説    教    レビ記19章17〜18節 ヨハネ福音書13章33〜35節

「愛の誡命(いましめ)」

2010・02・14(説教10071311)  十字架を目前にされた主イエスは、愛する弟子たちに「わたしは、新しいいましめをあ なたがたに与える」と言われました。私たち主の弟子たちが守るべき最も大切な誡命とし て“互いに愛し合うべきこと”をお教えになったのです。それが今朝の御言葉であるヨハ ネ伝13章の34節以下です。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛 し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての 者が認めるであろう」。  そこで、いま仮にこの“新しいいましめ”を言い換えて「みんな仲良く助け合いなさい」 という“勧め”(人生訓)に変えてみたら、私たちの反応はどうでしょうか。そのほうがい っそ「わかりやすい」と感じられるのではないでしょうか。私たちは日ごろヨハネ伝のこ の御言葉を、実は道徳の教えとして聞いているのではないでしょうか。「互に愛し合いなさ い」とは私たちにとって、キリストを信じていてもいなくても「みんな仲良く助け合いな さい」という当然の誡命だと思うのではないでしょうか。  言い換えるなら、私たちは別にこの誡命が主イエスのものでなくても納得してしまうの です。マホメットの教えであっても、釈迦や孔子やソクラテスの教えであっても良い。町 内会の標語だって良い。主イエス以外の誰から聞いても、私たちはこれを素直に受け取っ てしまえるのです。つまり私たちは「十字架の主」を抜きにして自分の力だけで「愛の誡 命」を聞き、これを実行できると思う者なのです。「そうだ、その通りだ」。「互に愛し合う こと、それが人間にとっていちばん大切なことだ」。そのようにして私たちは思うのです「ど うしてそれが『新しい誡命』なのだろうか?」と。  しかし、本当にそうなのでしょうか。本当に私たちは、そんなに素直にこの誡命を聴き うる存在なのでしょうか。キリスト教以外にも「愛の誡命」を語る宗教はたくさんありま す。仏教は「慈悲」という言葉で、イスラム教は「施し」という言葉で、神道は「おかげ さま」という言葉で“互いに愛し合うべきこと”を勧めています。その意味ではたしかに これは「古い誡命」です。手垢がついているのです。譬えて言うなら、新しい家に引っ越 して来て最初は新鮮であったものが、月日とともに次第に新鮮味が薄らいで感動が無くな るのと同じようなものです。私たちは「愛の誡命」についても、それを特に「新しいこと」 とは感じられなくなっているのではないでしょうか。  しかし実は、まさに私たちが「愛の誡命」について「新しさ」を感じなくなっていると いう意味において、その誡命はいつも私たちにとって「新しい誡命」であり続けているの です。事実ヨハネの第一の手紙2章7節以下には、愛は「古くて、同時に新しい誡命」で あると告げられています。なぜ私たちにとって「愛の誡命」は「古くて、同時に新しい誡 命」なのでしょうか?。その答えはただ一つです。それは私たちが本当の「愛」を実践し ていないからです。言葉だけで、実際に愛することを行ないえていないからです。  私たちは愛の尊さを知り、それに素直に感動し、ときに自ら語りもするけれども、その 愛に本当に生きているかと問われれば口籠るほかはないのです。むしろ私たちには自己中 心の思いがいつも巣くっているのです。“互に愛し合うこと”とは正反対の、利己的で排 他的な自分というものがあり続けているのです。その意味でまさに愛は「古くて、同時に 新しい誡命」であり続けます。その誡命についている手垢は私たち自身のものではないの です。私たちは「愛の誡命」に手垢がつくほど励んではいないのです。私たちは「愛の誡 命」を今ここに「新しい誡命」として聴くべき存在なのです。しかしいちばん大切なこと は、この誡命を主イエス・キリストが語っておられるということです。  そもそもなぜ主イエスは「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える」と言われた のでしょうか?。主が言われる「新しさ」とはいかなる新しさなのでしょうか。それはす ぐ後の34節に確かな答えがあるのです。それは主が私たちに「わたしがあなたがたを愛 したように」とお告げになられたことです。つまりこの「愛の誡命」は、主イエスが私た ちを「あなたがたは何と愛の乏しい醜い人間なのか」と非難しておられる誡命なのではな いのです。そうではなく、主はまずここに「わたしがあなたがたを愛したように」と語っ ておられるのです。「主イエスの愛」がまず先に注がれているのです。「主イエスの愛」が まず私たちを生かしているのです。それが何よりも大切なことです。  言い換えるなら、主はここにこのように教えておられるのです「まず私があなたがたを 愛した、その私の愛に根ざして生きるとき、あなたがたも互いに愛し合うことができるの だ」と。また、こうも言えるでしょう「まず私があなたがたを愛した。その私の愛にあな たがたが連なるとき、あなたがたも互いに愛し合う生活をすることができるのだ」。  私は神学校を卒業したての頃、わずか数年間ですが教会付属幼稚園の園長をしたことが あります。たぶん日本でいちばん若い頼りない新米園長でした。そのころ東洋英和幼稚園 の園長をされていた荒牧富士子さんから、東京都の私立幼稚園園長会でよく声をかけて戴 き、色々と教えられ励まして戴いたのも忘れられない思い出です。最初の頃の私は嫌々な がら園長をしていました。しかし時が経つにつれて、幼児教育というものは大変なことだ、 生半可な気持ではできないと認識を新たにしました。元来が凝り性ですから、幼児教育に ついても学びはじめると中途半端では気がすまなくなり、内外の文献を取り寄せて一所懸 命に学びました。また可能なかぎりの時間を園児たちと共に過ごすように心がけました。  そうした日々の中で、改めて心に深く刻まれたことがあります。キリストの福音に立つ 幼児教育を受けた園児たちは、そこで生涯変ることのない「キリストの愛」という人生最 大の支えと力を持つのです。あるとき園児たちが「イエスさまの絵」を描いたことがあり ます。私が驚いたのはどの園児も、圧倒されるほど素晴らしい明るい楽しい絵を描いたこ とです。それこそこの世界でいちばん美しく、力強く、明るく楽しい、素晴らしいキリス トの姿(キリストの愛)を色とりどりに園児たちは描いたのです。園児たちの心に刻まれ たそのキリストの愛の素晴らしさ、確かさ、美しさは、その子の生涯にわたって決して失 われることはないのです。日曜学校の生徒についても全く同じことが言えます。いますぐ に現れることはなくても、大人になってからもバッハの通奏低音のように、その人の心に 描かれたキリストの愛の確かさはいっそう輝きをますのではないでしょうか。  今朝のこの御言葉は、イスカリオテのユダの裏切りという、私たちの大きな罪のただ中 で主がお語りになったことです。それならば主イエス・キリストは、なんの価もない私た ちをその価なきままに限りなく愛し受け容れて下さったかたなのです。キリストの愛は、 ご自分を裏切り十字架にかける私たちをさえ、そのあるがままに愛し抜いてご自分を献げ て下さった愛なのです。その愛をただキリストの教会のみが人々に宣べ伝えうるのです。  自分にとって好ましいもの、価値あるもの、当然に愛すべき者を愛する愛ならば、私た ちにも自然に備わっています。それこそあらゆる宗教が、哲学が、人生訓がそのような愛 を私たちに語っています。「朋友相親しむべし」その意味では「互に愛し合う」ことだって そんなに難しいことではない。しかしその私たちの愛はキリストの愛に根ざしているでし ょうか?。むしろ私たちの愛は“自己愛”の裏返りに過ぎないのではないか。有島武夫の 小説に「惜しみなく愛は奪う」という作品がありますが、それこそ私たちの愛は、価値あ るものを自己の所有となさんがための手段と言ってよいのです。その証拠には、相手に愛 する価値が無くなったとき、愛もまた冷めるのです。人間関係の悲劇のほとんどが、その ような不確かな愛に由来していると申して過言ではありません。私たちの愛には限界があ るのです。自分にとって愛する価値のあるものをしか愛せないのです。愛する価値のない もの、無価値なものを、私たちは愛の対象とすることはできないのです。  しかし、キリストの愛は、そのようなものではありません。神の愛には限界というもの がないのです。愛する価値があるから愛する条件つきの愛ではなく、自然に愛されるべき 価値がなにひとつ無くても、私たちをそのあるがままに極みまでも愛して下さる愛がキリ ストの愛なのです。それは見返りを全く求めない無償の愛です。そして三位一体なる神ご 自身の聖なる交わりの中に永遠の根拠を持つ不変の愛なのです。キリストはその愛をもっ てご自分を十字架にかけた人々のために赦しと祝福を祈り、その救いのために御自分の生 命を献げて下さったのです。  そのような神の愛、キリストの聖なる愛を、新約聖書は“アガペー”という言葉を用い て現わしました。それは価値を求め奪う愛(エロース)に対して、価値を与え生み出す愛 です。エロースが「求める愛」ならば、アガペーは「与える愛」です。キリストの愛(ア ガペー)は価値を奪う愛ではなく、愛することによって私たちにかけがえのない価値を与 える愛なのです。エロースは“価値追求的な愛”であり、アガペーは“価値創造的な愛” です。自分を生かすために他者の価値を求めるのではなく、むしろ価値なき者をそのある がままに愛し、その者のために自分を与え、限りない価値を与える愛こそが「キリストの 愛」(アガペー)なのです。  そして、その“価値なき者”こそ誰あろう、私たち自身のことではないでしょうか。私 たちは神の前に立ちえざる者です。私たちは神の前に「罪」というマイナスの価値しか持 ちえぬものです。そのような私たちのために、御子イエス・キリストは十字架にかかって 死んで下さいました。そのことをヨハネはヨハネ第一の手紙4章7節以下にこのように語 っています。「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出 たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さ ない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によって わたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明 らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下 さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。 ここに愛がある」。  ヨハネは明確に「ここに愛がある」と宣言します。私たちが未だかつて想像さえしえな かったまことの愛が、十字架のキリストによって今や溢れるばかりに私たちに与えられて いるからです。そして、だからこそヨハネは続いて、このように勧めるのです「愛する者 たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛 し合うべきである」と…。  そこで私たちは今朝のヨハネ伝の御言葉に改めて立ち帰るのです。まずキリストの愛が、 あの十字架によって、私たちに極みまでも豊かに注がれているのです。だからこそ主イエ スは「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのです。それは、そのキリストの 愛に私たちが教会に連なることによっていつも連なっているならば、ということです。私 たちがキリストの御身体なる教会の交わり(聖徒の交わり)に生きるとき、私たちもまた 真実に「互に愛し合う」生活を造り出す者とされてゆくのです。それはキリストに贖われ た者の新しい生活です。自分の力によってではなくキリストの恵みの力によって歩む生活 です。どんなに私たちが弱い時にも、その弱さの中にこそ主が働いて下さることを信ずる 歩みです。  コールリッジというイギリスの詩人が「老水夫行」(Ancient Mariner)という詩の中でこ う歌っています「最もよく愛する者、そは最もよく祈る人なり」(He prayth best, who Loveth best)。この「祈る人」こそ、キリストの愛に生かされ、教会の「聖徒の交わり」 に生き、キリストの恵みに支えられたキリスト者の歩みなのです。キリストの愛に生かさ れてのみ、キリストの愛に根ざしてのみ、はじめて私たちは「最もよく祈る人」すなわち 「最もよく愛する者」たりうるのです。それは少しも私たちの力ではありません。たとえ 私たちが愛することにどんなに無力な僕にすぎなくても、キリストの十字架の愛に根ざし て生きるとき、キリストに贖われた者として生きるとき、その無力な私たちの無力さこそ、 キリストの愛の働きたもう場所とされるのです。そこに「互に愛し合う」生活が造り出さ れてゆくのです。そして主は約束して下さるのです。「互に愛し合うならば、それによって、 あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」と。