説    教    レビ記22章31〜33節  ヨハネ福音書14章21節

「神愛の顕現」

2010・04・25(説教10171321)  主イエス・キリストは今朝の御言葉ヨハネ伝14章21節でこのように語られました。 「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わた しを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人に わたし自身をあらわすであろう」。これは一見単純なわかりやすい言葉のように思え るのです。“主イエスを愛する人”とは、主イエスが語られた言葉(いましめ)を「心 にいだいて、これを守る人」のことだ。逆に言うなら、主イエスをいくら口先で「愛 している」と言っても、主イエスが語られた言葉(いましめ)を守らないなら、その 人は主イエスを「愛している」とは言えない。そういう意味に取られるからです。  たしかに現実の私たちの社会では行いによる「しるし」が求められます。「言葉だ けではなく結果を出しなさい」と要求されるのです。それが社会共通の価値観にさえ なっています。だから「もし主イエスを愛するなら、目に見えるしるしを現わしなさ い」と私たちは読むのです。それこそ「不言実行」という言葉が尊ばれます。行うべ きことを黙って行う人こそ信頼に値すべき人だと言われます。逆に評価されないのは 「有言不実行」です。言葉だけで伴わないのは人間として無責任なことだと考えられ るのです。それは「倫理」すなわち「人と人との間の決まりごと」の世界です。これ も大切であり無視することはできません。  それでは主イエスは今朝の御言葉において、私たちにそのような「倫理」(決まり ごと)を求めておられるのでしょうか?。主イエスは私たちに「わたしとあなたとの 決まりごとを守りなさい」と要求しておられるのでしょうか。言い換えるなら主イエ スは今朝の御言葉において私たちに「あなたの愛が真実であることを、あなたの行い によって証明しなさい」と求めておられるのでしょうか?。もしそうならば、私たち は途方に暮れるほかはないのです。自分の無力さに打ちのめされるほかはないのです。 なぜなら、どんなに贔屓目に見ても私たちは主イエスの語られた「いましめ」を「心 にいだいて、これを守る者」とは言えないからです。  もし私たちの相手が人間であるなら「倫理」が問題ですから、それは努力によって 要求を満たしうるでしょう。しかしここでは神が福音を語っておられるのです。神が 私たちの相手です。それなら私たちに問われていることは「倫理問題」などではなく 「真理問題」なのです。「人間の倫理」ではなく「福音の真理」が、「道徳」ではなく 「救い」が問われているのです。もし神が相手であるなら、この世の「倫理」におい てどんなに正しい人であっても、今朝の主イエスの御言葉の前に沈黙するほかないの です。私たちには人間どうしの「倫理問題」を解決する力はあっても、神と人との「真 理問題」を解決する力はないからです。それこそパウロの言うように「義人なし、一 人だになし」なのです。神の前に立ちうる「義人」は一人もなく、私たちは人間とし てどんなに完全無欠の存在であっても、主なる神の前には測り知れない罪ある者なの です。私たちは自分の中に「倫理」を持ちえても「救い」は持ちえないのです。  それならば主イエスの今朝の御言葉は、そのような私たちを絶望させるものなので しょうか?。主は私たちの能力を超えた不可能なことを要求しておられるのでしょう か?。私たちは時にそういう聖書の読みかたをしてしまいます。聖書に書いてあるこ とは理想論だ。現実の世界に生きる自分はその通りにはいかない。そう勝手に思って 私たちは主イエスと自分の間に「信仰の裏にある本音」という勝手な垣根を作ってし まうのです。御言葉をあるがままに聴こうとしなくなるのです。しかし主イエスはも ちろん私たちに「倫理」を突きつけておられるのではありません。逆に主イエスはい つも「信仰の裏にある本音」に囚われる私たちに、御言葉による真の自由を与えて下 さるのです。  私たちキリスト者には「主イエスはいと高き神の御子、聖にして完全なるかただけ れど、自分は罪に汚れた、醜く救われない存在である」という暗黙の了解事項があり ます。それがいわば信仰の“建前”です。それは必ずしも私たちの“本音”とは言え ないのではないでしょうか?。むしろ私たちは、自分はキリストの前では「罪人」だ けれども、社会においては立派な人間だと自惚れてはいないでしょうか?。キリスト が無くても一人前でありうると、どこかで思い違いをしていないでしょうか?。そう した自分の想いがあんがい“本音”であることはないでしょうか?。その“本音”と 聖書が語る“罪人である私”との温度差に戸惑いつつ、テレビのチャンネルを替える ように信仰の表と裏・理想と現実・教会と実社会を切替えながら生きていることはな いでしょうか。まさにそのような私たちに主は語っていて下さいます「わたしのいま しめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である」と。  そもそも主イエスはこの「いましめ」という言葉によって、なにを私たちに語って おられるのか。その答えは同じヨハネ伝13章34節にあります。弟子たちへの御言葉 です「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わた しがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」。ところでこの 13章34節の中心は「わたしがあなたがたを愛したように」という主イエスの愛の事 実にあります。主イエスがまず私たちを“極みまでの愛”をもって愛して下さった事 実がある、それが十字架です。あなたはその愛の事実に結ばれている、そこに生きる 者とされているではないかと、主はいま私たちに告げておられるのです。「わたしの 愛の内にいなさい」(わが愛におれ)とはそういうことです。主イエスの愛に結ばれ てはじめて私たちは「互に愛し合う」生活を造りうる者になるのです。それはちょう ど月が自分では輝かず、ただ太陽の光を受けて輝くのに似ています。本来は愛の輝き を持ちえない私たちが、キリストの十字架の愛を受けて輝きはじめるのです。  そうすると今朝の御言葉の意味もおのずと明らかになります。すなわち「わたしの いましめを心にいだく」とは、十字架のキリストの“極みまでの愛”を信仰によって 受け入れることです。「信仰をもって」と言うのは、その愛があらゆる理屈や常識を 超えているからです。私たちの愛は自分にとって価値あるものだけに向けられます。 逆に言えば私たちは自分にとって価値のないものを愛することはてきません。しかし キリストの愛は、神の愛に価しない私たち、逆に神に叛いてキリストを十字架につけ た人々(私たち)をあるがままに愛して下さった愛なのです。だから聖書はその愛を “アガペー”と呼びました。それは“価値を追求する愛”ではなく“価値を創造する 愛”です。自分のために相手の価値を求める愛ではなく、相手のために自分を献げ、 相手にかけがえのない価値を与える愛です。キリストの愛は「惜しみなく与える愛」 なのです。  私たちは今日ここに、私たちが迷いつつも縋り付いていた旧態然とした“信仰の裏 の本音”をさえ十字架の主に委ねる者として集められています。縋りつく所をまちが えてはなりません。縋りつくべきかたはただ一人、私たちのために十字架にかかって 下さった御子イエス・キリストです。このかたが全てを献げて私たちの罪を贖って下 さったゆえに、私たちは何のためらいもなく古き“本音”をかなぐり棄て、惜しみな く与えて下さったキリストの愛に自分の全てを明け渡すことができるのです。私たち はもはや十字架の主の前に、理想と現実、聖書の世界と自分の生活とを分ける必要は ありません。なぜなら主イエス・キリストにおいて、永遠なる神ご自身が私たちの歴 史の中に(私たちの罪のただ中に)私たちの生活のただ中に来て下さったからです。 このかただけが、私たちを神から隔てているあらゆる“隔ての中垣”を取り去って下 さったからです。  主イエスははっきりと言われます。今朝の御言葉において「わたしがあなたを愛し た、そのわたしの愛を信仰によって受け入れるならば、そして、そのわたしの愛の内 を歩むならば、そのときあなたは“わたしを愛する者”と呼ばれるのだ」と!。真実 なキリスト者とは倫理道徳において完全無欠な人のことではありません。そうではな く、あらゆる弱さと破れにもかかわらず、そのあるがままに、キリストの愛を信仰を もって受け入れ、キリストの愛の内を歩む者、その人こそ“キリストを愛する者”(真 実のキリスト者)と呼ばれるのです。  あのマグダラのマリヤがそうでした。パリサイ人シモンの家で食卓についておられ た主イエスの御頭に香油を注ぎ、その足を自分の涙で拭いたあの名もなき女性がそう でした。彼女が“キリストを愛する人”すなわち“真のキリスト者”と呼ばれたのは その正しさや倫理のゆえにではなく、ただ信仰をもってキリストの贖いの恵み(十字 架の愛)を受け入れ、その愛に生きる人となったからなのです。そして主はその場に いた全ての人々に言われました「ごらんなさい。彼女がその多くの罪を赦されたこと は、彼女がわたしに示した、その愛の大きさでわかるではないか」と。まずキリスト の限りない赦しと贖いの恵みが先立っているのです。それが彼女たちの存在を死から 甦らせ、新たな生命へと立ち上がらせたのです。  私たちも同じではないでしょうか。私たちはまず主イエスから測り知れない罪の赦 しと贖いの恵みを十字架において戴いています。その私たちが主に対してなすべきこ とは、そのキリストの愛を信仰によって受け、その愛の内を歩む僕になることです。 「あなたがその多くの罪を赦されたことは、あなたがわたしに示した、その愛の大き さでわかる」と主に仰って戴ける僕になることです。私たちの正しさ、私たちの清さ が私たちの「救い」ではありません。ただ「キリストの義」(十字架)のみが私たち の生命であり、ただキリストの清さのみが私たちの「救い」なのです。  その意味で改めて大切なのは「1890年日本基督教会信仰の告白」です。そこには ニカイア信条に告白された「まことの神の御子こそ唯一の救主」であることが明確化 されているからです。私たちの教会はこの「1890年(明治23年)日本基督教会信仰 の告白」に堅く立つ群れです。この告白に立つ私たちはこの世の「倫理」をこの世が 求める以上に満たしつつ、さらに進んで「キリストの僕」として歩んでゆく道筋を明 確にします。  大分県中津市の耶馬渓という急峻な渓谷に沿って「青の洞門」という手掘りのトン ネルがあります。菊池寛の「恩讐の彼方に」という小説で有名になりましたが、この 「青の洞門」は1763年(宝暦13年)に完成しました。この場所を通る多くの人々が 断崖から落ちて犠牲になるのを見かねた禅海和尚という旅の僧侶がたった一人でト ンネルを掘りはじめるのです。最初は村の人たちは馬鹿にして見ていました。ところ が10メートルばかり掘り進んだところで、少しずつ和尚に協力して掘る人がでてき ました。しかし余りの難工事に絶望して、人々は工事を途中で投げ出し、再び和尚一 人に戻ってしまうのです。普通ならばそこで止めてしまいます。ところが禅海和尚は たった一人で岩盤を掘り続けるのです。やがて村の人々も再び参加するようになり、 ついに掘り始めてから30年後に「青の洞門」は完成するのです。  私たちもまた、キリストにのみ十字架を背負わせて良いはずはありません。讃美歌 331番にあるとおりです。「主にのみ十字架を、負わせまつり、われ知らずがおに、 あるべきかは」。私たちはただキリストの恵みにより、真の自由と幸いを与えられた 群れとして、キリスト中心の教会をここに形成し、御言葉に聴き養われつつ生きる群 れへといっそう成長したく思います。主が約束しておられます「わたしを愛する者は、 わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあら わすであろう」と。私たちが十字架の主の愛に教会において堅く繋がっているなら、 もはや何物も私たちをその愛から引き離すことはできません。なによりキリストご自 身が、私たちを決して離れないように捕らえていて下さるのです。私たちがどんなに 弱く脆い存在でも、私たちが真の礼拝者としてキリストの愛の内を歩むとき、主は私 たちの人生のただ中に、私たちの弱さの中にさえも、ご自身の主権と恵みを豊かに「あ らわし」て下さるのです。私たちはいま、そのたしかな祝福と約束のもとに招かれ、 ともに生かされているのです。