説     教   創世記32章24〜30節  ヨハネ福音書14章19〜20節

「されど汝らは我を見ん」

2010・04・18(説教10161320)  主イエス・キリストは今朝のヨハネ伝14章19節20節にこのように言われました。「も うしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたし を見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわ たしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、 わかるであろう」。  これは十字架を目前にされた主の御言葉です。翌朝には主は十字架を背負われてあのゴ ルゴタに続く“悲しみの道”(ヴィア・ドロローサ)を登られるのです。つまりここで主は 地上でのご生涯における最後の言葉として私たちに語っておられるのです。そしてそれは “罪の支配の終わりの宣言”です。歴史を支配しているように見える「罪」の力は神の御 子の十字架の苦難と死によってここに終止符を打たれようとしているのです。歴史の中に 永遠が突入し「死は生命に呑まれてしまった」のです。永遠なるかたが歴史とこの世界を 救い、御業を完成されるために歴史の中に人となられ、私たち全ての者のために贖いの死 をとげて下さったのです。  その厳粛な“十字架の時”に臨み、主イエスは弟子たち、否、ここに連なる私たち一人 びとりに限りない生命の祝福を与えておられます。それは19節に「しかし、あなたがた はわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからある」と言われことです。 ここでなにより大切なのは「あなたがたはわたしを見る」と主みずから告げて下さったこ とです。「この世」は主イエスを肉において(つまり人間として)しか見ようとしなかった。 イエスがキリストであることを信じようとはしなかった。それが「見なかった」というこ とです。それに対して主は「しかし、あなたがたはわたしを見る」と言われるのです。  すなわちこの「見る」という言葉は「信じる」という意味です。それなら主が今朝の19 節に言われる「もうしばらくしたら、世はもはや、わたしを見なくなるであろう」という 言葉はなおさら重いのではないでしょうか。これはただ主イエスが復活して天に帰られる ので、もはや世の人々は“キリストの姿が見えなくなる”ということではありません。そ うではなく、世の人々はもはやキリストを“信じようとしなくなる”ということなのです。 そこでキリストを「見ない」ことは主なる神を「見ない」ことです。キリストを「信じな い」ことはまことの神を「信じない」ことです。そのような“不信仰”が世界を覆う、そ のような時代にあなたがたはあると主ははっきりと言われるのです。  それこそ私たちの生きる現代社会の状況ではないでしょうか。「信仰」とは教会において キリストの身体に結ばれることです。私たちの滅びるべき「からだ」が永遠の生命に覆わ れることです。現代社会が求めているのもこの「真の生命」なのですが、人々はそれに気 が付きません。それは十字架の言葉(十字架の主)が「愚かなもの」のように見えるから です。「宣教」の中で神戸の鴇田牧師が語られたように現代人は「拝金主義、拝健主義」に 骨の髄まで侵されています。富と健康だけが人間の価値であるように思われています。そ の結果が様々な混乱や犯罪を生み出しているのです。昨日もインターネットを切られた30 代の男性が家族を殺し放火するという事件がありました。私たちは本当に思わないでしょ うか?「この人が礼拝に出席していたら」と。礼拝に出席して真の神の愛を知っていたな ら、このような事件は決して起こらなかったはずです。私たちには伝道の責任があるので す。子供たちも、青年たちも、大人たちも、みんな教会に来て共にキリストの無限の愛と 恵みにあずかるようになって欲しい。それが私たちの変わらぬ切なる願いです。  しかし現実には難しいのです。わが国におけるプロテスタント宣教も150年の歴史を刻 みました。しかし全人口に占めるキリスト者の割合は依然として1パーセント枠を超えぬ ままです。終戦後約15年間爆発的なキリスト教ブームがありました。どこの教会にも青 年が溢れ、市町村役場にも牧師が呼ばれキリスト教講座が開かれた時代があったのです。 しかし嘘のように消えてしまいました。かつて白金教会の牧師でありフェリス女学院の院 長を務めた山永武雄牧師が東部連合長老会の前身である東京伝道局の会議で発言された言 葉を想い起こします。「このキリスト教ブームが神の祝福の時機到来だなどと私たちは思っ てはならない。時勢に乗って伝道をしようという志を我々の教会は持つべきではない。大 切なことは、時勢がどうであれ人がどうであれ、主の御旨にかなった真の教会を形成し、 福音のみを宣べ伝えることである」。  もし伝道の成果を数だけで測るなら、日本伝道ほど大きな失敗は世界的に見ても珍しい でしょう。150年も伝道してキリスト者が全人口の1パーセントにも満たないことはどこ の国の伝道の歴史にも見られなかったことです。ここでこそ私たちは主イエスの御声を聴 かねばなりません「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるであろう」。キリ スト教世界を代表するヨーロッパでさえ、キリスト教の姿は変化しています。国や地域に よる差はありますが、全体を平均すれば教会に毎週通っている人はたぶんヨーロッパ全体 で1パーセントに満たないでしょう。あとは形だけ洗礼を受け、教会で結婚式をあげ、死 ねば教会で葬儀をするだけのことです。わが国で言う“葬式仏教”のような形式的宗教に すぎなくなっているのです。むしろキリスト者人口の少ないわが国の教会のほうがよほど 信仰において自覚的であり活き活きとしているとさえ言えるのです。  しかし問題はそういうことでさえありません。外国との比較の問題などではないのです。 それこそ山永牧師が言われた本質的な問題が今日さらに真剣に見据えられねばなりません。 それは現在の私たちの教会こそ、時勢や流行に囚われない本当の伝道を求められていると いうことです。主イエス・キリストは現代の日本を、葉山を訪れておられるのです。ご自 身の御身体なる教会を通して…。それこそ全ての人々に語りかけ招いておられるのです。 永遠の生命の祝福のもとへと…。だから問われているのは、主の僕である私たちが、いま 御業をなさっておられる主に本当に仕える僕となっているかどうかです。全てにまさる救 いと祝福の喜びを携えてこの時代に臨んでいるかどうかです。子供たちにも青年たちにも 大人たちにも、健康な人にも病める人にも、語るべき真の生命の言葉、真の慰めと希望を、 私たちがいつも旗幟鮮明にしているかどうかが問われています。たとえ時代がどのように 変化しようともこの一事だけは決して変ってはならないのです。  神の祝福、伝道の喜びと幸いは、どんなに大きな不信仰の世界にも現されるのです。今 ここに主が生きて御業をなしたもうからです。主は「もうしばらくしたら、世はもはやわ たしを見なくなるであろう」と言われました。そのとおりです。私たちは本当に“不信仰 の時代”に生きています。しかし肝心なことを忘れてはなりません。それは私たちみずか らこそその“不信仰な時代”の一人であるということです。病気の子供の癒しを主に願っ た会堂司は「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、何でもできる」と主に言われた とき、すぐに心を入れ替えて「主よ、信じます。不信仰なわたしをお助けください」と応 えました。その従順さをこそ私たちはいま主の前に持ちたいのです。私たちこそ主を「見 なくなっている」愚かな僕だからです。  それならば、私たちの不信仰が渦巻くこの世界の現実に対して、主は驚くべきことを語 りかけておられるのです。すなわち「しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生き るので、あなたがたも生きるからである」と言われたことです。そして公も言われました 「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしが あなたがたにおることが、わかるであろう」と。これこそ私たち一人びとり、そして全世 界に告げられている、限りない生命の祝福の御言葉なのです。主のたしかな約束なのです。  主は私たち(とその時代)が“不信仰”だから救われないと一言も語っておられないの です。私たちが「キリストを見ない」愚かな僕だから祝福の担い手にはなれないと語って おられないのです。その逆です。あの会堂司に現されたのと同じ救いの御業を私たちにも 現して下さいます。「しかしあなたがたはわたしを見る」の「しかし」は限りなく大きいの です。それは「この世界は不信仰だが、あなたがたはそうではない」という意味での「し かし」ではありません。不信仰なのは私たち自身です。「しかし」私たちはキリストを「見 る」(信じて生きる)者にされているのです。だからこの「しかし」にはキリストの十字架 の重みがかかっているのです。「私たちは罪によって滅びるほかはない。“しかし”主はそ の私たちのために十字架にかかって下さった」という「しかし」なのです。そこに私たち の、またこの現代社会の変らぬ唯一の救いがあるのです。人間の本当の自由と平和、喜び と幸いがあるのです。  その確かな喜びと幸いを「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」と主 は語って下さいました。この「わたしが生きるので」とは“復活の生命”のことです。罪 と死に勝利する唯一の真の生命です。それを主は信じる者すべてに与えて下さるのです。 そこには何の条件もありません。ただ主イエスをキリスト(救い主)と信じ主の教会に連 なって生きるだけです。教会は単なる信仰者の集団ではなく、復活のキリストの「からだ」 の歴史に於ける現れであり、地上における神の国だからです。だからここに連なることに より私たちは死から生命へと移されるのです。滅ぶべき者が永遠の御国を継ぐ者とされ、 虚無に囚われていた魂が永遠の光のもとに照らされ、たしかな祝福に生きる者とされるの です。全ての人々がその祝福の生命のもとにキリストによって招かれているのです。「わた しが生きるので、あなたがたも生きるからである」。  それならば、私たちが遣わされている伝道の務めは実に“生命の祝福への主の招き”を 隣人に告げることなのです。真実な良き医者が病に苦しむ患者のもとに何を措いても駆け つけるように、私たちもまた絶望した者、孤独な魂、病める魂、死に瀕した魂のもとに、 何を措いても駆けつける存在にならねばなりません。私たちみずからが主の「しかし」(十 字架の恵みの確かさ)によって贖われ救われた僕として、どのような時代にありましても ただ主の主権のみを現わす真の教会を信仰と祈りをもってここに建て、福音のみに養われ 宣べ伝える群れへと成長してゆかねばなりません。伝道こそ隣人に対する最大の愛のわざ であり、私たちがキリストの祝福を携えて一人の魂に真実に関わる者とされているのです。 ただキリストを宣べ伝えるわざ、キリストを讃美告白する教会だけが“祝福の生命”を人 に与える唯一のわざなのです。  旧約聖書・創世記の32章に、ヤコブがヤボクの渡しで「ひとりの人」と戦った出来事 が記されています。ヤコブはそこで一晩中その「ひとりの人」と戦い続けたと記されてい ます。彼は言うのです「わたしを祝福して下さるまで、決してあなたを去らせません」と。 そのヤコブにその「ひとりの人」は「イスラエル」という新しい名を与えます。それは「神 の御支配」という意味です。ヤコブはそこで文字どおり「見る」のです。その「ひとりの 人」こそ実は主なる神ご自身であられるということを。そこでヤコブは礼拝を献げ畏れつ つ言うのです「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」と…。  この不思議な出来事の意味はキリストによって明らかにされました。ヤコブが渡らねば ならなかったヤボクの渡しは、私たちの人生におけるあらゆる誘惑と試練を意味していま す。それを渡って向う岸に至るためには、私たちはどうしても神の祝福を戴かねばなりま せん。キリストの復活の生命に与からねばなりません。それ以外に罪と死の力に勝利する 道はないからです。だから神はイエス・キリストによって私たちに“絶大な勝利”を下さ いました。その“絶大な勝利”に私たちは人生の旅路のあるかぎり連なるようにと招かれ ています。その祝福の生命(イスラエル)を私たちの人生を支える祝福としていつも戴く ように召されています。主がいつもその祝福のもとに私たちを招いていて下さるのです。  だからこそヤコブはあの「ひとりの人」を離しませんでした。否、神ご自身がヤコブを 祝福から離れないように、戦いを通して捕えていて下さったのです。そして彼に「イスラ エル」(神の御支配)という新しい名(人生)を与えて下さいました。  そしてその主みずから約束しておられます。「その日には」(私たちの日々の生活の中で) 「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたに おることが、わかるであろう」と。私たちはいつも主と共におり、主はいつも私たちと共 におられるのです。それこそ「イスラエル」(神の御支配)の“祝福の生命”がここに実現 しているではないか。その祝福こそが今ここに集うあなたの全存在を堅く支えているでは ないか。そのようにいま主は語っていて下さるのです。その祝福に支えられ連なる者とさ れて私たちは、主の御顔を仰ぎつつ、主の御姿を見つつ、主の愛の内を歩んでゆきます。 もはや死の力さえもその祝福から私たちを奪うことはできないのです。ただ神にのみ栄光 あらんことを。