説    教   ダニエル書7章13〜14節 ヨハネ福音書13章31〜32節

「人の子の栄光」

2010・02・07(説教10061310)  今朝の御言葉に心をこめて聴いて参りましょう。ヨハネによる福音書13章31節32 節です「さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、『今や人の子は栄光を受けた。神も また彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご 自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう』」。ここに「彼 が出て行くと」とあるのは「イスカリオテのユダ」のことです。主イエスの御手から「一 きれの食物」つまり“祝福の生命のパン”を戴いたユダは、主イエスからこう言われた のです「汝のなさんとする事を今すぐなすべし」(「しようとしていることを、すぐにし なさい」)と。  これは、主を裏切ろうとしているユダを突き放した言葉などではないのです。そうで はなく、主イエスはユダに対して「あなたは私を裏切ろうとするのか。それなら、それ でも良い」と言われたのです。「ためらわなくても良い。あなたがしようとしている事を、 今すぐにしなさい。私はそんなあなたのために、そして全ての人々の罪の贖いのために、 十字架にかかるために世に来たのだから」と言われたのです。  主イエスは、罪をおかす私たちを突き放し、お見棄てになるようなかたではありませ ん。むしろ私たちの罪も咎もあるがままに、私たちを愛し受け入れ、その私たちの救い のために、黙って十字架への道を歩んで下さるかたなのです。まさにその主イエスが今 朝、私たち一人びとりに語っていて下さるのです。イスカリオテのユダの「罪」それは 他の弟子たちも同じでした。ペテロなどは一度ならず三度も主の御名を拒んだのです。 他の弟子たちも全て十字架を目前にして主イエスを見棄てて逃げてしまったのです。  しかし主イエスは、私たちを決してお見棄てにはなりません。罪の極みのような私た ちの存在をことごとく受け止め、担いたもうて、御自分の全てを献げて私たちの罪の贖 いとなって下さいました。その主イエスが、いま私たち一人びとりに語っておいでにな ります「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光を受けるであろう」と…。  これは、どういう意味なのでしょうか。ここに「人の子」とあるのは主イエスご自身 のことです。それは第一に、主イエスは永遠の神の御子でありながら、人の子として世 にお生まれになったかたであることを意味します。第二に、この「人の子」とは旧約聖 書のダニエル書に出てくる「人の子」のことを現わしています。それは今朝あわせて拝 読したダニエル書7章13節14節の御言葉です。「見よ、人の子のような者が、天の雲 に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と 国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であっ て、なくなることがなく、その国は滅びることがない」。  私たちは普通「栄光」と聴きますと、それは自分の力や利益が増し加えられること、 栄誉や賞賛を受けることだと考えます。しかし主イエスが言われる「栄光」とはそのよ うなものではありません。ヨハネ伝が語る「(主イエスの)栄光」とは、実はなによりも 主イエスの「十字架」のことをさしているのです。主イエスはご自分が私たちの身代わ りとして十字架に死なれること、罪人の一人に数えられること、ご自分の生命を献げた もうことを、ご自分の「栄光」であるとお呼びになるのです。  それはなぜでしょうか?。「十字架の死」は呪われた罪人の受ける究極の審きであった はずです。十字架とは“そこに架けられる者には全く救いはない”という宣言であり徴 でした。それならば主イエスは「イスカリオテのユダ」をも含めて、私たちの測り知れ ない罪の贖いのため(私たちの救いのため)におんみずから“全く救いはない”所に来 て下さったかたなのです。譬えて言うなら、古井戸に落ちてしまった人を救うために、 みずからがその井戸の底にまで降りて来て下さり、ご自分を踏台にさせてその人を井戸 の底から救い、そして自分は井戸の底で死んで下さったのです。主イエスは「罪」の極 みにある私たちを救うために「十字架」というどん底で生命を献げて下さったのです。  主イエスはまさにその“どん底における贖いの死”を「わたしの栄光」とお呼びにな るのです。自分が利益や賞賛や栄誉を受けることではなく、その正反対に、ご自分の生 命と存在の全てを献げて私たちの贖いとなることを、ご自分の「栄光」とお呼びになる。 まさに“救いのありえない”状況にある私たち、しかもそのことを意識すらせず、自分 には「罪など無い」と言い張る私たちの贖いのために、神の御子みずからその“救いの ありえない”所に降りて来て下さったのです。ある神学者はこのキリストのお姿を“低 きに上りたもう主”のお姿であると語りました。それこそ主イエス・キリストの御姿な のです。  すると私たちはここに、はっきりと一つのことを知らされているのではないでしょう か。それは主イエスの十字架すなわち「栄光」とは、私たちの“限りない救い”そのも のにほかならないということです。私たちは今朝も使徒信条を歌いました。そこに「主 は、十字架にかかり、死にて葬られ、陰府に降り」と告白されています。十字架とは神 みずからが「死にて葬られ、陰府に降り」たもうた出来事です。仰ぎ見る栄誉の高みに ではなく、測り知れないどん底の深みに、神のまことの「栄光」は現われたのです。  そのことを旧約の預言者ダニエルも7章13節以下に預言しているのです。「その主権 こそ永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない」と。私た ち人間は、自分を滅ぼさないために他者を滅ぼそうとする存在です。自分の国を繁栄さ せるために平気で他国を蹂躙する存在です。自分の利益のためには他人の不利益を省み ない存在です。しかしその結果は罪の堂々巡りでしかありえません。罪が罪を生み出し、 審きが審きを生じるのみなのです。言い換えるなら、私たちの罪が建てようとする「主 権」は滅びるしかないのです。しかし主イエスの「栄光」はそのようなものではない。 主イエスは私たちを救うためにご自分を滅ぼし、私たちの罪を贖うためにご自分の生命 を献げ、私たちの「益」のために全ての審きを引き受けて下さったかたなのです。その 「主権こそ永遠の主権、なくなることなく、その国は滅びることがない」のです。  さらに主イエスは、今朝のヨハネ伝の続き32節にこのようにお語りになりました。 「彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろ う。すぐにもお授けになるであろう」。これは、先ほどの「栄光」とは別の「栄光」なの でしょうか?。たしかにこの32節で主が言われる「栄光」とは、先の31節の「栄光」 とは違って「復活」を意味しています。しかしこのこととても大切なのですが、十字架 と復活とは別のものではありません。主イエスの復活は十字架の上に成り立っており、 十字架は復活によって完成するものなのです。  主イエスの十字架の死は、いわゆる仮死状態ではなく、本当の死でありました。つま り十字架の死は擬似的な死の装いなどではなく、完全な死そのものであったのです。だ から主イエスは十字架におかかりになるとき「すぐに甦るのだから、いまは死んでもか まわない」と考えて死なれたのではないのです。そうではなく、主イエスの十字架の死 はまことの死であった。それどころか主イエスの死こそ、未だかつて人類が経験したこ とのない“永遠の滅びとしての罪人の死”そのものでした。来るべき終末の日における 最後の永遠の滅びとしての罪人の死を、すなわち私たちが受けるべき最終永遠の死を、 主イエスは身代わりに死んで下さったのです。  中世ヨーロッパの修道院の入口に、よく「メメント・モリ」(Memento mori)という ラテン語が刻まれています。「汝の死を覚えよ」という意味です。それは人間が奢り高ぶ ることなく正しく生きるようにとの戒めの文句なのでしょうか?。そうではありません。 「汝の死を覚えよ」とは主イエス・キリストが十字架において死んで下さった、あの最 終永遠の死を「覚えなさい」(信じなさい)ということです。その「キリストの死」をあ なたの心に刻み、忘れることのない者になりなさいということです。ですから「汝の死 を覚えよ」とは、実は「汝のために十字架に死なれた、汝の救い主イエス・キリストの 死を覚えよ」という意味なのです。十字架のキリストを信じ仰ぎなさいという言葉なの です。  それは、そこにこそ私たちの滅びを「救い」に変えて下さったかたが立っておられる からです。私たちの最終永遠の死を祝福の永遠の生命に変えて下さったかたが私たちと 共におられるのです。パウロの言う「死は生命に呑まれてしまった」驚くべき救いの出 来事がそこにあるのです。まさにそのかたの十字架の死をこそ、私たちは深く心に刻み 覚えねばなりせん。そこに私たちの全ての者の罪が贖われたからです。滅びの子でしか ありえない私たちに永遠の生命(三位一体なる神との永遠の交わり)が与えられたので す。その交わりの確かなしるしこそ、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会です。  ですから、私たちは今朝はっきりと覚えたいのです。キリストの十字架の死と復活と は一つの出来事である。その一つの出来事という意味は、私たちの救いのための限りな い恵みの御業であるということ。主イエスは“死の装い”を死なれたのではなく、まこ との死(究極の死)を死なれたかただということ。それほどの確かな死を私たちのため に死んで下さったのだということ。それを主イエスは「栄光」と呼んで下さった。ご自 分が永遠の滅びに降られることを「わたしの栄光」と呼んで下さったのです。その主イ エスを父なる神は甦らせたまいました。キリストは私たちのために罪と死に勝利された のです。それこそ今朝の32節に言う「栄光」なのです。すなわち「彼(キリスト)に よって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう」と あることです。  ある女性の詩人がいました。5歳のとき失明したかたです。この女性は5歳のときの 失明の体験を「朝がなくなった悲しみ」であると書いています。自分には朝がなくなっ た。朝日の輝きも、美しい外の景色も、家族の顔も、なにも見えない。その悲しみは譬 えようがなかったと言うのです。まだ5歳にして彼女ははっきりと死を意識するのです。 死んだほうがましだと思うのです。しかしある日の朝、決定的な経験が訪れます。それ は朝、枕もとに来て鳴く一羽のスズメの声であったというのです。  一羽のスズメが、「朝が来たよ」と、目の見えない自分にも教えてくれる。朝の喜びが そこにある。その発見が彼女を変えました。それは5歳の少女が、この世界を世界たら しめている永遠なる神の愛に目覚めた瞬間でした。一羽のスズメを通してさえ“あなた はかけがえのない存在なのだ”と告げていて下さる神がおられるということ。それなら ばなおのこと、主イエスの十字架の死と復活の恵みを戴いている私たちは何と言うべき でしょうか。  神の御子がこの私の罪のために死なれ、この私の永遠の生命の初穂として甦られた、 その神の世界に私たちは存在しているのです。これより確かな愛の徴はないのです。こ れより確実な祝福の生命はないのです。天地の創造主なる神こそまことの贖い主であら れ、救い主であられ、生命の与え主であられる。これより大きな幸いと自由はないので す。私たちはこの「人の子の栄光」の恵みに日々生きる者とされています。その恵みに おいて立ち上がり、慰めと平安と勇気をもって歩む者とされているのです。それこそ私 たちに与えられた、そして全ての人々が招かれている、イエス・キリストの恵み「人の 子の栄光」なのです。