説     教     箴言17章3節   ヨハネ福音書14章22〜24節

「ヤコブの子ユダの信仰」

2010・05・02(説教10181322)  今朝の御言葉であるヨハネ伝14章22節に「イスカリオテでない方のユダ」という人が出て参 ります。主イエスの十二弟子の中に「ユダ」という名の人物は2人いたのです。すなわち一人は、 主イエスを裏切ったあの「イスカリオテのユダ」。そしてもう一人が、今朝の14章22節に出てく る「イスカリオテでない方のユダ」つまり「ヤコブの子ユダ」と呼ばれる人物でした。この人は マタイ伝やマルコ伝では「タダイ」という別名で呼ばれています。  この「ヤコブの子ユダ」なる人物について、聖書は決して多くを語ってはいませんが、私たちが 注目すべき言葉が使徒行伝1章12節以下にあります。そこにはこう記されているのです「それか ら彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に 許されている距離のところにある。彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがっ た。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタ イ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった」。そして続いてこう記さ れているのです「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共 に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」と。  ここからわかることは、この「ヤコブの子ユダ」が他の弟子たちと共に、主イエスが最後の晩餐 をなさったエルサレムの「屋上の間」に集まり「心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」とい う事実です。やがてそこにペンテコステ(聖霊降臨)の出来事が起こり、最初の教会が造られて ゆくのです。私たちはここから「ヤコブの子ユダ」が初代教会の指導者として大切な働きをした 様子を知るのです。「心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」というのは、そのまま彼の使徒と しての全生涯を現している姿です。このように「ヤコブの子ユダ」はその全生涯を通じて、キリ ストの忠実な証人、また伝道者、また牧会者として歩んだ人でした。  ある記録によれば、この「ヤコブの子ユダ」は使徒信条の中の「(われは)罪の赦し、身体のよ みがえり、永遠の生命(を信ず)」という箇所を最初に告白した人だと伝えられています。つまり 「ヤコブの子ユダ」は、自分に与えられたキリストの恵みを「罪の赦し、身体のよみがえり、永 遠の生命」として告白した最初の人である伝えられてきたのです。それは私たちにも無関係なこ とではありません。私たちもまた、自分に与えられたキリストの恵み・救いの御業を告白すると き、それは「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命」であると言うほかないからです。「ヤコ ブの子ユダ」はそれほど深く真実に、キリストによる救いを感謝し讃美告白した人なのです。  そこで今朝のヨハネ伝14章22節以下は、その「ヤコブの子ユダ」が実際に語った言葉が唯一 書きとどめられている箇所です。すなわち彼は主イエスにこう訊ねました「主よ、あなたご自身 をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか?」。ある神学者 はこのユダの言葉には「世界伝道に対する並々ならぬ熱意が感じられる」と言っています。その とおりではないでしょうか。「ヤコブの子ユダ」は何とかして、主イエスの尊い救いの御業を、否、 主イエスご自身を、世界中の人々に伝えたくて仕方がなかった。全世界の人々が一人のこらずキ リストを信ずる者になってほしかったのです。だからこそ主イエスにお訊ねしたのです。「主よ、 どうしてあなたは、ご自身をわたしたちだけに現されて、世の人々には現して下さらないのです か」と…。22節の問いの意味はそういうことです。  言い換えるなら、ユダは歯がゆくてならなかったのです。もし主イエスがその気になられさえす れば、世界中の人々が主イエスを信じ、主イエスの足もとにひれ伏すことなど簡単に起こるはず だと思ったのです。それなのにどうして弟子の数は私たち十二人だけなのですか?。しかもその 中の一人「イスカリオテのユダ」はあなたを裏切って離れてゆきました。今はたった十一人しか いないのです!。全世界の中でたったの十一人…。あまりにも少なすぎはしませんか?。余りに 頼りなくはありませんか?。「ヤコブの子ユダ」が言いたかったのはそういうことです。  これは、私たちにもよくわかることです。この葉山は神奈川県でも小さな町ですが、それでも約 3万人の住民がいます。隣の逗子や鎌倉や横須賀、さらには横浜まで含めれば数十万人・数百万人 の人々がいるのです。その数百万人の中で、このピスガ台に建つ私たちの教会に連なっている人々 はわずかに数十人にすぎない。百名足らずの教会員にすぎません。しかも私たちの教会は葉山で 唯一のキリスト教会です。だから私たちもときに主に訊ねたくなるのです「主よ、これでは余り に無力ではありませんか?。余りにも少なすぎはしませんか?。こんなに小さい私たちの群れに いったい何が出来るのでしょう?」と…。私たちこそそのように主に向かって訊ねているのでは ないでしょうか?。さらに勢い余って私たちはこんなことも言うのです「主よ、それはみんなあ なたのせいです。あなたが私たち『だけに』ご自分を現され、世には現そうとなさらないから、 世の大多数の人々はあなたを信じないのです。なぜご自分をもっとアピールなさらないのです か?。どうして世界中の人がみんなあなたを信じるようにできないのですか?」と。  そのような私たちの、正直だけれど神を度外視する愚かな問い、自らの無力さと数の少なさのみ を嘆き、しかもそれを主のせいにする私たちの愚かな問いに対して、主は今朝の御言葉の23節で はっきりと答えて下さるのです。23節以下の御言葉です。「イエスは彼に答えて言われた、『もし だれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を 愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛 さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、 わたしをつかわされた父の言葉である』」。  主イエスはマタイ伝の7章21節にこうお教えになりました「わたしにむかって『主よ、主よ』 と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行なう者だけが、 はいるのである」。またルカ伝6章46節にこうも教えておられます「わたしを主よ、主よと呼び ながら、なぜわたしの言うことを行なわないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて 行なう者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう」。そのようにして、主は私たちもよく知る あの「建物の土台の譬え」をなさいました。すなわち主は「御言葉を聞いて行う者」のことを「そ れは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている」と言われたのです。「洪水 が出て激流が押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない」。それに対して「しかし、聞 いても行なわない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄 せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」とお教えになりました。  使徒パウロは「教会の土台」について、第一コリント書3章11節に「この土台はイエス・キリ ストである」と明確に語っています。そして「すでにすえられている(このキリストという)土 台以外のものをすえることは、だれにもできない」と語りました。言い換えるなら「真の教会の 土台」は主イエス・キリスト以外にはありえないということです。キリストという「教会の土台」 以外のものの上に建てられた教会は、そこにどんなに多くの人々が集まり、どんなに賑々しい様 子を呈していたとしても、決して“主の教会”と呼ぶことはできないということです。またパウ ロはこのようにも語っています。同じ第一コリント書3章12節以下です「この土台の上に、だれ かが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきり とわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それ ぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」。  旧約聖書の箴言17章3節に「銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みる ものは主である」とありました。主の前に最も尊いものは私たちの魂です。人間そのもの(人間 の人格)です。聖書が「からだ」と呼ぶ私たちの全存在と全生活です。その最も尊い、金銀など に比較すらできない本当の「宝」を罪と死の支配から救うために、神は私たちに御子イエスを賜 わり、その十字架の測り知れぬ愛と贖いとを通して、私たちを神の子・御国の民として下さいま した。そこで問われていることは、私たちがその限りない神の救いの恵みにどのように応えてい るかということです。何をもって「神の栄光」を現す者になっているかということです。それを パウロは、それは「真の教会を建てることだ」と言うのです。すなわち主イエス・キリストとい う唯一の土台の上に、私たちを贖って下さった測り知れぬキリストの恵みの上に、私たちは何を 用いていかなる教会を建てるのか。「金、銀、宝石」すなわち真の信仰による教会を建てるのか。 それとも「木、草、わら」すなわち信仰によらない偽りの教会を建てるのか。その答えは明らか です。私たちは真の信仰によって、主のまことの教会を建ててゆかねばなりません。  「かの日は火の中に現れて、それを明らかにする」であろうとパウロは申します。この「それ」 とは、私たちがこの歴史の中で「どのような教会を建ててきたのか」ということが神の前に問わ れるのだということです。「金、銀、宝石」のような尊い真の信仰によってか、それとも「木、草、 わら」のような朽ちてしまう人間のわざによってか…。そのわざが「かの日」主が再び歴史の中 に来られるその日(終末の日)に明らかになるのです。「すなわち、かの日は火の中に現れて、そ れを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」。  私たちはここに、このピスガ台の上に、永遠なる主の審きに耐えられないような偽りの教会を建 ててはならないのです。キリストの計り知れぬ愛と恵みの土台の上に立てられている私たちは、 ここに真の信仰をもって、正しいキリスト告白と従順をもって、ただ神の栄光を現すまことの教 会を建ててゆかねばなりません。何よりも主なる神みずから私たちにそのための豊かな賜物と祝 福を与えていて下さるのです。その賜物と祝福を無駄にしてはならないのです。私たちは「ヤコ ブの子ユダ」が生きたように「主にある一致と絶えざる祈り」の生活をここに続けてゆきたいの です。どうか改めて、先ほどのルカ伝6章46節の御言葉を心にとめましょう「わたしを主よ、主 よと呼びながら、なぜわたしの言うことを行なわないのか。わたしのもとにきて、わたしの言葉 を聞いて行なう者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。それは、地を深く掘り、岩の上 に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを 揺り動かすことはできない」。  私たち改革長老教会の歴史の出発点そのものが「御言葉に聴き従う教会」でした。ただ形だけイ エスを「主」と告白するのではなく、主をまことに「全世界の救い主キリスト」と信じ告白する 群れとして、御言葉を正しく聴きそれに従う教会また真の礼拝を御言葉に従い建てたのです。そ の結果あの宗教改革が起こりました。カトリック教会のミサはキリストの犠牲の反復(魔術的な 儀式)として廃止され、それに代わって御言葉のみが聖礼典と結びついたキリスト中心の礼拝が、 初代教会の礼拝を回復する形で再建されたのです。そこに私たちの教会の起源があるのです。  それならばなおのこと、その改革長老教会に連なる私たちは主の御言葉に正しく聴き従う群れで あることが肝心要です。主みずから求めておられます。ただそのようにしてのみ私たちは主の御 心にかなう真の教会を建ててゆくことができるのです。それは言い換えるなら「真の礼拝者の群 れ」です。御言葉によって絶えず改革され新しくされてゆく群れです。キリスト以外の何ものも 「土台」としない群れです。なぜなら主みずから今朝の御言葉において私たちに約束して下さい ます。もし私たちが主の御言葉に真実に聴き従う礼拝者となるなら(いつも主に贖われた者とし て歩むなら)そのとき「わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行っ て、その人と一緒に住むであろう」と…。これは何という大いなる祝福でしょうか。神が私たち と「一緒に住まわれる」。これほど力強く確かなことがあるでしょうか。私たちは自分たちの数が 少ないなどと言って嘆くことはできないのです。不平不満を言うことはできないのです。私たち はキリストの御業を世に現わす“神の国の全権大使”としてここに集められているからです。た とえ人の目にどんなに小さな群れであっても、御言葉を真実に聴く礼拝者として、主に贖われた 者として私たちが生きるとき、その私たちと共に三位一体なる神が住まわれ、御業を現わして下 さるのです。この私たちの教会がまさしく主なる神の住居になると告げられているのです。  主は、ご自分を世に現したまわないのではありません。ご自分を隠しておられるのではないので す。むしろ主イエスは世の全ての人々がただ「信仰によってのみ」主イエスを知る者になるよう 求めておられるのです。キリストを「肉」によってではなく「霊」(信仰)によって世界が知るこ とを求めておられるのです。このキリストに仕える教会のみが、永遠なる神の御心にかなう真の “聖なる公同の教会”(エクレシア・カトリカ)なのです。そのような群れに成長するために、私 たちは東海連合長老会を組織し、共にひとつの信仰告白『1890年日本基督教会信仰の告白』によ って結ばれ、御言葉によってたえず改革されてゆく教会として歩んで行くのです。  新約聖書の最後から2番目に「ユダの手紙」があります。冒頭に「イエス・キリストの僕またヤ コブの兄弟であるユダから」とあることから、この手紙は「ヤコブの子ユダ」が書いたものだと 考えられています。そこから17節以下をお読みしましょう「愛する者たちよ。わたしたちの主イ エス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言った、 『終わりの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう』。 彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。しかし、愛する者たちよ。 あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを 保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みな さい」。これはヤコブの子ユダが生きた信仰の証であるとともに、私たち一人びとりに与えられた 祝福の約束です。私たちもまたこの幸いに生きる群れとされているのです。