説    教    出エジプト記3章1〜6節  ヨハネ福音書14章1〜4節

「父の家に汝の住処あり」

2010・02・28(説教10091313)  今朝の御言葉は教会の葬儀のときよく読まれるものです。葬儀に出席した人たちが最も よく耳にする御言葉のひとつなのです。すなわち主イエスはこう言われました。ヨハネ伝 14章1節以下です「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じ なさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそ う言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだから。そして、行 って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。 わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。  私はこの御言葉に特別な思い出があります。それは30年近く前、私が牧師として最初 に赴任した教会で経験した最初の葬儀でのことです。それは教会員ではありませんが自殺 をなさったかたの葬儀でした。日本橋で歴史ある呉服問屋を営むかたでした。仕事の行き 詰まりで心身ともに疲れ、ある夏の日に店の2階の一室で発作的に自殺されたのでした。 遺書も残されていませんでした。  どんな牧師でも最初に経験する葬儀はたいへん緊張するものです。私の場合それは自殺 をされたかたの葬儀という意味で忘れがたいものになりました。教派によっては自殺者の 葬儀は行わないところもあります。しかし私たち改革派の教会では、いかなる死をも主な る神が愛の御手に受け止めて下さることを信じ、神の言葉にもとづく心からの葬儀を行い ます。自殺されたかたのためにも復活の生命を信じ、祝福と永遠の平安を祈ります。それ が私たち改革長老教会の葬儀の伝統です。  ともあれ、その中でひとつの場面が記憶に刻まれています。その亡くなったかたに成人 された息子さんと娘さんがいました。その2人が斎場から日本橋の自宅に戻る途中のタク シーの中で、私の後ろでこういう会話を交わされたのです。「ねえ、今日、先生が説教で語 っていらしたあの聖書の言葉、私あの言葉が好きだわ」。それに相槌を打つように息子さん も「うん、本当にそうだな。イエス様はあの言葉のとおり、親父に天国の席を備えていて 下さることを俺も信じるよ」と言われたのです。  私はその2人の会話を聞きながら、それがヨハネ伝14章1節以下の御言葉であること にすぐ気がつきました。私は自分では何ひとつ満足な慰めを遺族に語れなかったと思って いました。しかし主なる神は御言葉そのものによって、私の思いを遥かに超えた慰めと希 望を遺族の人たちに告げて下さったのです。私のような貧しい土の器をさえ用いて下さっ たのです。それは私にとって御言葉の力を改めて知らされた目の覚めるような経験でした。  そこでいま私たちは、今朝のこの御言葉をどのように聴いているでしょうか?。聖書の 言葉は全て「いま現在のこの私」に対する主なる神の語りかけであり招きです。まず主イ エスはここに「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさ い」と言われるのです。この「心を騒がせるな」とは「悩みや苦しみがあっても動揺する な」という意味ではありません。私たちはどんなに動揺しても良いのです。大切なことは、 動揺する私たちを堅く支えて下さるかたが私たちと共にいて下さるということです。私た ちの人生に降りかかるどんな悩みや苦しみや悲しみの中でも、主は私たちを最後まで守り 支えて下さるのです。だからこそ「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われている のです。  私たちは、最も肝心な時にいちばん大切なことを忘れてしまうのです。そのいちばん大 切なこととは、大きな試練や悲しみの中でこそ主は最も近く私たちと共にいて下さるとい う事実です。愛するわが子が病気になったとき、親は必死になってその病気を治そうとし ます。病気が治れば自分のこと以上に喜びます。それならば主なる神はそれ以上に、私た ちが心身ともに試練の中にあるときにこそ、私たちと片時も離れず共にいて下さるのでは ないでしょうか。  私の知るある牧師先生が、親の限界を嫌というほど知った経験を告白してくれました。 それは幼いわが子が熱を出して苦しんでいたとき、その先生は親として片時もわが子の傍 から離れず眠らずに看病しようとしたのです。しかし現実はどうしても睡魔に勝てなかっ たというのです。うとうとしたのです。そして眠っていた間はたしかに子供から目が離れ ていた。だから人間には決して神のように他者と「共にいる」ことはありえない。「イスラ エルの主なる神は眠ることもまどろむこともない」という御言葉の凄さを改めて知ったと、 そのようにその先生は私に告白されました。  実はその人間の「限界」は「死」においてこそ頂点に達するのです。死は全ての人間に 平等に訪れます。死なない人間は存在しません。しかし愛する者や自分自身の「死」とい う冷酷な現実の前で、私たちは本当に無力でしかないのです。たとえ涙が涸れるまで泣こ うとも愛する者の「死」を共に担うことはできません。死の彼方につき従うことはできな いのです。その意味で死は徹頭徹尾個人的なものです。そこに死の残酷さがあります。死 の本質は私たち人間がそこであらゆる繋がりから解かれてしまう“徹底的な分裂”という 点にあります。仏教で言う“諸行無常”の思想もそうした死の本質を見極めたものだと言 えるでしょう。  そして実は、この“徹底的な分裂”としての死の本質は、ただ肉体の死のみならず、魂 の死としての「罪」に本当の根拠を持っているのです。どういうことかと申しますと、私 たちは「罪」によって神との関係を失った結果、世界との関係をも失い分裂せざるをえな い存在になったのです。否、そんなことはない、現に私たちは社会生活をしているではな いか、人間関係を楽しんでいるではないかと言うかもしれません。しかし人間の生活や存 在の意味はそんなに単純なものではないはずです。物質的な主観的な幸福論では解決でき ないものなのです。  今からわずか10年前、人類史上における21世紀が幕を開けたとき、わが国においても また諸外国においても、人々はひとつの切なる願いを抱きました。それは20世紀は“戦 争と分裂の世紀”であった。来るべき新しい21世紀はそのような世紀にしてはならない という願いでした。新しい第3千年期(The third Millenium)においてこそ、世界に真の 自由と平和と理解と共存が生まれなくてはならない。みんながそう願っていたのです。し かしわずか10年にしてその願いと理想は分裂しつつあるのです。「去りし日々もかくの如 し、今より後もかくの如くあらん」という思いが21世紀の最初の10年にして世界を支配 しつつあるのです。  クリストファー・ドーソンというイギリスの優れた歴史家の言葉を思い起こします。敬 虔なキリスト者であったドーソンは、古代世界の終焉の時代(教父アウグスティヌスの時 代)についてこのように語っています「その時代は、世俗文明における未曾有の大実験の 失敗と社会の霊的原理への復帰を特徴とする時代であった。それは、物質的失敗と同時に 霊的回復の時代であり、破綻した秩序の残骸のただ中に人々が生命の家を永遠の基礎の上 に再建しようと、ゆっくりと苦しい努力をしていた時代であった」。  私たちのこの時代こそ、ドーソンが語るように「破綻した秩序の残骸のただ中に人々が 生命の家を永遠の基礎の上に再建しようと、ゆっくりと苦しい努力」をする必要があるの ではないでしょうか。私たちのこの時代こそ本当の意味で「生命の家」を必要としている からです。私たちはたしかに「破綻した秩序の残骸のただ中」に存在しているのです。“戦 争と分裂”はまだ私たちの世界を支配しているように見えるのです。  そこで旧約聖書を見るとき、古代イスラエルの新しい歩みは“バビロン捕囚”という「破 綻した秩序」の中から神の言葉によって立ち上がったときに生まれたことがわかります。 それは廃墟の中にまず神の宮を建設し、真の礼拝を回復したことでした。自分の家を建て るより先に礼拝の場を再建したのです。私たちの新しい第3千年紀の再建も“真の礼拝” の上にあるのです。私たちの歩みは「生命の家を永遠の基礎の上に再建しようと、ゆっく りと苦しい努力」を重ねたアウグスティヌスの時代の人々にまさって、再び来たりたもう 主に近いものなのです。  主はまさに「分裂」した時代と歴史のただ中でこそ私たち一人びとりにはっきり語って おられます「神を信じ、また、わたしを信じなさい」と。ただそこにのみ人間をして“徹 底的な分裂”から救う唯一の道があるからです。すなわち神の御子イエス・キリストにお いて真の主なる神を信じ告白し、主の教会に連なって歩むことです。教会は地上における 神の国(神の恵みの御支配)だからです。父・子・聖霊なる三位一体なる神が創造された 世界にあって、創造者なる神にのみ栄光を帰したてまつることに私たちの真の自由と幸が あるのです。御言葉を聴きつつ教会に連なって歩むとき、そこにあらゆる「分裂」がひと つの主の身体の中にひとつとされる幸いに与ることができるのです。「キリスト・イエスに おいて真の神を信じる信仰」のみが私たちをして、あらゆる「分裂」のただ中で「生命の 家を永遠の基礎の上に再建する」神の御業に仕える僕として下さるのです。  だからこそ、主は私たちにこう告げていて下さいます。2節以下です「わたしの父の家 には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。 あなたがたのために場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができた ならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたが たもおらせるためである」。  この「場所」と主は「天の国籍」のことです。永遠の神の御国(天の御国)に私たちの ため「場所」を用意するため主は「(父のもとに)行かれる」と言われるのです。それはな によりも十字架の出来事をさしています。私たちのために主が十字架に全てを献げて下さ ったことです。それは十字架の死による永遠の滅びとしての「死」さえ、葬りと陰府に降 ることをさえ、主は担って下さったのです。  永遠に聖なる罪なき慈愛と祝福の主が、私たちのために十字架の死を担われ、私たちの 身代わりとして陰府にまで降って下さったのです。その十字架の恵みによってこそ主は私 たちのために「場所」を天に備えて下さいました。「あなたがたのために場所を用意しに行 く」とはそういうことです。私たちを御国の民とするために、私たちの永遠の滅び(罪) を担われたことです。陰府にまでも降って下さったのです。陰府とは神の恵みが届かない はずの場所でした。そこにさえ降って下さった主はまさに救いのありえない場所にまで「永 遠の生命」を与えて下さったのです。  パウロはピリピ書3章20節に「わたしたちの国籍は天にある」と語りました。ルター はこの「国籍」を「本籍」と訳しました。私たちの「本籍」は天にあるのです。それは「死」 によっても滅ぼされない「永遠の生命」をキリストの内に持つことです。キリストが私た ちの「永遠の生命」そのものとなって下さったのです。“徹底的な分裂”であった「死」に キリストは勝利して下さり、私たちは主の御身体なる教会によってキリストの生命に覆わ れているのです。教会に連なることはキリストの生命にあずかることです。  ただキリストによってのみ、私たちは揺るがぬ「本籍」を持つのです。天に碇を繋いだ 者、キリストの愛と主権に結ばれた者とされるのです。ここにあらゆる分裂は終りを告げ、 真の自由と平和、理解と信頼と一致が造られてゆきます。主は「わたしのおる所にあなた がたもおらせるためである」と言われました。いま日々のあらゆる試練の中にあって私た ちは「主が共におられる場所」に生きのです。主が共におられる場所こそ私たちの変らぬ 「本籍」なのです。そこに私たちは「生命の家を永遠の基礎の上に再建」するのです。  すでに私たちは主が贖い取って下さった「永遠の家」に結ばれています。それこそ主の 教会であり、ここに私たちは「永遠の生命の家」を持つのです。ここに連なる喜びは「キ リストの生命の共同体にあずかる喜び」です。存在の深みまでも癒され新たにされるので す。だから主ははっきりと告げて下さいます。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神 を信じ、またわたしを信じなさい」。