説     教    詩篇41篇9〜13節   ヨハネ福音書13章16〜20節

「主の弟子の選出基準」

2010・01・24(説教10041308)  聖書を通して主イエス・キリストの御生涯を知るとき、私たちがそこで抱く素朴なしか し深い問いは、なぜ主イエス・キリストは十二弟子の一人に、あのイスカリオテのユダを お選びになったのだろうかということです。  最近では名簿というものの管理が社会的にとても厳しくなっています。たとえば学校な どでも、生徒の名簿は保護者にも渡さないのが普通になっているそうです。昔は名簿など 本当にいい加減に扱われていました。それを悪用する発想自体が無かったのです。今はそ うではありません。教会さえ例外ではなくなっています。名簿はどこでも慎重に管理され、 勝手に持ち出したり見せたりできないようになっているのです。悪意ある第三者の手に渡 り悪用されることを防ぐためです。社会全体がプライバシー保護にいかに神経質になって いるかの現れでしょう。やや行き過ぎているのではないかという想いさえあるのです。  主イエスの時代、今から2000年の昔にはもちろん、そのような問題はありませんでし た。現代のような高度情報化社会・犯罪多発社会とは環境が違っていたと思います。しか しだから主イエスはうっかり、ユダのような人間をも弟子の名簿に加えてしまわれたので しょうか?。いわばユダの選びは主イエスの“名簿管理”が杜撰であったことの表れなの でしょうか?。主イエスは他の11人についてはともかく、イスカリオテのユダについて は明らかに「弟子の選出基準」を間違われたのでしょうか?。人事において失敗をされた ということなのでしょうか?。  主イエスの十二弟子の素性や経歴を見ますと、私たちは本当に驚かざるをえないのです。 なぜなら主イエスの十二弟子たちほど統一性のない、いわば「烏合の衆」にも似た人選は なかったと言えるからです。たとえば十二弟子の中に「熱心党のシモン」なる人物がいま す。現代風に言えば自爆テロを行うアルカイダのような過激思想の持ち主です。そうかと 思えばそれとは正反対の、ローマの手先となって税金を集める取税人出身の「マタイ」の ような人間がいました。敢えて譬えるなら共産党の書記長が自民党の総裁に就任するよう なものです。もしこれが会社組織なら全く統制が取れず業務が成り立たないでしょう。  しかも、それだけならまだしも良いのです。たとえ思想や信条、教育や主義や主張にお いてどんなに違っていても「主イエスのために働く」という共通の目的のために一致する ことは不可能ではないからです。むしろ様々な立場の人間がいたほうが働きの範囲が拡が るかもしれない。多くの人々を主イエスに導くことができるようになるかもしれない。伝 道に幅と奥行きが生ずるかもしれないと思えるのです。  イスカリオテのユダの問題は、そういうことではありません。ユダの問題は「なぜ十二 弟子の中に、主イエスを“裏切る”人間が含まれていたのか?」という問題なのです。裏 切りや密告は政治的世界においては常套的手段です。しかし主イエスはこの世の権力を求 めたもうようなかたではない。全く逆に、主はこの世の栄誉や名声をいっさい退けたまい、 ただ全ての人々を罪から救うために御自身を十字架に犠牲となさる道を歩まれたかたです。 その主イエスが、なぜ“裏切り”という卑劣な行為を受けねばならなかったのでしょうか。  この問いの難しさは、その問いが主イエス御自身に向けられることにあります。つまり 全能の父なる神の御子であられ、神と等しきかたである主イエスが、どうしてイスカリオ テのユダの悪の正体を見抜くことができなかったのかという疑問です。学校の名簿でさえ 第三者の手に渡れば犯罪目的に使われるかもしれないのです。まして神の御子なる主イエ スがどうして事前に、ユダという人間の悪い素性を見抜くことができなかったのか。今風 に言えば「主イエスの危機管理能力の欠如」が指摘されるのではないでしょうか。  この謎を解く最大の鍵となる御言葉は、実は今朝ご拝読したヨハネ伝13章18節にある のです。それは「わたしは自分が選んだ人たちを知っている」という御言葉です。それは 主イエス御自身が弟子たちに語られたことです。  ユダという人は十二弟子の中で一人だけ、ガリラヤ出身ではなかった人です。石川啄木 の歌に「故郷の訛懐かし停車場の人混みの中にそを聴きに行く」という歌があります。お 国言葉(方言)は連帯感を確かめる最大の絆です。その連帯感の中からユダ一人が疎外さ れていた。その疎外感・孤独感にユダの裏切りの原因があったと考える人もいます。しか しそれだけだったでしょうか?。もし疎外されていたのなら、弟子たちみんなの「金入れ」 を預かるはずはありません。ユダには他の弟子たちにはない学識と能力があり、弟子たち はそこに全幅の信頼を寄せていました。だから疎外感が裏切りの原因とは考えられません。  作家の太宰治はさすがに少し穿った見解を述べています。太宰によれば、イスカリオテ のユダはいちばん深く主イエスを愛し尊敬していた。その愛と尊敬の思いが十字架へと向 かわれる主イエスへの挫折感となったとき、それは一挙に「裏切り」という背信行為に傾 いたのだと分析しています。太宰によればそれは、主イエスを独占しようとしたユダの屈 折した愛の顕れであったと言うのです。  そうした詮索は文学の世界に任せましょう。私たちには明確に告げられた聖書の御言葉 のみが与えられているのです。それこそ主が「わたしは自分が選んだ人たちを知っている」 と言われたことです。主イエスは、イスカリオテのユダがやがて御自分を銀貨30枚で裏 切ることを知っておられたのです。その裏切りの結果ご自分が十字架にかかられることも 知っておられたのです。全てを知っておられた上で、それにもかかわらず、主はイスカリ オテのユダをも十二弟子の一人に選ばれたのです。  それは、どういうことなのでしょうか。主は今朝の御言葉の中で弟子たちに詩篇41篇 の御言葉を示されました。「『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかか とをあげた』とある聖書は成就されなければならない」とあることです。旧約の本文を読 みますと「わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも、わたしに そむいてきびすをあげた」という御言葉です。ここに「わたしのパン」とあることは何を 示すのでしょうか?。「パン」と聴いて私たちがすぐに思い出すことはあの“最後の晩餐” の食卓です。主はそこで「取りて食せ、これはわが身体なり」と言われ、パンを弟子たち にお配りになりました。それは十字架上に御自分を犠牲となさって私たちの罪を贖いたも う出来事の徴です。  それならば、主が弟子たちに求めておられるのはただ一つのことなのです。それは、十 字架の贖い主なるキリストを信じ、告白し、教会に連なって歩むことです。死ぬべき者が 死なない生命に覆われるようになることです。罪に塗れた私たちがキリストの恵みの生命 に甦らされることです。ただそのことだけを主は私たちに(そして弟子たちに)求められ た。ただその恵みを受けることのみが「キリストの弟子たること」の唯一の徴なのです。 私たちの側の資格や条件は何ひとつ問われないのです。問われるのはただ十字架の主に対 する「信仰」のみです。「あなたは私の贖いの恵みのもとに生きる者になりなさい」と、主 は私たち一人びとりに語っておられるのです。  このことから、何が明らかになるのでしょうか。それは、イスカリオテのユダをさえ全 てを知った上でお選びになった主イエスの極みなき愛と恵みです。私たちの名簿は罪のプ ライバシーに満ちています。父なる神の前に明らかにされては困る名簿しか私たちは持っ ていないのです。私たちのどの名前の上にも「この者は罪人のかしらである」という烙印 が押されているからです。しかし、主はそれだからこそ私たちをご自分のもとに招いて下 さいました。古い名簿の罪の烙印は主イエスの十字架の贖いによって破棄され、いまや私 たちは「この者は永遠にキリストの弟子である」という新しい生命の名簿を持つ者とされ ているのです。私たちの名簿には「この者はわたしが生命を献げて贖い取った者である」 と記されているのです。住所録には「彼の国籍は天にある」と記されているのです。それ こそがヨハネの言う「いのちの書」です。天国にある教会員名簿の原本なのです。  まことに主は、御自分が選びたもうた人々を「知って」おられます。私たちは自分自身 のことさえ正しく知らない者です。まして他人のことはなおさらです。しかし主は私たち のことごとくを「知って」おいでになる。私たちの罪も、弱さも、咎も、悲しみも、悩み も、そして、私たちが常に何を必要とし、何を本当に求めているか、何が私たちを真に生 かすのか、主はその全てを「知って」おられるのです。そして大切なことは、だからこそ、 主はあのユダをも御自分の弟子の一人としてお選びになったということです。  ユダが犯した罪、それは他の弟子たちも同じでした。ペテロも、ヨハネも、アンデレも、 マタイも、ピリポも、みんな十字架を目前にして、主イエスを「知らない」と言い張り、 自分はあの十字架上の犯罪人とは何の関係もないと主張し、安全な所に逃げてしまったの です。その主を裏切った弟子たちの姿こそ、私たち一人びとりの姿なのです。私たちもユ ダと同じようにキリストに背を向け、主を十字架へと追いやった者です。それならば、主 がユダをも弟子として下さった同じ恵みにより、私たちもまたここに招かれているのです。 もしユダが招かれなければ、私たちも招かれることはなかったでしょう。もしユダが弟 子とされなければ、私たちもまた主の弟子とされることはなかったでしょう。ユダの犯し た罪が人間の最高の「罪」であるなら、その最高の「罪」こそ私たち自身の「罪」でもあ るのです。パウロは「われは罪人のかしらなり」と言いました。それは「私の罪はユダの 罪と同じだ」ということです。私たちの「罪」は神の前に絶対的な事柄であり、比較した り相対化したりできないものだからです。それならば主イエスは、まさに私たちの絶対的 な底知れぬ「罪」の深みにまで降りて来て下さったかたなのです。キリストの恵みは絶対 的な罪を絶対に贖い救って下さった恵みです。それが十字架の恵みです。私たちの果てし ない罪の中にこそ神の満ち溢れる救いは現われたのです。それこそがユダを弟子の一人と したもうた理由なのです。  主は「我と共にパンを食す者、我に向かひて踵を挙げたり」という詩篇41篇の御言葉 によって、ユダが御自分を裏切ることを予告されました。十字架が私たちの罪によって御 自分の上に成就することが父なる神の御旨であることを知っておられた。主は全人類の罪 の本質が「イスカリオテのユダの罪」であることを知っておられました。私たち一人びと りが「ユダ」にほかならないことを知っておられました。それを全てご存知の上で、それ だからこそ、私たちをその「罪」から贖うために、十字架への道をまっしぐらに歩んで下 さったのです。  それならば、私たちはなにを主にお返しすべきでしょうか?。ユダはこのあとで自分が おかした罪を悔い、銀貨30枚を受け取った祭司長らのもとに行き、自分の罪の赦しを彼 らに願いました。しかし投げ返された返事は残酷なものでした。「それは我々の知ったこと か。お前みずから始末せよ」と言われたユダは全く絶望するほかはなかったのです。ユダ がおかした決定的な過ちは、罪の赦しをキリストにではなく、祭司長らに求めたことです。 神ではなく人間を頼みとしたことです。それなら、私たちはどうなのでしょうか?。  キリストは神の子であられ、世界の唯一の救い主なのです。十字架の贖いに打ち勝ちう る罪は存在しません。私たちは自分を人間の力にではなく、ただ十字架の主にのみ投げか ける者としてここに招かれています。私たちがなすべきことは、キリストに連なり続ける ことのみです。もしユダが祭司長らにではなく、主イエス・キリストのもとに自分を投げ かけ(悔い改め)ていたなら、彼はかならず主の十字架による罪の赦しを得て、新しい生 命に甦ることができたでしょう。そして他の弟子たちと共に初代教会の使徒として多くの 良き働きをなしたと思うのです。 私たちは、キリストの御名によって罪を贖われ、新たな復活の生命に甦らされた僕とし て、つねに主の教会に連なり、礼拝者として、信仰の旅路を進んで参りたいのです。キリ ストの恵みのもとに自分を投げかけてやまぬ、主に贖われた者の、健やかで自由なキリス ト者の道を歩んで参りたいと思います。