説     教    伝道の書9章7〜8節  ヨハネ福音書14章28〜31節

「実在と虚構」

2010・05・30(説教10221326)  仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)という言葉があります。これは魔術性を持った言葉で して、コンピューターなどで人工的に作り出された架空の画面が現実のように見えることです。 映画などでも3D映像が当たり前になりました。実体のない架空の現実なのですが人間を支配す る。その影響で人間もいつのまにか仮想と現実の区別がつかなくなる。そういう社会問題が実際 に起こっています。幼い頃からコンピューターゲームに熱中していた少年が幼い子供をビルの屋 上から放り投げる、そういうことが実際に起こっているのです。投げられた幼子は生身の肉体で すから落ちて死ぬわけですが、そういう他者の痛みが現実に感じられなくなるのです。  実はこのことは子供たちだけでなく、大人も含めて現代社会全体に共通する深刻な問題を浮き 彫りにしています。それは何かと申しますと、いつのまにか現代社会は人間を単なる自然(モノ) によって支配される(支配されている)と考える組織になってしまった。言い換えるなら、自然 的な価値以上の人間の価値(自然を超えた人生の価値)を認められず、物質的価値以上の人間の 価値はないと考える歪な社会になっているのです。それが人間の生活にも暗い影を落としていま す。人間そのものが損なわれ、孤立化し、病んでいるのです。人生の目的が何であり、どこに生 きる意味があるのか、大人にも子供にも見えなくなっているのです。ある意味でこの社会全体が 「仮想現実」と化してしまっているのです。人間の心を麻痺させ、孤独へといざなう、魔術性を 持った社会になっているのです。  それでは聖書が「初めに神、天と地とを創造したまえり」と告げているこの世界の本当の姿は どういうものでしょうか?。主イエス・キリストはこの世界を「仮想現実」の支配する虚しいも の(ただ物質のみが支配する世界)と教えたもうたのでしょうか?。そうではありません。主イ エスがお教えになったこの世界の真の姿は、宇宙万物を限りない愛と目的をもって創造された父 なる神がおられる。私たちはこの神によって無から有へと呼び出されたかけがえのない存在であ る。そのように主は教えておられるのです。すなわち、世界はただ自然(偶然)が支配している のではない、この世界は超自然によって自然が支えられ、神が人間と関わりを持ちたもう場所で あるということ。そのことを何よりも明確に示しているのが、今朝お読みしましたヨハネ伝14 章28節以下の御言葉なのです。  「『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、 あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでく れるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。今たしは、そのことが起らない先 にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである」。そして更に 主は今朝の30節以下にこうお教えになりました。「わたしはもはや、あなたがたに、多くを語 るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、 わたしが父を愛していることをこの世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのこと を行なうのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう」。  主イエス・キリストは、今や十字架へと向かう最後の道程を歩みつつあるのです。愛する弟子 たちとの決別の時にあたり、主は「『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って 来る』」と言われたご自身の御言葉を思い起しなさいと弟子たちにお諭しになります。それをあ なたがたは既に「聞いている」ではないかと言われるのです。そして、それならば「わたしが父 のもとに行くのを(父のもとに帰るのを)喜んでくれる(はずだ)」と言われるのです。それは この時の弟子たちが、大きな不安を感じ「心を騒がせていた」からです。だからこそその弟子た ち(また私たち)に主ははっきりとお告げになる。「(わたしは)わたしの平安をあなたがたに 与える」と。そして、その平安の揺るぎない根拠として、主が今日の御言葉でお示しになったこ とこそ「父がわたしより大きいかたであるからである」という事実です。  主イエス・キリストと御父なる神とは一心同体です。神の御子は神そのものであられるのです。 ニカイア信条にも主イエスは御父と「本質を同じくされる」かただと告白されています。それな ら今日の御言葉は矛盾しているのではないでしょうか。「わたしと父とは一つである」と言われ ることはよくわかる。しかし主イエスはさらに「父はわたしより大きいかたである」と言われた のです。これはなぜなのでしょうか?。なぜ主イエスは、敢えてこのようなことを言われたので しょうか?。  聖書は主イエス・キリストが「まことの神のまことの独り子」でありながら、私たちと寸分違 わぬ人の姿をもってこの世界のただ中に来られたかたであることを私たちに告げています。つま り主イエスは、まことの父なる神と私たちとを結ぶために、神と人との仲立ちとしてこの世に来 られたかたなのです。私たち人間はいつも父なる神の御心から遠く離れ、御心に叛いている存在 です。その私たちの罪を贖い、私たちを神と和解させて下さるために、主イエスは人となられて 世に来られ、十字架の死によって私たちの罪を贖い、永遠の生命(神との永遠の生きた関係)を 与えて下さったのです。聖書が語る「永遠の生命」とは、私たちが主イエス・キリストによって まことの神に立ち帰ること(神の国の民とならせて戴くこと)です。教会によって復活のキリス トに結ばれることです。  それならば、主イエスはいま「まことの神」であられると同時に「まことの人」として「永遠 の生命」の恵みを弟子たち(私たち一人びとり)に告げておられるのです。それは「まことの神 にしてまことの人」であられる主イエス・キリストによってのみ、この世界また私たちの人生は 単なる自然の一部などではないことが明らかになるのです。そうではなく、この世界また私たち の人生は自然を超えたかた、すなわち宇宙万物の創造主なる神によって無から有へと呼び出され、 かけがえのない人格を与えられたものなのです。私たちはこの世界と人生の全体を通して、まこ との神との永遠の交わりへと招かれているのです。それは私たち一人びとりが、キリストによっ て罪贖われた永遠の御国の民として歩む幸いを与えられていることです。言い換えるならイエ ス・キリストによって、この自然の世界の中に永遠が突入したのです。私たちをも含むこの自然 が、自然を超えたかたによって救われたのです。  私たち人間は本来の自然の姿においては真の神に叛く罪の姿でしかありえません。だから自然 の一部分である限り私たち人間は、自然をも救いえず、むしろ自然を「仮想現実」として生きる ほかはないのです。ただ宇宙万物を創造された真の神によってのみ(その神の御子イエス・キリ ストを信じる信仰によってのみ)私たちは朽つべき身体に永遠の生命を与えられ、何の価もなき ままにかけがえのない「神の民」とされ、キリストの恵みのご支配の内を勝利の御手に支えられ つつ歩む者とされるのです。キリストが私たちの罪のいっさいを贖って下さったということは、 もはや自然(罪と死の支配)は私たちの主人ではありえないという真の自由の告知です。罪と死 に勝利された十字架の主イエス・キリストのみが永遠に変わらない唯一の主なのです。  それは神が、御自身の独り子イエス・キリストを惜しまず与えたもうたほどにこの世界を愛し て下さったからです。ニーバーという神学者は「キリストは私たちを支配するあらゆる幻想から 世界を解放し、真の現実(リアリティ)へと導く唯一のパスポートである」と語っています。私 たちは神の最愛の独り子キリストを賜わったことにより、もはやこの世界が偶然の支配する頼り ない世界などではなく、神が限りない愛をもって導きたもう御心の顕れる世界であることを知ら されているのです。またこの人生の全体が、あらゆる経験と挫折、失敗や苦しみや悲しみや困難 にもかかわらず、否、むしろそうした経験があればこそ、いっそう頼もしい神の統治したもう世 界であることを教えられているのです。  私たちの人生は、挫折や失敗がないから幸いなのではありません。むしろ人間として本当に不 幸なのは挫折や悲しみを一度も経験したことがない人です。イスラエルの歴史がそれを示してい ます。モーセによってエジプトを出て約束の地カナンに入るまでに40年もの歳月を必要としま した。真直ぐ歩いてゆけば半月ほどで到達できる距離に40年も必要としたのです。それは「荒 野」で人々の信仰が本物になる必要があったからです。数々の苦しみの経験を経て、はじめて約 束の地にふさわしい信仰の人格へと鍛え上げられていったのです。  最初はイスラエルの人々は不平不満だらけでした。エジプトに帰りたいという者たちまでいま した。しかし苦難を乗り越えてゆくうちに、信仰がまし加えられ眼差しが開かれてゆきました。 主なる神はこうした数々の試練や悲しみを通して、私たちを永遠の御国にふさわしい真の「神の 民」に鍛えようと御心を注いでおられる。人生はこの経験あればこそいっそう神の与えたもう価 値ある人生であり、またこの世界はこの旅路あればこそ永遠につながる神の世界である。そうい う確固とした信仰による正しい世界認識、人生の理解へと人々は導かれていったのです。  私たちは神の統べ治めたもう民です。私たちは測り知れぬ罪をキリストに贖って戴いたのです から、なおさら全てをとおして主の御名を讃える者へと成長してゆきたいものです。神が共にお られない世界という「仮想現実」から出エジプトして、神がいつもいかなる時にも共におられ導 いておられる世界であるという、確かな「神われらと共にいます現実」を知る者になりたいと思 います。  もう天に召された一人の姉妹がいました。彼女は18歳のときに失明した人です。藁にも縋る 思いである地方の寺に眼病平癒の修行に行きました。ところが辛い修行を重ねても眼は少しも治 らない。ある日、絶望した彼女は自らの生命を絶とうとするのです。その日は日曜日でした。泣 きながら荷物の整理をしていると、遠くから讃美歌の歌声が聴こえてきた。それはその町の教会 の礼拝の讃美歌でした。  その歌声を聴きながら彼女はこう思いました。「もしかしたら私はまだ、本当の神様を知らな いのかもしれない」。そう思うと、死ぬのはいつでも死ねる、とにかくあの讃美歌の聞こえる所 に歩いてゆこうと思いました。それが生まれて初めて出席したキリスト教の礼拝でした。やがて 彼女はそこで洗礼を受けました。絶望に捕らえられ死を願っていた孤独な魂が、キリストの復活 の生命に捕らえられ新しい生命に甦ったのです。その日から彼女は天に召されるまで、忠実なキ リストの僕として教会生活を続けました。霊とまことによる真の礼拝者とされた喜びがいつもこ の姉妹の生活から滲み出ていました。  あるとき彼女は近所のご婦人から「あなたはどうしていつも、そんなに喜んでいられるの?」 と不思議そうに訊かれました。世間的に言えば不幸な人のはずなのに、どうしてそんなに喜んで いられるの?と訊かれたのです。彼女はそのご婦人にこう答えました「それは、私の大きな罪を、 神様の独り子イエス様が、十字架にかかって贖って下さったからよ。あなたも今度の日曜日、私 と一緒に教会に行けばその理由がわかりますよ」。そうして彼女はその婦人をキリストのもとに 導いたのです。彼女によって洗礼へと導かれた人が30人以上もいたことが、彼女が天に召され てからわかりました。特別なことをしたのでも何でもない。ただ「私と一緒に教会に行きましょ う」と誘っただけです。神はあなたも祝福の生命へと招いておられますと語っただけです。そし て多くの人々が彼女を通してキリストの満ち溢れる愛を知る者とされたのです。  私たちはどうか今朝、この御言葉を改めて心に留めましょう。「父がわたしより大きいかたで あるからである」。この「わたしより」という言葉に、私たち自身の名を入れる幸いに生かされ ているのです。「父なる神はいつも、わたしより大きいかたである」。「神はこの世界より、この 宇宙万物より、大きいかたである」。このことがどんなに大きな私たちの慰めであり力であるか。 それは言い換えるなら、このかたの導き、このかたの愛から、私たちは決して「失われることは ない」ということです。この世界のいかなる力も、権威も、キリスト・イエスにおける神の愛か ら私たちを引き離すことはできない。そして私たちの世界の全体、人生の全体を通して、神は私 たちを祝福し、世界を救いへと導いて下さるのです。そこに「虚構」(仮想現実)ではない真の 祝福の「実在」の人生が開かれてゆくのです。主なる神に讃美と感謝を献げつつ、信仰の歩みを 続けて参りましょう。