説    教    創世記8章6〜12節  第一コリント書12章1〜3節

「聖霊の御業」  聖霊降臨日主日

2010・05・23(説教10211325)  聖霊降臨日主日礼拝を共に献げています。聖霊降臨日を意味する“ペンテコステ”はギリシ ヤ語で「五十日目」という意味です。主イエス・キリストが復活されて50日目の日曜日に弟 子たちの上に聖霊が降り、そこに最初の教会が建てられました。その意味で聖霊降臨日は教会 の始まりであり、教会の誕生記念礼拝と言えるのです。  そこで、私たちの信仰生活にとって「聖霊」が大切なことは言うまでもありません。聖霊な くして教会はありえず、教会なくして私たちの信仰生活はありえないからです。つまり私たち の「救い」そのものが「聖霊」によると言えるのです。その意味で「聖霊」がキリスト教の中 心と言っても間違いではないかもしれません。しかしそれならなぜ教会の屋根には聖霊の象徴 ではなく十字架が掲げられているのでしょうか?。なぜ「キリスト教」であって「聖霊教」で はないのでしょうか?。  私たちはその答えを聖書そのものの中に見いだします。特に大切なのは今朝の第一コリント 書12章1節以下です。もう一度3節以下を読みましょう。「そこで、あなたがたに言っておく が、神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によ らなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」。ここにはっきり語られてい ることは、聖霊は“福音の中心”であるイエス・キリストへと私たちを導くということです。 福音の(私たちの救いの)中心はキリストであることを聖霊がはっきり教えて下さるのです。 聖霊の導きなくして誰も「イエスは主である」と告白することはできないからです。  私たち人間は神に叛いた罪ある存在です。暗闇の中に閉ざされた人のように、自分の本当の 姿さえ見えない私たちは、まして自分の力で神を知ることはできません。聖霊に導かれ聖霊に 照らされてはじめて神を信じる者とされるのです。パリサイ人であった時のパウロには「たと え世界中が滅びても自分だけは救われる」と言うほどの自信がありました。しかしそのパウロ には平安も救いもありませんでした。パウロが救われたのは聖霊の導きによりキリストを信じ 洗礼を受けた時でした。同じように私たちが神の子イエス・キリストを「救い主」と信じて教 会に連なり、真の神を礼拝する民になったのは、私たちのわざではなく、神の聖霊の導きによ るのです。それが「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と告白することはでき ない」ということです。  それでパウロは、同じ第一コリント書2章2節にこうも語っています「なぜなら、わたしは イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何 も知るまいと、決心した…」。これはパウロがコリント伝道の始めに明らかにした決意です。パ ウロは当時の世界における第一級の知識人であり、哲学や思想の言葉(すぐれた言葉や知恵) を縦横無尽に駆使して伝道することができました。しかしパウロはそうした人間の知恵の言葉 をコリントにおいては全て捨て、ただひたすらに「十字架につけられたまいしキリスト」のみ を宣べ伝えることに「心を定めた」と言うのです。それはなぜでしょうか?。パウロみずから 第一コリント書2章4節に答えています。「(それは)わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな 知恵の言葉によらないで、霊(聖霊)と力との証明によったのである。それはあなたがたの信 仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」。  十字架につけられたまいしキリストのみが私たちに“まことの救い”を与える唯一の救い主 であり、キリストのみが“福音の中心”です。それは決して揺るがしえない福音の根本真理で す。だからパウロは教会の設立根拠について語るときにも「この土台はイエス・キリストであ る」と語り「この土台は聖霊である」とは言わないのです。言い換えるなら聖霊は私たちを「イ エス・キリストは主なり」との告白に導く神の救いの力です。「聖霊」はペンテコステの日この 歴史の中に教会を建てました。しかしその教会は十字架の主なる「キリストの教会」であり、 その意味でこそ「聖霊の教会」なのです。だから私たちの教会には十字架が掲げられています。 聖霊のシンボルが掲げられているのではないのです。当然のようですが重要なことです。聖霊 は父なる神と御子なるキリストから出て、私たちを父なる神と御子キリストへと導くかたなの です。  宗教改革者カルヴァンはいみじくも「聖霊はわれらをキリストに永遠に結ぶ絆である」と申 しました。私たちはキリストと堅い絆を持たせて戴いている。その絆こそ「聖霊」なのです。 言い換えるなら「聖霊」はイエス・キリストへと私たちを導くことによって福音信仰の中心と なるのです。まさにその意味で「聖霊が教会を建てた」と言えるのです。聖霊は自分が中心に なることなく、ただキリストのみを中心とすることにおいて、はじめて福音信仰の中心となる のです。  このことを明確に告げる御言葉として旧約聖書・創世記8章6節以下をお読みしました。ノ アの洪水の物語の一場面です。40日40夜降り続いた雨がようやく止み、晴れ間が出てきた瞬 間を創世記は美しく描いています。それは万物が新たにされた再創造(リクリエイション)の 時です。ノアは箱舟の窓から乾いた土地を探らせるために最初カラスを放ちます。しかしカラ スはすぐに戻ってきます。どこにも乾いた土地はなかったのです。今度はノアは鳩を放つので す。それが10節から11節です。「それから七日待って、再びはとを箱舟から放った。はとは 夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノ アは地から水がひいたのを知った」。  この何でもないような御言葉が大切です。ノアは鳩が咥えてきたオリーブの若葉を見て、主 なる神が世界に「救いの約束」を与えたもうた事実を知るのです。このオリーブの若葉は「鳩」 が咥えて飛べるほど小さなものですが、それは限りなく大きな「全世界への救いの約束」を知 らせる確かな“しるし”でした。だからこの場面の中心はオリーブの若葉です。鳩はそれを運 んできただけです。しかし鳩がいなければオリーブの若葉は運ばれることはなかったのです。 この両者の関係がちょうど「キリスト」と「聖霊」また「十字架」と「聖霊」の関係をあらわ すのです。いみじくも聖霊は鳩に象徴されますが、もし聖霊という鳩が存在しなければ「十字 架による救い」という「オリーブの若葉」は私たちのもとには届かなかった。その意味で「聖 霊」は私たちの救いの“決め手”となるのです。しかし本当の中心はあくまでも「十字架のキ リスト」なのです。それは郵便配達人と手紙の関係に似ています。もし郵便配達人がなければ 私たちの手もとに手紙は届きません。しかし大切なのは手紙であり郵便配達人は運んだ人にす ぎません。しかし郵便配達人はまさにその大切な手紙を“運ぶ”という役割において決定的な 重要さを持つのです。聖霊も同じように主イエス・キリストという「神の救いの御業」そのも のを私たちにもたらします。私たちを十字架のキリストと言う“救いの中心”へと導き、そこ に主の教会をお建てになる神の力こそ聖霊なのです。  そこでもう一つ、大切な御言葉に接したいと思います。それはヨハネ福音書14章26節です。 そこに主イエスはこうお教えになりました「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によ ってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたこと を、ことごとく思い起こさせるであろう」。これも先ほどのノアの洪水物語で示された同じ真理 に私たちを導きます。聖霊が父なる神のもとから遣わされることにより、はじめて私たちは主 イエスが語られた全ての御言葉を「思い起こす」のです。この「思い起こす」とは単に“思い 出す”という意味ではなく「いまあなたのただ中に神の救いの出来事が実現した」という救い の宣言です。救いの出来事が私たちのただ中に実現したのです。私たちがキリストの満ち溢れ る生命にあずかる者とされたのです。御言葉に養わる礼拝者とされたのです。  その意味でヨハネ伝15章26節も大切です。「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわ そうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしに ついてあかしをするであろう」と主が言われたことです。ここで主は「聖霊」を「真理の御霊」 と呼ばれました。神の救いの御業を私たちに実現して下さるかたこそ聖霊だからです。その「真 理の御霊」はキリストのみを「あかし」します。「あかしする」とは「あなたのただ中に救いが 実現した」という意味です。私たちは自分の知恵や力で教会に連なっているのではなく、それ はただ「真理の御霊」なる聖霊の導きによるのです。それこそ今朝のパウロの言葉のとおり「聖 霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」からです。  よく「聖霊はわかりづらい」という人がいます。しかし安心して下さい。聖霊は自分ではな くキリストのみを指し示すのですから「聖霊はわかりづらい」のは当然なのです。キリストが わかれば良いのです。食物の栄養価を知らなくてもそれを食べれば養われるように「聖霊」は 私たちをキリストへと養いたもうのです。その聖霊がキリストの弟子たち、しかも恐れと不安 と絶望に閉ざされていた弟子たちに与えられ、そこに最初のキリスト教会が誕生した日が「聖 霊降臨日」(ペンテコステ)です。そこに弟子たちは言葉と祈りと平安と力に満たされ、全世界 への伝道のわざが始まりました。私たちはここにその大いなる恵みを心に刻み、また私たちに 与えられている聖霊の導きに感謝し、心を高く上げて、ただ十字架の主イエス・キリストのみ をかしらとする新しい自由と幸いな生活へと遣わされてゆくのです。  最後に一つのことを心にとめましょう。ペンテコステの出来事に示された「聖霊」は、教会 を通して私たち一人びとりに働きます。この「聖霊」は十字架のキリストのみを「あかしする」 「神の霊」ですから、私たちを主の教会に仕え神の栄光を現わす自由の生涯へと導くのです。 聖霊が与える「イエスは主なり」との信仰告白は教会の信仰告白です。だから聖霊を受けた私 たちは教会生活を大切にします。主の教会に仕える奉仕の歩みがそこに作られるのです。「われ は聖霊を信ず」と告白することは「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信じることなのです。  私たちはこれから、主の定めたまいし聖餐にあずかります。この聖霊降臨日にも私たちは聖 霊の象徴を戴くのではない。ただキリストの御身体と御血潮にあずかるのです。主が私たちの ためになさった全ての恵みの救いの御業に聖霊によってあずかるのです。まさに「あなたのた めの救いの出来事」である十字架の主のみを証しする「真理の御霊」なる聖霊が、いま私たち 一人びとりに与えられています。その私たちはいま聖霊によって心新たに主の御身体なる「聖 なる公同の教会」を信じます。神の救いの御業を礼拝により聖礼典を通して全世界に宣べ伝え ます。私たちの、そして全ての人々の真の救いと自由、平安と喜び、勇気と慰めがただキリス トにあることを、私たちはいまものちも限りなく「聖霊」によって証する群れとされているの です。