説    教    箴言1章32〜33節  ヨハネ福音書13章36〜38節

「鶏が鳴く前に」

2010・02・21(説教10081312)  今朝の御言葉・ヨハネ福音書の13章36節にこう記されていました「シモン・ペテロがイ エスに言った、『主よ、どこへおいでになるのですか』。イエスは答えられた、『あなたはわた しの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来 ることになろう』」。  「主よ、どこへおいでになるのですか」。この問いはペテロだけのものではなかったはずで す。他の弟子たちもみな主イエスが「どこへ」行こうとしておられるのか大きな不安を感じ ていたのです。それは直前に主イエスが弟子たちに(13章33節で)「あなたがたはわたしの 行く所に来ることはできない」と言われたからです。  主イエスのためなら“たとえ火の中水の中”とも覚悟を決めていた弟子たちでした。ただ でさえパリサイ人らによる主イエス殺害計画が実行されようとしていました。弟子たちの中 からも「イスカリオテのユダ」による裏切りが起こりました。最後の晩餐の席は弟子たちの 異様な興奮に包まれていたのです。  そのような不穏な激動の渦中にあった弟子たちにとって、主イエスに最後までお従いして、 ともに死んでも構わないという決意が自然に生れたとしても、それは不思議ではないのです。 事実シモン・ペテロはその覚悟が定まったればこそ敢えて主イエスに訊ねたのです「主よ、 どこへおいでになるのですか」と。あなたが行かれる所になら私はどこにでも従いますと申 し上げたのです。 しかし、主イエスの返事は意外なものでした。主はペテロにこのように言われたのです「あ なたは、わたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってか ら、ついて来ることになろう」。  この主イエスのご返事に、弟子たちはみな色めき立ちました。「なぜ今は駄目なのか?」と 弟子たちの誰もが不思議に思ったのです。自分たちのこの真剣な思いがどうして主イエスに 伝わらないのかと怪しんだのです。ペテロはそうした弟子たちの憤慨を代弁するかのように 気色ばみます。今朝の37節です「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないので すか。あなたのためには、命も捨てます」。  他の福音書を見ますと、このとき他の弟子たちもみな「同じように語った」と記されてい ます。それはあたかも忠臣蔵の一場面のような光景でした。主君の無念を果たさんとする赤 穂浪士たちの悲憤慷慨を大石内蔵助に水を注されたような体であったのです。兄弟子のペテ ロが殉教の覚悟をしていると知った弟子たちは、みなわれもわれもと主イエスに対して「自 分たちは死ぬ覚悟でおります」と表明したのです。異様な熱気と興奮が弟子たちを支配して いたのです。  まさにその熱気と興奮に水を注すかのように、主イエスは静かに決然とお答えになるので す。「わたしのために命を捨てると言うのか。よく、よく、あなたに言っておく。鶏が鳴く前 に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。弟子たちはこのとき主イエスから「わ がために命を捨つると申すか。まことに汝らこそわが真の弟子である」というお誉めの言葉 を期待していたのです。  ところが主イエスは、愛する弟子たちにはっきりと告げたまいます「よく、よく、あなた に言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。これはペテ ロだけではなく全ての弟子たちに、そして私たち一人びとりに仰せになったことなのです。 「鶏が鳴く前に」とは、「夜が明ける前に」という意味です。つまり「その日のうちに」とい うことです。「あなたのためには命も捨てます」と語ったその舌の根も乾かぬうちに「あなた は、わたしを三度、知らないと言うであろう」と主イエスは私たちに言われるのです。  この主イエスの御言葉は現実のものとなりました。まさにこの御言葉のとおりに、ペテロ は主イエスの十字架が決定された大祭司カヤパの家の中庭で、夜明けを告げる鶏が鳴く前に 主イエスのことを3度「知らない」と言い、さらには「私はあの十字架にかけられる犯罪人 とは何の関係もない」と神に誓いさえしたのでした。主イエスとの「関わり」を全面否定し たのです。自分は主イエスの弟子ではないと言ったのです。そしてペテロが三度目に主イエ スを「知らない」と申したその直後に「鶏が鳴いた」と、同じヨハネ伝の18章27節に記さ れているのです。  これはどういうことだったのでしょうか。忠臣蔵でも主君の仇討ちの志を最後まで曲げず、 吉良上野介の首級を挙げたのは四十七士(47人)のみでした。そういうことなのでしょうか。 そうではありません。だいいち主イエスの弟子たちはユダやペテロも含めて全員が主イエス を裏切って逃げ去ってしまったのです。また弟子たちが主イエスを裏切ったのは、ただ命が 惜しいという表面的なことではなく、もっと大きな理由があったのです。  もとより弟子たちは、主イエスのためなら生命も捨てる決意でいました。その決意は本物 でした。だからこそ主イエスに「今は(あなたがたは私に)ついて来ることはできない」と 言われて憤慨したのです。「自分たちのこの決意をどうして主は認めて下さらないのか」と悲 しんだのです。私たちにもその気持ちは理解できます。相手のために心から「良かれ」と思 ってしたことを冷たくあしらわれたら私たちだって憤慨するにちがいないのです。せめて一 言ねぎらいの言葉をかけてくれたって良さそうなものだと弟子たちは思ったのです。ところ が主イエスは弟子たちをねぎらわれるどころか「鶏が鳴く前に、あなた(がた)はわたしを 三度知らないと言うであろう」と言われたのです。これではまるで取り付く島がないのです。  そこで改めて私たちは、なぜ弟子たちは主イエスを裏切ったのかという問いに戻るのです。 命を捨てる覚悟でさえいたのに、十字架を目前にして逃げてしまったのはなぜなのでしょう か。理由は簡単です。主イエスが十字架の刑を受けることになったからです。旧約聖書・申 命記21章に「木にかけられた者は神に呪われた者である」という言葉があります。この「木」 とは十字架のことです。つまり十字架は古代イスラエルにおいて、神に見棄てられた(全く 救いの余地のない)最低最悪の罪人が受けるべき絶対的な処刑の方法でした。当時の人々は 思っていました。神は慈しみ深いかたであるからどんな罪人をも憐れんで下さる。しかし十 字架にかけられた者だけは例外である。十字架にかけられた者には絶対に救いの余地はない。 当時の人々は堅くそのように考えていたのです。  言い換えるなら、十字架の刑は「呪われた罪人の永遠の死」を意味したのです。弟子たち は主イエスと寝食を共にし、御言葉に日々あずかり、主イエスが「神の子・キリスト」であ られると信じていました。イスラエルを救う者はこのかたをおいて他にはないと信じていま した。しかし弟子たちが「神の子」と信ずるそのイエスはポンテオ・ピラトのもとで不当な 裁判にかけられ、大祭司カヤパによって十字架の判決を下され、ついにゴルゴタの処刑場で 十字架に釘付けられることになった…。弟子たちにとって全く予想外の出来事でした。  それは弟子たちにとって「神の子・キリスト」と「十字架」ほど矛盾するものはなかった からです。永遠に聖にして義なる神の御子が、どうして「呪われた罪人の永遠の死」である 十字架を担われることがありえようか。弟子たちは、否、全ての人々がそう思いました。主 イエスが十字架にかけられたことは、すなわち主イエスが「神の子・キリスト」ではないこ との明確な証拠だと思われたのです。だからこそペテロは主イエスの御名を3度も拒んだの です。神に誓って「あのような罪人と自分とは何の関係もない」と言い張ったのです。  他の弟子たちも同じでした。弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ去ったのは、死への恐怖 からというよりも、主イエスが「神の子・キリスト」(救い主)ではないと判断したからです。 信仰が揺らいだからです。弟子たちにとって主イエスはイスラエルの「王」として君臨すべ きかたでした。しかし事実は追うに即位するどころか「呪われた罪人の永遠の死」である十 字架の刑であった…。この「ありえないこと」が現実になったとき、弟子たちの信仰は揺ら いだのです。死ぬのが怖かったのではなく、主イエスへの信仰が揺らいだのです。  いま、そこでこそ私たちが問われています。私たちはそれほどの事柄として主イエスの十 字架を見つめていたでしょうか。私たちの「信仰」が問われるほどの出来事としてゴルゴタ の十字架の出来事を見つめている私たちであったでしょうか?。もしそうでないなら、私た ちもまた今朝の弟子たちと同じです。「鶏が鳴く前に(主イエスを)三度知らないと言う」者 なのです。たとえ私たちの決心がどんなに堅くても、そのようなものは何の頼みにもなりま せん。大切なものは信仰のみです。主イエスを「神の子・キリスト」と信じて教会に連なる 信仰のみが、私たちに新しい生命の祝福と真の自由を与えるのです。  使徒パウロはコリントの教会に対して、自分は「十字架にかけられたまいしキリスト」以 外は決して宣べ伝えないと「堅く心に定めた」と語りました。十字架のキリストの福音では ない「異なる教え」がコリントの教会に蔓延していたからです。私たちもまた信仰ではなく 経験を重んじ、キリストではなく自分を頼みとし、御言葉ではなく決心の確かさを求めるこ とはないでしょうか。私たちの信仰生活はアクセサリーになってはならないのです。そうで はなく、私たちは本当に「十字架のキリストの福音」にのみ堅く立つ群れであり続けねばな りません。十字架やキリストに「ついて」の知識ではなく、この私のため、そして全世界の 救いのために十字架にかかりたまいしキリストにのみ、全ての人の救いと平和があることを 私たちは信じるのです。そしてただキリストの招きの御声に従う者になることです。生命を 与える御言葉によって生きる者になることです。聖霊と神の真実による真の礼拝者となるこ とです。キリスト中心の信仰生活をすることです。いまの私たちが問われているのです。 主は言われました「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。し かし、あとになってから、ついて来ることになろう」と…。この主の御約束は弟子たち全て に実現しました。主の御名を3度も拒んだペテロも、夜明けを告げる鶏の声によって眠れる 魂を揺り起こされたのです。ルカ福音書を見るとそのときペテロは「きょう鶏が鳴く前に、 あなたはわたしを三度、知らないと言うであろう」と言われた主イエスの御言葉を思い起こ し、そして「外に出て、激しく泣いた」と記されているのです。 つまり、このときペテロは「主イエスの御言葉を思い起こし」て泣いたのです。ペテロに とって新しい生命は「主イエスの御言葉を思い起こす」ことによって起こりました。それは 私たちにも同じではないでしょうか。「主イエスの御言葉を想い起こす」こと以上の真の悔改 めはありえないからです。ペテロの魂は粉々に砕けました。主イエスのためなら死をも恐れ ないと断言した傲慢で頑なな心は十字架の前に砕け去りました。強く見える人が実は脆いの です。ペテロは知りました。他の全ての弟子たちも知りました。私たちもここに告白します。 それはまことに主は「呪われた罪人の永遠の死」である十字架を、私たちの身代わりとして 担って下さったことです。十字架は「躓きの石」です。しかしその「躓きの石」こそが教会 の唯一の「隅のかしら石」となるのです。 ペテロをはじめ弟子たちは、自分の強さや知識ではなく、キリストの限りない愛と恵みの 力によって生きる者になりました。「神の子・キリスト」と矛盾するはずの十字架を、しかも 「神の子・キリスト」が担って下さったことを知ったとき、そこに弟子たちは全世界の罪の 唯一の贖いと救いを見いだしたのです。「神の子・キリスト」みずから私たちのために十字架 を担って下さったのです。そこにのみ私たちの真実の永遠の救いがあるのです。十字架のキ リストの福音にのみ、全ての人間のまことの自由と幸い、平和と喜び、救いと解放があるの です。 ドイツの多くのプロテスタント教会の屋根の上には、なぜか十字架ではなく風見鶏が掲げ られています。それはまさに今朝の御言葉に基づいているのです。キリストの十字架と復活 の福音が全世界の夜明けとして宣べ伝えられていることの象徴です。ここに全ての人に告げ られた救いの出来事があることを示しているのです。私たちの魂はペテロの魂のように砕か れます。まさに十字架のキリストへと向かって…。十字架のキリストの愛と恵みへと砕かれ るのです。そしてペテロがそうであったように、私たちもまたここに、まさに砕かれた魂(主 に献げた生涯)を通して全世界の人々に「ここに全ての人の救いと自由の出来事がある」と 宣べ伝える群れとされているのです。ペテロという名は「岩」という意味ですが、その「岩」 とは十字架のキリストなのです。そして主は約束して下さいます「われはこの岩の上にわが 教会を建てん」と。私たちもまたこの「千歳の岩」なるキリストの主権のもとに連ならしめ られているのです。