説    教    イザヤ書50章8〜9節  ローマ書8章31〜39節

「復活日の喜び」

  イースター礼拝 2010・04・04(説教10141318)  聖書に語られた福音の真髄をたったひと言で言い現わすとしたら、それはヨハネ福音書 3章16節になるのだとある人が申しました。すなわち「それ神はその独子を賜ふほどに世 を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり」という御 言葉です。その人はこうも申しました「もし聖書の言葉が全て失われたとしても、このヨ ハネ伝3章16節だけが残るなら、福音の本質は誤りなく世に伝えられるであろう」。すな わち神がこの世界を限りなく愛したもうて、その独子イエス・キリストを賜わったという 音信こそ福音の本質であると言うのです。  今から150年ほど前、わが国のある青年が徳川幕府の国禁を冒してアメリカに密航しま した。彼は船の中でこのヨハネ伝3章16節の御言葉に出会い、神を信ずる者になりまし た。新島襄というこの青年は敬虔なキリスト者である船長のもと聖書を共に学び、ボスト ンの港に着いたとき信仰を告白して洗礼を受けるのです。そして10年間の苦学の末に神 学校を卒業して日本人として最初の牧師となり、京都に同志社英学校を創立したのです。 たった一行の神の御言葉が一人の青年を甦らせ、多くの人々をキリストへと導く神の器と したのです。  今朝の御言葉であるローマ人への手紙8章31節以下、特にその37節に使徒パウロはこ う語りました「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これ らすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者 も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被 造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すこ とはできないのである」。  これはパウロによって、当時のローマの教会と世界全体に告げられた“神の愛の勝利宣 言”です。当時のローマ教会は厳しい迫害の渦中にありました。キリストを信じ教会に連 なるゆえに、信徒たちは多くの苦しみを受け、職を奪われ、財産を没収され、家族を引き 離され、愛する者たちを失いました。しかしその苦しみの中にあって、キリスト者たちは 多くの人々に福音を宣べ伝え、そして多くの人々が教会の礼拝に連なり洗礼を受けるよう になったのです。やがて西暦313年ローマ皇帝みずから信仰を告白して洗礼を受け、キリ スト教がローマ帝国の国教となりました。しかしその後も迫害は260年もの長きにわたっ て続いたのです。その戦いの日々の中でキリスト者たちはたえず今朝のこのローマ書8章 の御言葉の慰めと希望に生き続けたのです。  パウロは「『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のよ うに見られている』と書いてあるとおりである」とローマの信徒たちに書き送りました。 これは旧約聖書の詩篇44篇22節の御言葉です。この御言葉のとおり、キリストを信ずる ゆえに私たちは多くの苦しみを受けねばならないかもしれない、そのようにパウロは言う のです。事実ローマの信徒たちの日常は「死に定められており、ほふられる羊のように見 られている」ごとくであったのです。しかしそのような悩みと試練のただ中にあってなお 「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において 勝ち得て余りがある」ことを全ての教会員が確信していました。「勝ち得て余りがある」と は誇張ではありません。キリストの愛における余りにも絶大な勝利の喜びのゆえに、私た ちはその喜びを少しも隠してはおけない、伏せておくことはできない、という意味なので す。  当時のローマでは主日礼拝に連なる人々は、一日の仕事を終えて夜になってから教会に 集まりました。教会も外に建物を持つことは許されず、人々は地下の“カタコンベ”と呼 ばれる墓地の中にひそかに集まり、蝋燭の灯りのもとで喜びと感謝の礼拝を献げたのです。 まだ日曜日は公休日ではありませんでした。だからローマの信徒たちは仕事で疲れた身体 をそのまま、まず喜んで地下の教会に集まり主日礼拝を献げ、讃美を歌い祈りを共にし、 御言葉を聴き聖餐にあずかったのです。聖餐台として用いられてたのは多くの場合、殉教 者の棺でした。それで今もなお教会の聖餐台は棺の形を名残に留めているのです。信徒た ちはそこで執り成しの祈りを全世界のため、為政者たちのために献げました。自分たちを 迫害し苦しめ、愛する者を死に追いやった為政者たちのためにも、神の祝福と赦しと救い を祈ったのです。  ここに集う私たちもまた、この当時のローマの信徒たちと同じ慰めと希望に共に生かさ れているのです。日々のあらゆる信仰の戦いと試練の中で、なお「わたしたちを愛して下 さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」と の絶大な確信と慰めのもとに、私たちもまた連ならしめられているのです。私たちもまた 執り成しの祈りをもってこのイースター礼拝に連なっています。それこそ38節以下「わ たしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおけ る神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」という希望に基づく新しい歩みな のです。  その希望には確かな根拠があります。ローマの信徒たち、また私たちは、根拠を持たぬ 虚しい希望に生きる群れではありません。失望に終わることのない真の希望を主に結ばれ て知る者とされています。それこそ今朝の御言葉の31節以下です「それでは、これらの 事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたした ちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死 に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。です からパウロは更に34節以下にこうも宣べ伝えています「だれが、神の選ばれた者たちを 訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キ リスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのために とりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患 難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」。  「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」これらはみな信徒一人びとりの身に現実に 起こっている信仰の試練でした。理由なく人に訴えられること、権力者から不当な審きを 受けること、みな等しく現実の苦しみでした。ローマの教会はまさに敵対する者たちに囲 まれた四面楚歌の状態に在りました。その中でこそパウロは告白するのです「私たちは既 に絶大な勝利を得ている」と…。神が私たちをキリストの「義」をもって覆って下さるの なら誰が私たちを訴ええようか。キリストが復活して神の右に座し私たちのために執り成 して下さるのなら誰が私たちを「罪」に定めえようか。「神がわたしたちの味方であるなら、 だれがわたしたちに敵し得ようか」。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべ ての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも(すなわち、私 たちの人生全体を神の限りない祝福として)賜わらないことがあろうか」と。  そこで、この福音の慰めの根拠こそキリストの「復活」の事実なのです。キリストは私 たちの「罪」の贖いのために、呪いの十字架にかかりたまい、死んで葬られて下さった。 そのキリストの「復活」の事実は、神の愛は罪と死に最終的に永遠に勝利する唯一の実在 であるという福音です。復活は神の愛の勝利の揺るがぬ「しるし」なのです。実に神は御 子キリスト・イエスによって私たちを極みまでも愛して下さいました。その神の愛こそ私 たちを「罪」と「死」に打ち勝たしめる唯一の力なのです。神は「罪」によって死んでい た私たちをキリストと共に甦らせ、キリストの御身体なる教会に連ならせて下さいました。 この教会によって私たちはキリストの復活の生命に結ばれた者とされ、新しい歩みを始め てゆくのです。  それゆえにパウロは「それでは、これらの事について、なんと言おうか」と今朝の最初 の31節に戻っています。自分はこの恵みについてもはや語るべき相応しい言葉を持たな い。キリストの復活の福音の絶大な勝利の喜びを告げるためには、どのような人間の言葉 も間尺に合わないとパウロは言うのです。だから聖書の言葉をそのまま宣べ伝えるほかは ないのだ。キリストが私たちのためにして下さった御業をそのままに語る以外にないのだ と…。人間のどんな知恵も哲学も思想も言葉も、主の「復活」の恵みの前には色褪せてし まうのです。しかしそれを敢えて教会の言葉として語るならばこういうことだとパウロは 申します。それは“キリストはあなたの救いのために復活された。もはやいかなる被造物 も、死の力さえも、あなたをキリスト・イエスにおける神の愛から引き離すことはできな い”ということだと。  まさにここに「福音の本質」があります。“キリストはあなたの救いのために復活された。 もはやいかなる被造物も、死の力さえも、あなたをキリスト・イエスにおける神の愛から 引き離すことはできない”ということ。ここに私たちの変らぬ慰めがあり、希望があり、 力と勇気の根源があるのです。この復活節にあたり、私たちは共にこの御言葉に聴き、私 たちに委ねられている日々の信仰の歩みに、たとえ試練の中にありましょうとも、キリス トに贖われた喜びの僕として、永遠に復活のキリストに結ばれた者として、遣わされてゆ くのです。