説     教   申命記10章12〜13節  ヨハネ福音書14章5〜6節

「道・真理・生命」

20010・03・07(説教10101314)  主イエス・キリストは弟子たちに「あなた(がた)はわたしの行くところに、今は ついて来ることはできない」と言われました。そのとき弟子たちは茫然自失したこと でしょう。まことに切実な思いがあったからです。主イエスを信じ主イエスを愛し、 主イエスを“救い主”と崇める弟子たちにとって、主イエスが行こうとされる所に一 緒に行くことができないことほど辛いことはありません。もし私たちが弟子たちの一 人であったとしても、やはり同じ思いを主イエスに対して抱くと思うのです。  “キリストと共に歩むこと”それは昔も今も変わることのない私たちキリスト者の 理想の歩みかたです。キリスト者の歩みはキリストに従う歩みです。詩篇84篇の詩 人も祈りの中でこう語りました「われ悪の幕屋に住むよりは、主なる神の家の門守と ならんことを願ふなれ」。神の御心から離れて繁栄と富と安楽におるよりは、自分はむ しろ主なる神の家の門守となる(神の家の門前に立つ)道を選ぶと言うのです。  それこそこの時の弟子たち一同の切実な思いでした。しかも主イエスは「わたしが どこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」と言われるのです。弟子たち は「わからない」から訊ねているのではないでしょうか。だからたまりかねたトマス は主にお訊きしました。それが今朝の御言葉の5節です「主よ、どこへおいでになる のか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。「どうして その道がわかるでしょう」とは「私たちにはわかりません」という意味です。「主よ、 その道をいま、私たちに教えて下さい」という願いです。「教えて下されば、どこへな りとも私たちは従います」と訴えているのです。  そのトマスの訴えに対して、主イエスは弟子たちに(私たち全ての者に)教えて言 われました。今朝の6節です「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理で あり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」。  主の弟子たち、否、私たちは、なんと迂闊な鈍い者でしょうか。御言葉を聴いてい るようで、実は正しく聴いないのです。だから「わかっている」はずのことを「わか らないから教えて下さい」と言い張るのです。私たちは主イエスのもとで(主が聖霊 において共にいて下さる教会の交わりの中で)すでに学び続け聴き続けて来たはずで す。それは、私たちが歩むべき「道」は主イエス・キリスト御自身であるということ です。主イエスご自身が私たちの「道」なのです。  私たちは“キリストと共に”歩もうと欲します。しかし“キリストの内に”歩もう としていないのではないでしょうか。大切なことは“キリストと共に”歩むことでは なく“キリストの内に”歩むことです。いや“キリストと共に”歩むことは“キリス トの内に”歩むことなのです。それこそが「わかっている」はずのことなのです。そ もそも私たちが「キリスト者として歩む」とはどういうことでしょうか。キリストに なることでしょうか。キリストと同じ生きかたをすることでしょうか。そうではあり ません。私たちはキリストやキリストの代理人になることはできないのです。  言われてみればすぐに「わかる」ことです。単純なことです。しかしその単純なこ とを私たちはすぐに忘れてしまいます。自分がキリストの代理人になるのでなければ、 本当のキリスト者の歩みではないと思ってしまうのです。そこから私たちの、自分に 対する絶望と他者に対する失望と審きが生まれます。誰一人として「キリストになる」 ことはできないにもかかわらず、それを可能とせねばならないと決めつけるところに、 私たちの信仰の歪みが生まれます。信仰の歩みがパリサイ人の道徳になってしまうの です。主の御前に健やかに立ちえなくなるのです。  あのパリサイ人たちの誤りは、律法を完全に守れば人間は神のような存在になれる と自惚れたところにありました。律法の行いに救いがあると考えたことです。だから 律法を完全に守りえない一般の人々を「地の民」(アム・ハ・アレツ=人間の屑)と呼 んで蔑んだのです。神のようになれなければ人間は救われないと説いたのです。  それならば、まさにその救いの余地なき「人間のくず」「地の民」のもとにこそ、主 イエス・キリストは来て下さいました。私たちは律法によっては決して救われないの です。その私たちの救いのために、まず神の御子キリストみずからご自身を虚しくし て下さり、十字架の主として私たちのもとに来て下さいました。私たちの罪のいっさ いを背負われて十字架の道をまっしぐらに歩んで下さったのです。  主が弟子たちに言われる「わたしの行くところ」とは、なによりもこの「十字架」 のことをさしているのです。そして罪の贖いを成しとげて父なる神のみもとに帰られ ることです。そこに「あなた(がた)は今はついて来ることはできない。しかし、あ とになってから、ついて来ることになるであろう」と言われるのです。  それはどういうことでしょうか。私たちの誰も、罪あるままに「義」とされる(神 の民とされる)ことはありません。罪あるままでは神の“子”となることはできませ ん。そして私たちは自分で「罪」を贖うことはできません。私たちはキリストになる ことはできないのです。神のような存在にはなれないのです。自分の力では神の国に 入ることはできないのです。永遠の生命を持つことはできないのです。人間として真 に健やかな歩み、本当の自由と幸いは、私たちの内には無いのです。  そうではなく、自分の「義」(救い)を何ひとつ持ちえない私たちのために、神の御 子キリストみずから御自分の全てを献げて下さり、私たちの罪の完全な贖いを成しと げて下さいました。それが十字架の出来事です。罪なき神の子みずから十字架の死に よって私たちの「義」(救い)となって下さったのです。それならば私たちに求められ ていることは、この十字架の主なるキリストにいつも自分を明け渡していることです。 キリストの愛と恵みにいつも自分を投げかけていることです。それこそ“キリストの 内に”歩むことなのです。キリストを信じることです。キリストを信じるとは、キリ ストの御身体なる教会に連なる者となることです。真実な礼拝者とし御言葉を聴き養 われつつ歩んでゆくことです。  主は言われます「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによ らないでは、父のみもとに行くことはできない」と…。この「道」はいま私たちと共 におられるキリストのことです。キリストのみが“永遠の御国”に至る唯一の道です。 私たちがこの世の様々な経験の中で“永遠の御国”に至る道を歩むことは、主イエス・ キリストを「わが主」と告白し、教会に連なって礼拝者として歩むことです。  そして「真理」とは、私たち人間が真に自由に健やかに生きるために不可欠な福音 の真理です。マルコ伝のいちばん最初に「主イエス・キリストの福音のはじめ」と記 されています。これは「福音は主イエス・キリストにおいて(あなたのただ中に)始 まった」という意味です。キリストご自身が「真理」であられるのです。同じヨハネ 伝8章32節に「真理はあなたがたを自由にするであろう」と主は言われました。そ の「真理」とは、人が努力して追い求め、わずかな幸運な人だけが見出せるものでは ありません。「真理」そのものが私たちのもとに来て下さり、私たちと共にいて下さる のです。それこそキリストにおける真理なのです。だからヨハネ伝1章14節にこう 記されています「そして言は肉体となり、わたしたちの内に宿った。わたしたちはそ の栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちて いた」。  最後に主は「わたしは生命である」とお教えになりました。この「生命」とは死に よっても滅びえぬ“永遠の生命”です。主イエス・キリストの復活の「生命」そのも のです。そのキリストの「生命」に私たちは教会によって連なる者とされているので す。教会はキリストの復活の生命にあずかる者たちの「聖徒の交わり」(キリストの生 命の共同体)です。私たちは教会を通してキリストの復活の生命にあずかるのです。  「道、真理、生命」そのどれも私たちは欠かすことはできません。「道」なき人生は 迷いであり、「真理」なき人生は暗闇であり、「生命」なき人生は虚しいのです。健や かな自由な歩みのためには3つ全てが大切です。そしてさらに大切なことは、今朝の 御言葉において主は「わたしは、道であり、真理であり、生命である」とはっきりと 語っておられることです。この「わたし」がキリストであられることが大切なのです。 私たちではなくキリストのみが「主」なのです。キリストの御名のみが私たちの「義」 (救い)なのです。この御名のほかに「道、真理、生命」はないのです。逆に言うな ら、たとえ私たちがどんなに弱く脆い存在であろうとも、私たちが唯一の「主」なる イエス・キリストに自分を明け渡しているなら、私たちは“キリストの内に”歩む者 とされているのです。キリストと共に「道、真理、生命」の内を歩む者とされている のです。  そして主は言われました「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くこと はできない」と。これは言い換えるなら、私たちがキリストの身体なる教会に結ばれ て生きるなら(キリストの愛と恵みに自分を投げかけているなら)私たちはあるがま まに「父のみもと」に「永遠の住処」(天の本籍)を持つ者とされているのです。主が 私たちのために「場所」を備えて下さっているのです。教会においてこそ私たちは「ど こに行くか」がわかっているのです。主に従う者とされているのです。  旧日本基督教会の指導者・植村正久牧師がかつて愛する令嬢の死に際し、ひとつの 英語の詩を訳しました。それを紹介して終わりとします。スコットランドの詩人S.G. ストックの「天に一人を増しぬ」という詩です。  「家には一人を減じたり、/楽しき団欒(つどい)は破れたり。/愛する顔いつもの 席に見えぬぞ悲しき。/さばれ天に一人を増しぬ、/清められ救われ全うせられしも の一人を。/家には一人を減じたり、/帰るを迎うる声一つ見えずなりぬ。/行くを 送る言一つ消えうせぬ。/分かるることの絶えてなき浜辺に、一つの霊魂は上陸せり。 /天に一人を増しぬ。/家には一人を減じたり、/門を入るにも死別の哀れに堪えず、 /内に入れば空しき席を見るも涙なり。/さばれはるか彼方に、我らの行くを待ちつ つ、天に一人を増しぬ。/家には一人を減じたり、/弱く浅ましき人情の霧立ち蔽い て、歩みも四度路に眼もくらし。/さばれみくらよりの日の輝き出でぬ、/天に一人 を増しぬ。/実(げ)に天に一人を増しぬ。/土の型にねじ込まれて、/キリストを見 る眼も暗く、/愛の冷やかなる此処、/いかで我らの家なるべき。/顔を合わせてわ が君を見奉らん、/彼所こそ家なれまた天なれ。/地には一人を減じたり、/その苦 痛、悲哀、労働を分かつべき一人を減じたり、/旅人の日毎の十字架を担うべき一人 を減じたり。/さばれ贖われしたましいの冠を戴くべきもの、/一人を天の家に増し ぬ。/天に一人を増しぬ、/曇りし日もこの一念に輝かん。/感謝讃美の題目更に加 われり、/われらの霊魂を天の故郷に引き揚ぐ鏈の環、/更に一つの輪を加えられし なり。/家には一人を増しぬ、/分かるることの断えてなき家に、/一人も失わるる ことなかるべき家に。/主イエスよ、天の家庭に君とともに坐すべき席を、/我らす べてにもあたえたまえ。