説      教     詩篇27篇10節    ヨハネ福音書14章18節

「われ決して汝を捨てじ」

2010・04・11(説教10151319)  「焼野の雉、夜の雁」という諺があります。「きぎす」とはキジのことです。森が山 火事になると鳥や動物たちは火から身を守ろうとしていっせいに逃げます。ところが あとの焼け野原からなぜかキジの死骸が発見されるのです。この鳥はどうして逃げな かったのだろう?。不思議に思った人がそっとキジの死骸を持ち上げてみると、その 下には生きたままのヒナが現れた。そうかこのキジはまだ飛び立てないヒナを守ろう として自分の身を焼かれてまでもヒナを守った母鳥だったのだ。それを「焼野の雉」 と申しまして、子を思う親の愛の譬えとなったのです。万葉集にも「銀も黄金も玉も なにせむにまされる宝子にしかめやも」という山上憶良の歌があります。世の中の人 は金や銀や宝石を貴ぶけれども、そのようなものに較べることのできない本当の尊い 宝、それは子供たちではないかと万葉集は歌うのです。  しかし現代社会においては、私たちはそうした古来の諺や歌に反する数々の残念な 出来事を見聞きします。家庭内での児童虐待事件は増加する一方だと聞きます。慈し み守るべきわが子を親が殺してしまう。飢死にさせるといった悲惨な事件が後を絶ち ません。だからこそ、世の中において決してありえない、あってはならないことの一 つの確かなしるしとして「親がわが子を棄てる」ということがあるのです。親がわが 子を捨てる。それは時代がいかに変ろうとも、ありえないこと、あってはならないこ との最も確かな譬えであることに変わりはありません。  私たちの主イエス・キリストは、今朝のヨハネ伝14章18節において「わたしはあ なたがたを棄てて孤児とはしない」とはっきり約束しておられます。この「孤児」と はギリシヤ語の字義そのままに直訳すれば「見棄てられた子たち」という意味です。 「わたしはあなたがたを棄てて見棄てられた子たちにはしない」と主ははっきり言わ れるのです。ある意味でこれは私たちに“良く分かる”ことです。「焼野の雉」の譬え に共感するなら、ましてや慈しみに富みたもう我らの主イエスは私たちを見棄てて「見 棄てられた子たち」のようにはなさらないはずだ。そのように私たちは当然のように 思っています。その意味で今朝の御言葉は“自然”なのです。新聞に載るような酷い 児童虐待の親でもないかぎり、わが子を棄てるということはありえない。まして主イ エスはなおさらではないかと私たちは思うのです。  しかし実はそこに、私たちが今朝の御言葉を聴くときの大きな危険があります。そ れは私たちが今朝のこの御言葉を「自然なこと」(当然のこと)として常識の範囲内で 受け取ってしまうことです。試しに私たちはこう考えてみれば良いのです「わたしは あなたがたを棄てて孤児とはしない」この御言葉を聴いて私たちの何人が涙を流して 感激したでしょうか?。何人が「これは大変な恵みだ」と感謝したでしょうか?。む しろ私たちは「当たりまえではないか」と感じたのではないでしょうか。もしそうな ら私たちは今朝の御言葉を神の言葉ではなく人間の言葉として聴いています。「われ決 して汝を棄てじ」これをキリストの言葉でなくても納得してしまうのです。  むしろここで正反対のことを考えてみるとよいかも知れません。もし主イエスが私 たちに「わたしはあなたがたを棄てて孤児にする」と言われたなら私たちはどう思う か。「それはひどい」と感じるでしょう。主イエスのお言葉とは思えないと憤慨するで しょう。「そんなイエスさまにはついて行けない」と感じるでしょう。言い換えるなら 私たちはそれほど自分中心に今朝の御言葉を聞いています。御言葉が私たちを砕くの ではなく、私たちが御言葉を砕いているのです。  横浜のあるカトリックのミッションの女子中学高校で宗教主任をしているかたのホ ームページを見たことがあります。その中でその教師が生徒たち(中学1年の生徒だ そうです)に「イエスさまのここが好き、ここが嫌い」というアンケートを書かせた。 すると「ここが嫌い」という答えのほうが「好き」という答えより倍ぐらい多かった というのです。目立った答えとしては「偉そうにふるまう」「よくわからない話をする」 「自分がキリストだと見せつけている」というものがあったそうです。中には「不潔 そう」「あのロングヘアをシャンプーしてやりたい」というのもあったそうです。それ には「勝手にすれば?」という宗教主任のコメントが書いてありました。それに対し て「イエスさまのここが好き」という答えでいちばん多かったものは「いつも一緒に いてくれる」「やさしい」「何でも許してくれる」というものだったそうです。改めて ミッションスクールの宗教主任の苦労を思うと同時に、現代の女子中学生が主イエス について抱いている素直な印象が聞けたと思いました。そして改めてひとつのことを 考えさせられました。  それは、教会に連なり信仰生活をしている私たちは、もちろん「イエスさまのここ が嫌い」とは言いません。「シャンプーしてやりたい」と思う人もいないでしょう。し かし「いつも一緒にいてくれる」からイエスさまが「好き」だと、この女子中学生た ちのように素直に言いうる信仰生活を私たちはしているでしょうか?。また「ここが 嫌い」という子供たちの思いを払拭して「イエスさまが大好き」と言わしめるような、 キリストの真のお姿を示しうる信仰生活を私たちはしているでしょうか?。言い換え るなら「わたしはあなたがたを棄てて孤児とはしない」と主イエスが言われたことを、 当然の(自然な)ことではなく限りない「恵み」また「福音の喜び」また「祝福」と して私たちは聴き取っているか?。それがいつも問われていると思うのです。  今朝あわせてお読みした旧約聖書・詩篇27篇10節に「たとい父母がわたしを棄て ても、主がわたしを迎えられるでしょう」とありました。この詩篇27篇はダビデ王 が家臣であり将軍であるウリヤの妻バテセバを策略を用いてわがものにした「罪」を おかしたとき、その罪を預言者ナタンによって示され、悔い改めて主なる神に立ち帰 り贖われた喜びと感謝を歌っているものです。その中でこそダビデは「たとえわが父 母われを棄つるとも主われを迎え給わん」と歌い上げているのです。ダビデは言うの です、自分がおかしたあの大きな「罪」は「あってはならぬこと」であった。それは 「父母に棄てられ」ても仕方のないほどのものであった。ダビデは神によって造られ 祝福された人生を自分の「罪」によって破壊してしまったのです。存在の意味そのも のを失ってしまったのです。その「罪」はただ人間関係だけではなく、本当には神に 対する関係の崩壊なのです。神の愛に応えて生きるべき人間がその喜びの関係を失う とき、肉体だけではなく魂さえも滅びるのです。それを聖書では「からだの滅び」と 言います。その意味でダビデの「からだ」は滅びたのです。彼の肉体にも魂にも死が 纏わりついたのです。使徒パウロ、かつてのパリサイ人サウロもその死のさまを経験 しました。それはローマ書7章24節に「わたしは何というみじめな人間なのだろう」 と叫んだあのサウロの叫びに現れています。  私たちもまた、その叫び(滅びのさま)を自分のものとして持つ存在なのではない でしょうか。私たちの「からだ」にも「滅び」が幾重にも纏わりついているのではな いでしょうか。そこでは人生の意味は失われ、隣人に対しても神に対しても正しい関 係を持ちえなくなっています。「たとえ父母われを棄つるとも」の「たとえ」が「現実」 になっているのが私たちの社会なのです。私たちの存在を支える確かなもの、確実な もの、永遠なるものが何ひとつない社会に、人々はさまよい続けているのです。  そのような私たちの世界に、主なる神は御子イエス・キリストによってはっきりと 大いなる約束を与えて下さいました「たとい父母われを棄つるとも主われを迎え給わ ん」と!。何よりも主イエスみずから力強く語っておられます「わたしはあなたがた を棄てて孤児とはしない」と!。あなたがた(この滅びの罪の「からだ」を抱えたま まの世界)を「見棄てられた子たち」には私は決してしないと主は約束して下さった のです。そこにこそ全ての人々の本当の救いと幸いがあるのです。  「母を尋ねて三千里」という物語があります。マルコという一人の少年が数奇な運 命を経て生き別れになった母親を訪ねて辛い旅を重ね、ついに母と再会して幸せにな るという物語です。私たち人間はこの物語と同じように真の神を訪ねて旅をしている 存在なのです。19世紀スウェーデンのある宗教哲学者が「人類の歴史はまことの神を 尋ねて旅する旅人の歴史である」と語っています。人間は誰でも例外なくまことの神 を尋ねて魂の旅路を彷徨っているのです。それは真の神を尋ねる旅路ですから、真の 神に出会うまでは決して平安をえることのない旅路です。だからアウグスティヌスは こう言いました「神よ、あなたは私たちをただあなたへと向けてお造りになった。そ れゆえ私たちは、ただあなたを見いだしあなたのもとに憩うまでは決して平安をえる ことがない」。  「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」。これは当たりまえの常識の言葉な どではありません。この御言葉には神の御子イエス・キリストの「十字架」と言う測 り知れぬ恵みの重みが込められているのです。すなわち「父母でさえわれを棄てる」 というほどの「罪」と根本的な「からだの滅び」を抱えた私たちの存在、その私たち が生み出すこの世界が、その「罪のからだ」のままに十字架の主イエス・キリストに よって贖い取られ、その全ての罪を赦され、義とされ、永遠の生命を与えられている という出来事です。十字架の主による罪の贖いの恵みの出来事です。  真の神から離れ、真の神に叛き、真の神に立ち帰るべき道さえ知らずにいた私たち のために、まことの神みずからが御自分を全く空しくされ、人となられて私たちの「罪」 のただ中に降りて来て下さった。そこで私たちのために呪いの十字架を担われ、ご自 分の肉を裂かれ血を流されて私たちの赦しと贖いを成しとげて下さったのです。ただ この十字架の主の恵みによって私たちは、今朝の御言葉をいま私たちの「からだの復 活」と祝福を告げる「喜びの福音のおとずれ」として聴きうるのです。  「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」これは私たちのために十字架上に 生命を献げて下さった主イエス・キリストの御言葉です。だから全てにまさって確か な祝福であり永遠の生命の約束なのです。「焼野の雉」が身を焼いてまでヒナを守った なら、ましてキリストはご自分の全てを献げて私たちの身代わりとなって下さったの です。私たちの「からだ」の滅びを引き受けて下さったのです。そのようにして私た ちを新しい復活の生命(父・御子・御霊なる三位一体の神との永遠の交わりの喜び) の内に生きる者として下さいました。その最も確かな「徴」こそこの教会です。教会 は地上における神の国であり、キリストの復活の「からだ」の歴史における現れです。 この礼拝は三位一体なる神との聖なる交わりに招かれ生かされることです。そこから 私たちは新しい人生の歩みへと遣わされてゆくのです。  以前は私たちの「からだ」を「死」が支配していました。今は違うのです。この教 会に連なる全ての者に主は永遠に朽ちない「喜びの生命」を与えておられます。そし て全ての人々をその「永遠の生命」のもとに招いていて下さるのです。だからこそ主 は今朝の御言葉において「(わたしは)あなたがたのところに帰って来る」と言われま した。主は弟子たちを離れて天に昇って行かれたのと同じ有様で再び栄光のうちにこ の歴史の中に来られるのです。その栄光の「主の日」に世界万物は新たにされ、教会 は完成の日を迎え、世界に現わされた救いの御業は完成され、死んで眠りの内にあっ た全ての聖徒たちは新しい栄光の「からだ」を与えられ、主の栄光の復活の御身体を 纏う者とされるのです。  いまこの礼拝において私たちは、永遠に主と共にある喜びと感謝と讃美の内に完全 な愛の中を主に結ばれて生きる者とされています。「たとえ父母われを棄つるとも主わ れを迎え給わん」。このたしかな祝福の内に…。それこそ私たち一人びとりに今ここに 約束されている恵みであり、その幸いがいま実現している。先取りされている。それ が今朝の主の御言葉によってはっきりと告げられていることなのです。「わたしはあな たがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」。ただ神にのみ栄 光あらんことを。