説    教   イザヤ書32章15〜17節  ヨハネ福音書14章25〜26節

「救主なる聖霊」

2010・05・09(説教10191323)  「超常現象」という言葉があります。私たちの“常識を超えた出来事”という意味で使われ ます。現実や常識では考えられない不思議な出来事をあらわすときに用いる言葉です。テレビ 番組などではオカルトや幽霊や宇宙人というような、いわゆる魑魅魍魎めいた事柄を指すよう です。しかし「超常現象」という言葉を私たちの“常識を超えた出来事”という意味で正しく 理解するなら、私たち人間にとって最も大きな「超常現象」は幽霊を見たとか宇宙人に出遭っ たというような事柄ではなく、“私たち罪ある人間がまことの神の言葉を聴いて福音に生きる 者とされている”という出来事ではないでしょうか。それこそ私たちが真に驚くべき唯一の事 柄なのです。  宗教改革者カルヴァンは「私たち人間が神の言葉を聴く者とされているという事実、これ以 上に驚くべき奇跡がどこにあるだろうか」と語りました。私たちはこのような信仰の感覚を失 ってはいけないと想うのです。神の御言葉を聴くために、私たちがあるがままにここに集めら れていること、ただ恵みによって礼拝の民とされている幸いを、当然のことのように思っては ならないのです。あるいは私たちはそれを自分にとって“驚くべき奇跡”だと感じないほどに、 神の言葉を聴くことに無神経になっているのかもしれません。その結果私たちは少しも驚く必 要のないどうでも良いもの(幽霊や宇宙人や占いの類)に驚いてしまうのではないでしょうか。  私たちの主イエス・キリストは、今朝の御言葉であるヨハネ伝14章25節26節において、 いま私たち一人びとりにはっきりと語っておられます「これらのことは、あなたがたと一緒に いた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつか わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、こと ごとく思い起させるであろう」。ここにこそ、私たちが真に驚くべき本当の「超常現象」が告 げられているのです。それは神の御言葉を決して聴きえない「罪人」である私たちが、主イエ ス・キリストの贖いの恵みと主が御父のもとから遣わして下さる聖霊によって、御言葉を正し く聴き、御言葉によって生きる僕とならせて戴いているという事実です。  私たち人間は自分の能力の限界を超えたわざを要求されたとき「それは不可能です」と申し ます。「できません」と言います。たとえば「1年分の仕事を今日1日で片付けなさい」と言 われれば、どんなに手際の良い人でも「それは不可能です」と言うでしょう。あるいは「富士 山の頂上まで1時間で歩いて登れますか?」と訊かれれば「それはできません」と答えるしか ないのです。しかしまだそれらのことは、たとえ要求どおりにできないとしても、努力次第で 自分のベストを果たすことはできるかもしれません。つまりまだ“足がかり”は残っているの です。そういう意味で不可能の中にも僅かな可能性はあるのです。  しかし私たち人間が聖なる神の言葉を“正しく聴く”ということは、どこにも“足がかり” のない絶対的に不可能な出来事なのです。仕事なら慣れれば早くこなすこともできるでしょう。 訓練次第で富士山にも日帰りで登れるようになるでしょう。しかし神の言葉の前にはそういう ことはできないのです。たとえ何万冊の本を読破しようとも、またどんな高度な学問を修めよ うとも、それで聖書の正しい読みかたができるわけではありません。つまり私たちは、どこに 神の言葉を正しく聴く可能性を求めたらよいのか、その可能性の在りかさえわからない存在な のです。私たちは自分の中に神の言葉を正しく聴くための“可能性”を少しも持たない存在な のです。  使徒パウロはその絶望に打ちひしがれた経験を持つ人でした。かつてパリサイ人サウロであ ったパウロは、自分の努力は完全なものであったと述べ「(自分は)律法の義については落ち 度のない者であった」と語っています。しかしその完全無欠の努力にもかかわらず“律法の義” によって救いは得られませんでした。神の言葉を正しく聴くことはなかったのです。しかしそ のサウロに復活の主が出会って下さいました。“律法の義”に絶望したサウロはダマスコに行 く途上で復活の主イエス・キリストに出会い、キリストを信じる「信仰」による“神からの義” のみが人間を救う唯一の「義」であることを信じる者になりました。「自分には律法による義 などは少しもない。しかしその罪人の頭なる自分をキリストの義のみが覆って下さる。十字架 の主イエス・キリストのみが唯一の救い主である」と信じてキリストの使徒となったのです。  私たちも同じではないでしょうか。私たちの内側には神の言葉を正しく聴くためのいかなる 可能性もありません。しかし私たちのために十字架にかかって死んで下さった神の御子イエ ス・キリスト、ただ十字架の主なるキリストの恵みにのみ、御言葉を正しく聴く者として信仰 と希望と愛に生きる確かな祝福と幸いがあるのです。この祝福と幸いに生きる者となるとき、 すなわち私たちがキリストを救い主と告白し教会に連なって生きるとき、そこではじめて私た ちは“聖霊の力”によって生きる新しい自由な歩みを始めるのです。キリストの聖霊が私たち の内に力強く働いて下さり、御言葉を正しく聴き、信仰をもって応える者にして下さるのです。  そこでは主イエス御自身が、聖霊によっていつもはっきりと私たちに告げていて下さいます。 「わが子よしっかりせよ。あなたの罪はわたしが贖ったのだ」と…。私たちは罪あがなわれた 僕として、ここに礼拝者として新しい信仰の歩みをはじめてゆきます。十字架のキリストの限 りない愛と祝福の内を死を超えてまでも歩む者とされているのです。少しも私たち自身の義な どではありません。ただ主イエス・キリストの御功のみが私たちの底知れぬ罪を贖い、永遠の 生命すなわち父・御子・聖霊なる三位一体の神との永遠の交わりを与えて下さるのです。  さて、そこで今朝の御言葉の25節において主は「これらのことは、あなたがたと一緒にい た時、すでに語ったことである」と私たちに言われます。私たちは主の御言葉を聴いていつも 忘れずに心に刻み続けているでしょうか?。ある心理学者によれば「人間どうしの言葉でさえ、 語っていることが相手に正しく通じているかというとそうではなく、せいぜい語ったことの 20パーセントぐらいしか伝わっていない」と述べています。ましてや神の御言葉をきちんと 聴いているか、心もとないことが多い私たちではないでしょうか。聴いているようで実は聴い ていないということが多いのではないでしょうか。  しかし主イエス・キリストは、私たちが御言葉を正しく聴くのは、私たちの内側にある可能 性などによるのではなく、聖霊なる神の恵みによって起こる“救いの出来事”なのだとはっき り語っておられます。それが今朝の26節です。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名 によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいた ことを、ことごとく思い起させるであろう」。  ここに主は、聖霊が「助け主」であることをお教えになります。この「助け主」という字は もともとのギリシヤ語では「慰さめ主」という意味です。ある聖書では“執り成して下さるか た”と訳されています。つまり主イエスが聖霊を「助け主」と呼ばれるとき、そこで明確に示 されていることは、聖霊なる神は私たち全ての者にとって「罪の贖い主」であるということで す。主イエス・キリストがそうであられるのと同じように、聖霊もまた「罪の贖い主」なので す。だから聖霊は「キリストの霊」「キリストの御霊」と呼ばれます。聖霊は十字架の主イエ ス・キリストを「唯一の贖い主」と信じる信仰に私たちを導いて下さいます。聖霊は「私たち をキリストに結び合わせる絆」なのです。  すると、どういうことになるのでしょうか?。何よりも主イエスご自身が私たちに明確に教 えておられます「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたこと を、ことごとく思い起させるであろう」と…。この最後の「であろう」というのは「確実にそ のとおりである」という意味です。聖霊は「慰さめ主」として御言葉を通して、私たちの罪の 「唯一の贖い主なるキリスト」へと私たちを導き、私たちのために主がなして下さった全ての 恵みの出来事を「ことごとく思い起させて下さる」のです。それこそいかなる「超常現象」に も遥かにまさる“真の奇跡”なのです。  言い換えるなら、私たちが確かに“聖霊の導き”を受けていることは、私たちがキリストの 身体なるこの教会に連なっていることではっきり示されているのです。聖霊は私たちをキリス トに結び合わせる絆だからです。自分は聖霊を受けていると言いながら教会から離れているこ とはありえないのです。聖霊を受けている人はかならず主の御身体なる教会に連なり、礼拝者 として生きる人です。そこで非常に大切なことは、主イエスが「聖霊はわたしが話しておいた ことをことごとく思い起させる」と言われたことです。実はこの「思い起させる」とは単に「記 憶させる」とか「思い出を呼び起こす」という意味ではなく、「いま現実にあなたの救いの出 来事となる」という意味の言葉なのです。つまり聖霊なる神が「わたしが話しておいたことを、 ことごとく(あなたがたに)思い起こさせる」とは、主が語られた全てのこと、すなわち主が私 たちのために行って下さった全ての救いの御業が「いま現実にあなたの救いの出来事となる」 ということなのです。  これは大胆に単純に考えてよいことです。主イエスの御言葉は単なる言葉だけで終わるもの ではありえない。主イエスの約束は決して反故にはならないのです。かならずその御言葉は私 たちの「救い」となるのです。御言葉はただちに「いま現実にあなたの救いの出来事となる」 のです。だから主の御言葉を「聴く」ということは、主イエスがいま聖霊によって、教会にお いて私たちのために行って下さる「救いの出来事」をいまここで受ける者になるということで す。それが御言葉を正しく聴くことなのです。  主イエスは同じヨハネ伝15章17節に、今朝の「慰さめ主」なる聖霊を「真理の御霊」と 呼んでおられます。そして「あなたがたはそれを知っている。なぜならそれ(真理の御霊)はあ なたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」とお教えになりました。言い 換えるなら、キリスト御自身が私たちの「からだ」(全存在)の贖い主(救い主)として私た ちと「共におり」また、私たちの「うちにおられる」恵みの事実です。主イエスが父なる神と いつも共におられ、また父なる神の家におられるのと同じように、主は信じる私たち全ての者 を同じ祝福の内に生きる者として下さるのです。罪によって神から離れ神に背いていた私たち が、いつも神と共に神の愛の内を生きる僕とされるのです。これにまさる大いなる喜びと奇跡 がどこにあるでしょうか。  かつて明治の半ばごろの事です。救世軍の司令官を務めた山室軍平の夫人となられた山室機 恵子という女性がいました。彼女はまだ女学生であった16歳のとき植村正久牧師が牧される 富士見町教会において洗礼のための試問会を受けました。当時の錚々たる長老たちが居並ぶ部 屋で彼女に与えられた質問は「あなたは聖霊について何を信じますか?」というものでした。 機恵子さんはこう答えたそうです「よくわかりません。しかし私を導いて信仰を与えて下さっ たかたが聖霊であると信じます」。この答えに植村正久牧師はたいへん感心されて「それはあ なたの信仰から出た生きた答えである」と言って洗礼を許可したという話が伝わっているので す。  私たちも「聖霊とは何ですか」と聴かれて、上手に答えることはできないかもしれません。 しかし言葉で上手に答えられなくてもよいのです。大切なことは「私を導いて信仰を与えて下 さったかた」「いま現実に私の救いとなる御言葉を正しく聴かせて下さるかた」そして「私を 教会により永遠にキリストに結び合わせて下さったかた」それが聖霊ですと心から応える僕に 私たちがなることです。この罪人のかしらなる私たちを救い主キリストに導いて下さったかた こそ聖霊です。そのかたが「慰さめ主」であり「真理の御霊」と呼ばれるのです。この信仰に いつも喜びと感謝をもって生きる私たちでありたいと想います。