説     教   エレミヤ書28章10〜14節 ヨハネ福音書14章12〜14節

「更に大いなるわざ」

2010・03・21(説教10121316)  主イエス・キリストは私たちの常識を打ち破る御言葉を語られます。今朝のヨハネ伝14 章12節以下です。「よく、よく、あなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、また、 わたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」。 これは何と驚くべき御言葉でしょうか。主イエスを信じる者は主イエスがなさるのと同じ 「わざ」を行う。いや「もっと大きいわざをする」と主は私たちに言われるのです。  むしろ私たちはここで主イエスが「あなたがたには私がするような“わざ”は何もでき ない」と語られたのなら納得できるのです。私たちには主イエスのような「わざ」は何ひ とつできない。私たちと主との間には無限大の隔たりがある。たとえ私たちに主のような 「わざ」ができたとしても、それは主がなさった「わざ」に較べれば遥かに小さなものに すぎない。私たちは心からそう思うのではないでしょうか。  しかし主イエスはここに紛れもなく「わたしを信じる者は、また、わたしのしているわ ざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」と断言なさいます。 主が嘘やお世辞を言われるはずはありません。だからこそ私たちは驚くのです。打ちのめ される思いなくして今朝の御言葉を聴くことはできないのです。  しかも、この御言葉が語られた状況(私たちの生の姿)を見るなら、それは惨憺たる有 様です。弟子たちの(私たちの)主に対する姿の不甲斐なさ!。特に13章の終わり36節 以下には、ペテロが「主よ、あなたのためには命も捨てます」と言ったその日のうちに主 の御名を3度も拒み主を裏切った出来事が記されています。また14章では「わたしたち に御父を示して下さい」というピリポの求めに代表されるように、弟子たちは主イエスと 長く共にいたにもかかわらず、主イエスが神の御子(キリスト)であることを理解してい ないことが暴露されました。そのほかにも弟子たちの弱さ・愚かさ・欠点・失敗を数えれ ばきりがないのです。  それこそ私たち自身の姿でもあるはずです。私たちこそキリストの弟子たちと同じく、 否、彼らよりも多くの弱さ・愚かさ・欠点・失敗を持つからです。罪は私たちの外にでは なく中にあるのです。私たちは神の前に等しく罪ある存在です。そのような私たちがどう して主イエスと同じ「わざ」を、しかも「もっと大きいわざ」を行うことなどあり得るで しょうか?。いくら主のお言葉でも「それは言い過ぎですよ」と反抗したくなる私たちな のです。  そのような私たちだからこそ、主は今朝の生命の御言葉のもとに「為し能はざることを 為したまふ」かたとして招いていて下さいます。なによりも主は今朝の12節の終わりに このように語っておられるのです。「(それは)わたしが父のみもとに行くからである」。  すでにこの14章において、主は幾度も弟子たち(私たち)に、ご自分が行こうとされ ている「道」について語られました。「その道はあなたがたにわかっている」と言われまし た。大切なことは、そこで弟子たち(私たち)がその「道」を「なぜわかっているのか」 と言うことです。その理由は、たとえ私たちがその「道」を知っていようがいまいが、主 イエスはただ一人その「道」を私たち全ての者のために歩みたもう恵みにあります。つま りその「道」とは全ての人の罪の贖いと救いのために十字架にかかられるキリストの愛の 道です。ご自分の全てを献げて私たちの罪を贖われることです。そのようにしてまず主み ずから私たちのために天に「場所」を備えて下いました。天の国籍(天の本籍)を与えて 下さいました。この恵みが私たちの想いや驚きの全てに先立っているのです。  主は「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られました。それは人間を人間 たらしめる「まことの救い」そのものです。歩むべき「道」、見いだすべき「真理」、生き るべき「生命」、そのどれひとつを欠いても私たちに本当の救いと自由と幸いはないからで す。大切なことは主イエスは、それは「わたしである」と言われることです。主イエス・ キリストみずからが私たちの「道」であり「真理」であり「生命」なのです。  だから主はこう語られました「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くこと はできない」。これは言い換えるなら「だれでもわたしによれば(繋がっていれば)かなら ず父のみもとに行くのだ」という約束です。主は「誰でも、どんな人でも、わたしに繋が っているなら、かならず父の御もとに行くことができる」と語られるのです。なぜでしょ うか。それは主イエスみずからあの十字架と死と葬りと復活によって、私たちが父なる神 の御もとに行くべき唯一の「道」となって下さったからです。そしてその唯一の「道」で ある主イエスに結ばれて生きることとは、主イエスを救い主と信じ告白して教会に連なっ て歩むことだからです。宗教改革者カルヴァンは「教会を母として持たない者は、神を父 として持つことができない」と言いました。この「教会を母として持つ」とは礼拝者とし て生きることを意味しています。すなわちキリストの「道」を歩むとは、私たちが礼拝者 として歩むことなのです。  するとそのキリストに繋がる歩みの中で、私たちにいつも与えられている祝福が明らか にされているのです。それは、キリストは教会においていつも現臨しておられ、いつも私 たちと共におられるかただということです。主日礼拝から始まる私たちの全生活を恵みと 祝福のもとに支えて下さいます。それは聖霊によって明らかにされた恵みです。キリスト が共におられない場所などどこにも存在しないのです。  十字架の出来事ののち、恐れと不安から戸を閉ざし窓を閉めきって部屋に潜んでいた弟 子たちのもとに復活の主は現れ「あなたがたに平安があるように」と告げて下さいました。 たとえ私たちが恐れと不安とに満たされ心の扉を閉ざしている時にも、主は聖霊によって 絶えず私たちと共にいて下さり、私たちに“主の平安”を与えて下さるのです。そして私 たちを恐れの中から立ち上がらせ、御言葉による真の自由を与え、勇気と平安をもって主 と共に歩む者にして下さるのです。  それならば今朝の御言葉の意味もおのずと明らかなのです。それは私たちが自分の力で 自分の「わざ」に生きるのではないということです。自分の「わざ」(律法のわざ)は私た ちを罪に閉じこめ自己中心と虚しい誇りと他者への審きを生むだけです。それはちょうど エレミヤ書28章10節以下において「木のくびき」を解かれたイスラエルの民が、新たな 「鉄のくびき」を強いられたのと同じです。罪は新たな罪を生み出し、私たちは自由を求 めてかえって束縛されるのです。しかも新たな束縛は以前のものよりずっと重いのです。  まさにそのような「律法の呪い」の重い鎖から、主の「わざ」のみが私たちを自由にし て下さいます。私たちの全ての罪を担って十字架に死なれ、罪の贖いを成しとげて下さっ た神の御子のみが、私たちの生きるべきまことの「道」となって下さるのです。この「道」 を歩むとき、礼拝者として生きるとき、私たちはやり場のない苦しみや悩みの中にあって も、なお主が重荷を担って下さる慰めの内に生きることができます。傲慢にも自己卑下に も捕らわれることのない真の自由に生きうるのです。キリストご自身が私たちの「わざ」 となられたからです。キリストが信じる私たち一人びとりと共におられ「わざ」をなさっ ておられるからです。  パウロはガラテヤ書2章20節に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリス トが、わたしのうちに生きておられるのである」と言いました。古き罪の自分はキリスト と共に十字架につけられ、新しい復活の生命に覆われた自分がキリストと共に生きるので す。言い換えるならキリストの恵みの確かさの中に人生がいつも祝福され、支えられ、導 かれているとのです。それは自分の「わざ」ではなく、ただキリストの「わざ」なのです。 第二コリント書12章9節に心を止めましょう。「主が言われた、『わたしの恵みはあなた に対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリス トの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。  キリストの恵みの力がどんなに大きく確かな祝福であるかを知るなら、私たちは自分の 「弱さ」をさえ「誇る」ことができるのです。この「誇る」とは「喜ぶ」という字です。 弱い自分を嘆くのではなく、主と主の「わざ」のみを見つめて、この弱い自分をこそ主が 共にいて支えて下さることを「誇る」(喜ぶ)私たちとされているのです。「足りない、足 りない」と言って嘆くのではなく、ましてや他の人を審き傲慢になるのでもない。人生の 幸いと不幸を決めつける損得勘定表をキリストの「わざ」の前に破棄して、キリストの「わ ざ」に歩む新しい生活が、私たちにいま与えられている限りない祝福なのです。  だから主は私たちに言われます「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあ げよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願 うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」。これは祈りだけではなく、私たちの人生全 体に告げられている祝福の約束です。「わたしの名によって願うことはなんでも」と主は言 われました。この「かなえられる」という言葉は「思いを超えて実現する」という意味で す。私たちが願うこと求めることの全てを、主イエスは御父に執り成したもうて、聖霊に よって、私たちの願いや求めに遥かにまさって実現して下さるのです。私たちが求めるも のをそのまま与えるのではなく、私たちの求めよりも大きなものを与えて下さるのです。  ときどき私たちは「この祈りはなぜ聴かれないのだろう?」と不安になることがありま す。「主は本当に私の祈りを聴いて下さるのだろうか」と主を疑うようなことがあるのです。 しかし「祈り」はいかなる場合でも、それが「主の御名」によって献げられるかぎり決し て聴かれないことはありません。祈りは聴かれないのではなく、私たちの思いや計画を超 えて聴かれるものなのです。  何よりも主は私たちの祈りに聖霊をもって応えて下さいました。求める弟子たちに聖霊 を遣わされ、真理の御言葉を悟らせ、永遠の生命を与えて下さいました。それは私たち一 人びとりにいまここで教会によって起こっている恵みの出来事です。主は私たちが唯一の 救いの御名によって祈り求めるのを待っていて下さいます。親がわが子に素晴らしいプレ ゼントを用意するように、主は私たちの思いを超えた素晴らしいプレゼントを備えていて 下さるのです。それこそ真理の御霊(慰め主なる聖霊)です。聖霊による主イエスの現臨 の恵みです。主はいつも共にいて私たちを存在の深みから支えていて下さるのです。  主の弟子たちはまさにその恵みを受けました。聖霊を受けて、弱く、愚かな、欠点だら けの僕たちが、主の「わざ」を行なう群れへと変えられてゆきました。ペンテコステの出 来事です。そして主の福音は聖霊の力を受け祝福された弟子たちによって全世界に宣べ伝 えられてゆきました。最初は12人にすぎなかった弟子の群れが全世界に拡がっていった のです。それこそ主イエスが言われた通り「そればかりか、もっと大きいわざをするであ ろう」との約束が実現したのです。そして私たちのもとにもキリストの恵みが宣べ伝えら れました。私たち自身がその恵みによっていま生きる者とされているのです。主の復活の 生命に結ばれて主の道を歩む者とされているのです。  「わたしを信じる者は、また、わたしのしているわざをするであろう。そればかりか、 もっと大きいわざをするであろう」。この主の御言葉こそはまことに真実です。少しも私た ち自身の「わざ」ではありません。ただ主が聖霊によって罪人のかしらなる私たちの死ん だ「からだ」をよみがえらせ「救い」を現して下さったからです。死したる者の復活の出 来事が私たちのただ中に起こったからです。救われた者の群れがこのピスガ台にも建てら れているのです。私たちはここで礼拝を中心とした聖徒の交わりをなし、私たちの弱さの 中にこそ働きたもう絶大な主の力によって、キリストと共なる人生の馳せ場へと、御言葉 を受け、主の平安のもとに遣わされてゆくのです。そこに私たちの変らぬ喜びがあり、ま た幸いがあることを感謝し、共々に主の御名を高らかに讃美したいと思います。  「よく、よく、あなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、また、わたしのしてい るわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」。主の「わざ」 は決して止むことはありません。私たちはいま、その「わざ」にあずかっているのです。