説     教   民数記6章22〜27節  ヨハネ福音書14章27節

「主の平安」

2010・05・16(説教10201324)  あるイギリスの哲学が、人間が幸福になるためには4つの条件があると言っています。第1 は「人生を貫く基本理念があること」。第2は「充実した仕事があること」。第3は「よき家庭 また友人があること」。そして第4は「良い趣味を持つこと」だそうです。最後の「趣味」は いかにもイギリス的で、私たち日本人ならたぶん「健康」を挙げるにちがいありません。健康 こそ幸福の条件だという価値観は多くの日本人が持つものです。「拝金主義」「拝健主義」は現 代における新たな偶像崇拝です。テレビや新聞の広告にも健康器具や健康食品の宣伝が溢れて います。  それではそうした“幸福の条件”を全て満たしたとして、私たちは本当に「幸福」になれる のでしょうか?。「拝金主義」「拝健主義」という偶像に供物をすれば人生は満たされるのでし ょうか?。答えは「否」です。いくらモノに満ち溢れていたとしても私たちはそれで幸福なの ではありません。言い換えるなら“幸福の条件”は“平安の条件”と同じではないのです。た とえいくら“幸福の条件”を満たしても“平安の条件”が満たされなければ人生は虚しいので す。逆に言えば、たとえこの世的に少しも“幸福の条件”が満たされなくても、人生の全体が いつも「主の平安」に支えられている“真に幸福な人生”があるのです。  先日一人の姉妹から手紙を戴きました。その姉妹はいろいろな苦しみがあり重荷を抱えてい る人です。しかし毎日を聖書の御言葉に支えられ、苦しみや悩みの中でこそ教会生活を大切に し、より強くキリストの祝福と平安を感じるようになったと書いておられました。文字どおり 「逆境」の中で絶えず“主の平安”に支えられていることを感謝している姉妹です。これは“幸 福の条件”だけではとても説明できないことです。それこそが人間の“本当の幸福の条件”な のではないでしょうか。私たち人間にとって“本当の幸福の条件”とは「主の平安」にいま生 かされているか否か。それを受けている人生であるか否かにあるのです。  今朝、私たちに与えられた福音の御言葉、ヨハネ福音書14章27節において主イエス・キリ ストはこう語っておられます。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあ なたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心 を騒がせるな、またおじけるな」。これは文語訳の聖書ではこうなっています「われ平安を汝 らに遺す、わが平安を汝らに與ふ。わが與ふるは世の與ふる如くならず、なんぢら心を騒がす な、また懼るな」。口語訳と文語訳では微妙に言葉の重点が違います。口語訳では「わたしが 与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」と、キリストの平安と世の平安との違いに重 点がありますが、文語訳では「わが與ふるは世の與ふる如くならず」というように、平安を与 えたもうキリストご自身に重点が置かれているのです。これは実は大切なことです。元々のギ リシヤ語を直訳するなら文語訳のほうが正確なのです。つまりここでキリストは「わたしが与 える平安は、世が与えるようなものではない」と2つの「平安」の違いを語っておられるだけ でなく「わたしは、わたしの平安を、世が与えるのとは違った仕方であなたがたに与える」と 「平安」の与えかたを語っておられるのです。つまり今朝の御言葉の中心はただ十字架のキリ ストです。人生の“本当の幸福の条件”は十字架のキリストにあり、キリストご自身が「平安」 の与え主であられるのです。  矢内原忠雄という人が今朝の14章27節について「これは主イエスの決別の言葉である」と 語っています。まさにそのとおりでして「平安」と訳された言葉の本来のヘブライ語は“シャ ローム”という挨拶の言葉です。新約聖書の中に「平安」という言葉は約90回出てきますが、 その全てが“シャローム”というヘブライ語に基づいています。ではこの“シャローム”はど ういう意味でしょうか?。それは“神の救いの御業がいまあなたの上に実現した”という意味 なのです。だからある人は“神の祝福の充満”と訳しています。今日でもイスラエルなどに参 りますと“シャローム”が日常の挨拶として使われています。たとえば私が経験したことです が、エルサレムのベン・イェフダ通りにある喫茶店でコーヒーを飲んだとき、私を席に案内し てくれた店員の女性が“シャローム”と挨拶をするのです。改めて驚きました。喫茶店の店員 の女性からいきなり“神の救いの御業がいまあなたの上に実現した”と聴かされた驚きです。 この喫茶店(カフェ・シャガール)はその数年後に爆弾テロの標的となって多くの犠牲者が出 ました。あの女性はどうなっただろうかと想い起こすのです。  主イエス・キリストは、いよいよゴルゴタの十字架へと向かわれるにあたり、愛する弟子た ちに「神の救いの御業が、いまあなた(がた)の上に実現した」と宣言をなさったのです。そ れが「われ平安を汝らに遺す」と言われた「平安」の意味です。ということは、主イエスはこ こではっきりとご自分の十字架を根拠にして「平安」を告げておられるのです。しかし弟子た ちにはまだその意味がわかりませんでした。だから「平安をあなたがたに残して行く」と言わ れて不安と恐れを感じたのです。人間イエスだけを見ていて十字架のキリストを見ていなかっ たからです。そこでこそ問われているのは私たちの信仰なのです。  主イエス・キリストはここに私たち一人びとりに、ご自分の担われる十字架を根拠とされて、 ここに「神の救いの御業がいまあなたの上に実現した」「その平安があなたと共にある」と宣 言なさっておられる。この「平安」は単なる言葉ではなくいまあなたに実現した“救いの出来 事”そのものを示しています。「神の国は言葉ではなく、力である」と主が言われたとおりで す。私たちはそれを信じているでしょうか。キリストのみが私たちを救う神の御力そのものな のです。主イエスの御口から「平安」“シャローム”が語られるとき、そこに十字架による私 たちの罪の贖いの出来事が私たちの人生の中にいま実現しているのです。だからこそ主はそれ を「残して行く」と言われました。その救いの出来事は十字架によって成就したからです。そ れはあなたを永遠に支え続けてやまないと言われるのです。  しかし弟子たちはなお御言葉の意味を理解せず、十字架のキリストを信じないゆえにこの世 のあらゆる恐れに心騒ぎ「おじけ」不安に戦いていたのです。自分たちは主イエスに置き去り にされると想ったのです。この時の彼らに「平安」はありませんでした。否、彼らだけではな いのです。戦後65年を経て私たちの国は世界有数の経済国家になりました。いま不景気の影 が覆っているとはいえ世界全体から見ればまだ日本は有数の経済大国です。しかしその豊かな はずの日本で年間3万5千人以上の人々が自殺のため亡くなっている現実がある。葉山町の人 口より多くの人々が自ら生命を絶っている現実があるのです。それはまさに“平安なき国家” の姿そのものではないでしょうか。たとえいくら“幸福の条件”が揃っていても「主の平安」 のないところに本当の人間の生活(本当の幸福)はないのです。  まさにその私たちの現実のただ中にこそ、十字架の主イエス・キリストははっきりと語って いて下さいます「わたしの平安をあなたがたに与える」と…。そしてこうも言われるのです「わ たしが与える平安は、世が与えるようなものとは異なる」と…。文語訳では「わが興ふるは世 の與ふる如くならず」です。主はここに「わたしは、わたしの、平安を、あなたがたに、与え る」と区切って語っておられます。それは「世が与える平安とは違うのだ」と言われます。そ ればかりでなく「わたしは、わたしの平安を、世が与える偽りの平安とは違った仕方で、あな たがたに与える」と約束しておられるのです。  同じ新約聖書のローマ書5章1節にこうあります「わたしたちは信仰によって義とされたの だから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、 さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして神の栄光にあ ずかる希望をもって喜んでいる」。これは、私たちの教会で礼拝招詞として用いられる御言葉 です。礼拝招詞とは私たちのあらゆる罪の現実に先立つ神の側の一方的な恵みの宣言です。そ れこそ祝福の生命への無条件の招きの言葉です。そこで明らかにされている事柄こそ「私たち はいまイエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、イエス・キリストによって神に対し て平和を得ている」という事実です。つまりここで「神に対して平和を得ている」とある「平 和」と今日の言葉の「平安」は同じ“シャローム”なのです。私たち人間はこの世界のいかな る場所にも“真の平安”を見いだすことはできません。人間を人間たらしめ生命を与える“真 の平安”はこの世界の中にではなく、ただ世界を愛と恵みをもって創造したもうたまことの神 の御子・主イエス・キリストにのみあるからです。真の幸福の条件は目に見える豊かさにでは なく、キリストの十字架にのみあるのです。  みなさんはまだ幼かった頃、親からはぐれて迷子になった経験があると思います。大人にな って忘れてしまったとしても、その心細さは覚えているのではないでしょうか?。迷子になっ た幼子を安心させるためには(泣きやませるためには)何が必要でしょうか?。モノを(玩具 やお菓子を)与えることでしょうか?。そうではありません。迷子の幼子を安心させる方法は ただひとつ、それは親を見いだし親のもとに帰ることです。そのとき幼子は初めて泣きやみ安 心して笑顔に戻るのです。「平安」に満たされるのです。私たちもそれと全く同じです。内村 鑑三は「求安録」という本の最後にこう語っています。「しからば我は誰なるか。光なくして 泣く赤子、光欲しさに泣く赤子、泣くよりほかに言葉なし」。私たちは人生という遠い旅路の 中で、また世界という広大な海の中で、いつも「まことの光なる神」を求めてやまぬ存在なの です。まことの神を見いだし神の御懐に抱かれるまでは決して“真の平安”をえられない存在 なのです。それにもかかわらず、まことの造り主なる神ではなく他のものに偽りの平安を求め ようとするところに、人間の根本的な矛盾と間違いがあるのです。  私たちの“真の平安”は私たちの底知れぬ罪と死の重みを十字架に担い贖って下さった神の 御子・イエス・キリストにあります。だからパウロはエペソ書2章14節で「キリストこそわ たしたちの平和である」と語りました。それはただこのかたのみが私たちの全ての罪を身代わ りに背負って下さったからです。このかたのみが罪によって神に叛いた私たちをご自身の死に よって贖い、神のみもとに立ち帰らせて下さったからです。だから「信仰によって私たちは、 いま、キリストの義に生きる者とせられ、イエス・キリストによって、神に対して平和(平安) を得て」います。新しい祝福の生命を与えられているのです。それこそ“永遠の生命”です。 御子イエスと父なる神が一つであるように、私たちもまた御子イエスによって父なる神の家族 とされ、あるがままに御国の民とされているのです。  主イエスははっきりと「わたしは、わたしの平安を、あなたがたに、与える」と宣言して下 さいました。これは主の招きですから、私たちはただ感謝と喜びをもって受けるのみです。そ れは私たちのものではなく「主の平安」ですから、その確かさはキリストの救いの確かさなの です。それは私たちから奪われることのない“本当の幸福の条件”なのです。まさに私たち一 人びとりの人生に“神の救いの御業がいま実現した”と主が宣言して下さるのです。だからこ そ主は言われます「あなたがたは、心を騒がせるな、またおじけるな」と…。勇気をもって信 仰の道を歩みなさい。心を高く上げて私の平安の内を歩み続けなさい。そうすればあなたの人 生の全体を“本当の幸福”が支配するであろう。それは主イエス・キリストの恵みの支配です。 それを主ははっきりと約束して下さるのです。  私たちの人生にいま「神の救いの御業が実現している」のです。主イエス・キリストの十字 架に根ざす「平安」がいま私たちの全存在を支えているのです。そこに私たちの変わらぬ平和 と幸い、また力と慰めがあります。そこに主は全ての人々を教会により、ご自身の御身体を通 して招いておられるのです。