説    教   箴言19章21節   ヨハネ福音書13章21〜30節

「ユダとは誰か」

2010・01・31(説教10151309)  私たちキリスト者は日々聖書の御言葉によって生きる者ですが、その私たちにとっ て常に最大の疑問であるのは、イスカリオテのユダのことではないでしょうか。  ルネサンスを代表する画家レオナルド・ダ・ヴィンチの絵に「最後の晩餐」と呼ば れる修道院の壁画があります。主イエス・キリストを中心に左右に6人ずつ、十二弟 子たちが食卓に着いています。よく見ると、その十二人の弟子たちは3人ずつ4つの グループに描かれています。そして、それぞれのグループは互いに顔を見合わせ、驚 き、戸惑いながら何かを語り合っています。ただお一人主イエスだけがその語り合い の枠の外におられます。それはまさに今朝、私たちに与えられたヨハネ伝13章21節 以下の場面を描いたものなのです。  すなわち「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われ た、『よく、よく、あなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを 裏切ろうとしている』。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見 合わせた」。  「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と主イエスは「お ごそかに」言わたのでした。「その心が騒ぎ」とは「その心に限りない悲しみをもって」 という意味の言葉です。主は限りない悲しみの御心をもって「あなたがたのうちのひ とりが、わたしを裏切ろうとしている」と言われたのです。まさにその瞬間、ダ・ヴ ィンチが描いた光景が現れたのでした。そこでダ・ヴィンチはこの「最後の晩餐」の 絵の前に立つ人に一つの問いを投げかけているのです。それは「もしかしたらあなた こそ、イスカリオテのユダなのかもしれない」という問いです。  今朝の御言葉と同じ場面を他の福音書記者たち、特にマタイは「主よ、まさか、わ たしではないでしょう」という弟子たちの驚きの声と一緒に記しています。主イエス がイスカリオテのユダの裏切りをお告げになったとき、今朝の御言葉の22節にある ように「弟子たちは誰のことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた」ので した。そして23節以下にはこうも記されています「弟子たちのひとりで、イエスの 愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合 図をして言った、『だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ』」。ペテロにしてみ れば、その裏切り者がわかり次第、服の下に隠した剣で成敗してやろうと思っていた のかもしれません。  ここにも、私たち人間の罪がはっきり現れているのではないでしょうか。弟子たち はこの最も「おごそか」な時に、主イエスに注目したのではなく「互に顔を見合わせ」 て「だれのこと」かと互いに探り合ったのみでした。主イエスの御言葉に聴こうとし たのではなく、幾つものグループにわかれて互いに詮索し合っただけなのです。22節 の「察しかねて、互に顔を見合わせた」とはまさにそういう弟子たちの姿です。神の 御言葉を聴くことを忘れて、互いに詮索し審き合い、自分以外の誰かが罪を犯したと 言って騒ぐのです。それはまさしく私たちの姿なのではないでしょうか。  私たちもまた、主イエスの前に言い立てるのです「主よまさか、わたしではないで しょう」と。神に対する「罪」はいつも自分の外にあるのだと主張するのです。その ような私たちに対して主はマタイ伝26章25節に「いや、あなただ」と言われます。 ギリシヤ語を直訳すれば「それは汝の語りたることなり」という意味です。主は私た ちに言われるのです。「あなたに『罪がない』と言うのは、それはあなた自身の言葉で あって、主なる神の御言葉ではない」と。ここにおいて私たちは、いま私たちもイス カリオテのユダと同じ場所に立っているのだということがわかるのです。  自分には「罪がない」と申し立てるのは、私たち自身の勝手な言葉にすぎません。 本当に大切なことは、主なる神の前に私たちがいかなる存在であり、なにを必要とし ているかではないでしょうか。言い換えるなら、私たちが私たち自身の言葉ではなく、 主なる神の言葉に生きる者となることです。しかし、この最も大切なことを私たちは 見事に忘れてしまうのです。そして「主よまさか、わたしではないでしょう」と言い 張るのです。それが「罪」でなくして何が私たちの「罪」なのでしょうか。  「罪」を常に自分の外に置き、自分を正当化してやまぬ心は、いつも私たち自身の 中に砦を作っているのです。私たちは知らずして神に敵対している存在なのです。そ れこそが私たち自身の「言葉」です。その「自分の言葉」が私たちの生活の基準とな るとき、そこにあらゆる「罪」が働きの場をえることになります。それこそ使徒パウ ロの言う「罪の力は律法なり」が実現するのです。ローマ書章1節にはこうあります 「だから、ああ、すべて人をさばく者よ、あなたには弁明の余地がない。あなたは、 他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている」。  私たちの自己正当化の「言葉」こそ、私たちの間に分派を生み出すのです。だから パウロはローマ書の続く2章4節にこう語っています「それとも、神の慈愛があなた を悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」。い ま主は“私たちのまなざしがどこに向いているのか”を問うておられるのです。自分 の言葉という「砦」の中に向いているのか、それとも十字架のキリストという「(神の) 慈愛と忍耐と寛容の富」に向いているのか。  私たち人間は事あるごとに分派を作り、徒等を組み、集団で行動することが大好き です。かつて「赤信号みんなで渡れば怖くない」という冗句がありました。集団の力 が倫理や理性をも麻痺させる。最も深い意味において、国家や民族間のあらゆる紛争 や戦争の根拠さえあるのではないでしょうか。さらに重大なことは、私たちは分派を 作って自己正当化するとき、そこで全く主イエスのお姿を見なくなるということです。 主イエスの言葉を聴かなくなるのです。主イエスお一人が分派の外におられる。私た ちは主イエスを蔑ろにして互いに徒党を組み、際限なき自己正当化の言葉を「砦」と して立て籠もる。そのような姿が私たちと無縁だと言えるでしょうか。  今朝の御言葉のヨハネ伝13章25節以下で「イエスの愛しておられた」弟子が(7 たぶんヨハネのことだと思われますが)主イエスに「主よ(その裏切り者とは)だれ のことですか」と尋ねたと記されています。すると主イエスは、このようにお答えに なりました。26節です「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。 そして「一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与え になった」とあるのです。私たちはこの御言葉をどのように読んでいるのでしょうか。  もしもこれがイスカリオテのユダを“裏切り者”だと主が特定されたことであった なら、その「合図」を他の弟子たちが見逃すはずはありません。たちまちユダは11 人の弟子たちに取り囲まれ、ペテロなどは剣を抜いて切りかかっていたことでしょう。 ところが実際には今朝の28節に記されているとおり「席を共にしていた者のうち、 なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった」のです。それど ころか29節にあるように「ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエ スが彼に『祭のために必要なものを買え』と言われたか、あるいは、貧しい者に何か 施させようとされたのだと思っていた」のです。  主はヨハネにはっきりと「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それであ る」と言われたのではないでしょうか。しかし実際にはそのヨハネさえ、それがイス カリオテのユダであるとは理解しなかったのです。それはなぜでしょうか。それは弟 子たちの全てが主イエスから「一きれの食物(パン)をひたして」与えられていたか らです。「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」と主は言われま した。そのように弟子たち全てが主の御手から生命の祝福のパンを与えられていたの です。だから弟子たちには理解できなかったのです。  それは言い換えるならこういうことです。まさしくダ・ヴィンチが洞察したように、 実は十二弟子の全てが同じように「イスカリオテのユダ」でありえたのです。私たち もまた同じなのです。私たちが自分の言葉(自己正当化)という「砦」にどのように 立て籠もろうとも、主はそこで厳かに言われるのです「それは汝の語りたることなり」 と…。主なる神の前に誰が「われに罪はあらず」と言いうるでしょうか。むしろ私た ちは「義人なし、一人だになし」なのではないでしょうか。たとえ人に対して正しい 者でありえても、主なる神の前には正しい者は一人もないのです。それならば主イエ スは、まさにそのような私たちのためにこそ「一きれの食物(生命の祝福のパン)を ひたして」手ずからお与え下さったのです。  それこそ、礼拝における聖餐の基となり、教会の礎とさえなった“最後の晩餐”の 出来事です。主が私たち全ての者の「罪」を担われ十字架におかかり下さったことで す。実に主は私たちのために御自分の御身体を、御自身の血に浸してお与え下さるほ どの「完き罪の贖い」を成し遂げて下さったのです。それを受けた者がもはや決して 滅びることのないように、御自身の復活の生命をもって、罪の塊のような私たちを生 かして下さったのです。死ぬべきものが死なないものに覆われ、滅ぶべきものが朽ち ぬものに呑みこまれたのです。その恵みの前に、あのイスカリオテのユダさえも例外 ではありませんでした。まさにユダのためにも、主は御自分の肉を裂かれ血を流した もうて「贖い」となられたかたなのです。  もし私たちがユダの罪を、私たちの外に見いだそうとするならば、そのとき私たち は今朝の弟子たちと同じように、主イエスを尻目に「分派」を組む輩の一人にすぎま せん。ユダの「罪」は他の十二人の弟子たちも同じでした。今朝の御言葉で「誰のこ とを言われたのかお尋ねしろ」とヨハネに合図を送ったペテロなど、一度ならず三度 までも主イエスの御名を拒んだのです。他の弟子たちも同じでした。勇ましい言葉は 十字架を前にして吹き飛んでしまい、みな恐ろしさのあまり主を見捨てて逃げ去って しまったのです。  それならば、主はまさしくそのような弟子たち、否、まさに私たちのために、十字 架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。御自身の手から私たちに祝福の生命 の糧(パン)を与えて下さったのです。ユダと同じく主を「裏切る者」でしかありえ ない私たちを、極みまでの愛をもって愛して下さったのです。その「罪」を赦し信ず る全ての者を新たな復活の生命に歩む者として下さったのです。私たちに主が求めて おられることは、まず自分が清く正しい者になってから主に従うことではありません。 そうではなく、汚れた、救いようのない、罪の塊のような私たちのあるがままに、た だ十字架の主を信じ、主の御言葉を聴き、主に従うことだけなのです。  イスカリオテのユダの問題、それは二千年の昔、主イエスを裏切ったユダという悪 人がいたという問題ではありません。まさに今の私たちの「罪」そして全世界の「罪」 が、イスカリオテのユダなのです。ユダは私たちの外にではなく内側に存在するので す。それなら私たちのなすべきことはただ一つです。それはユダと等しき存在である がゆえに、キリストを告白しキリストの御身体なる教会に連なり、生命の御言葉に養 われつつ、キリストと共に歩むことです。私たち自身の死せる律法の言葉、自己正当 化のわざを捨て、キリストに贖われた者として歩むことです。キリストは私たちの罪 を贖い、死を打ち滅ぼし、三位一体なる神との永遠の交わりへと私たちを招き入れて 下さったのです。そのとき私たちに何が起こるのか。それこそ「死人のよみがえり」 です。「身体のよみがえり」です。私たちの身も魂も存在の全体が、また生活の全体が、 キリストの愛のもとにキリストの力によって歩む者とされる幸いです。いまここに連 なる全ての者に、主は豊かにその祝福を与えていて下さるのです。