主イエスに「繋がっていよう」と しても、辛いこと、困難なこと、悲しいことが起こると、私たちの手はすぐ弱ってしまい、主イ エスから離れてしまうのです。しかし主イエスが私たちをいつも力強く捕らえていて下さり「主 に居る者」として下さるのです。主イエスの御手は決して私たちから離れることはないのです。 主イエスご自身が測り知れぬ勝利の御手をもって、私たちをいつまでもご自身に「居る」者とし て下さるのです。それにまさる祝福がどこにあるでしょうか。  私たちは今ここに新たにこの御言葉を聴きました。そしてこの御言葉によって、すでに主イエ スに「居る」者とされ、救われた民の一員とされているのです。いまものちも永遠までも、主が 常に私たちと共におられるのです。キリストが唯一の贖い主として私たちと共にいて下さるので す。「われに居れ、さらば我なんぢらに居らん」。なお日々の生活にいろいろな悩みがあるかもし れない。しかし私たちはいつも主にあって、変わらぬ慰めと勇気と平安を賜わり、御国の世継と され、豊かな祝福の実りの人生を与えられているのです。