説    教   詩篇145篇13〜14節  ヨハネ福音書13章12〜15節

「キリストに倣いて」

2010・01・17(説教10031307)  “キリストに倣う”ということは、たいへん難しいことです。しかしそれなければ 信仰の生活は決して本物にはなりません。いくら口先で「キリストを信じている」と 言っても、実生活においてキリストではなく自分を「主」とし続けているならば、そ れはキリスト者の生活とは言えないからです。  今からおよそ550年前にドイツのトマス・ア・ケンピスという人が「キリストに倣 いて」(ラテン語でImitatio Christi=イミタチオ・クリスティ)という本を著しまし た。わが国にもキリシタンの時代に「こんてむつすむんち」という題で出版された記 録があるほどです。この中でトマス・ア・ケンピスは、今朝、私たちに与えられたヨ ハネ伝13章12節以下の御言葉について、非常に深い黙想を書きとどめています。ト マスは言うのです、主なるキリストはまさに「私たちの足を洗って下さるため」に世 に来られた。ところが足を洗って戴いた私たちはそこから立ち上がろうとはしない。 そのとき私たちの信仰はいったい何であろうかと問うのです。  「足」は人間の身体を支えるものです。言い換えるなら足は私たちの生活そのもの を表しているのです。主イエスが私たちの「足」を洗って下さったということは、私 たちを新しい復活の生命に支えられつつ「主」と共に歩む者として下さったというこ とです。それほど大きな恵みを与えられているにもかかわらず、もし私たちがそこで 何事も変わらなかったようにただ蹲っているとするなら、それこそ私たちの信仰その ものが問われるのではないでしょうか。  主イエスは、十二弟子たちの足を洗われた後で、今朝の12節にあるように「上着 をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた」のでした。すなわち主はこのよう に言われたのです。「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたし を教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。し かし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あな たがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、 あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」。  ここに「手本」という意味ぶかい言葉が現れています。何ごとにつけ私たちが新し いことに挑戦しようとする場合、まず必要とするのは良い「手本」です。茶道や華道 や踊りにしても、剣道や柔道や空手にしても、それをきちんと習得しようとすればま ず良い師匠について、師匠を「手本」として学ばねばなりません。自己流の勝手な学 びかたでは決して本物は身に付かないのです。言い換えるなら「手本」とはそれを体 得している人そのものです。昔から「門前の小僧習わぬ経を読む」と申しますが、私 たちに必要なことも良い師匠の傍にいつもいることではないでしょうか。 その意味で申しますなら、主イエス・キリストのみが信仰の生活の唯一のまことの 「手本」であられるかたです。このキリストが洗足の「手本」となって下さったとい うことは、私たちの罪の贖いのため、十字架による完全な救いの御業を現わして下さ ったということです。すなわち主イエスは「十字架の主」として全人類の罪の贖いの 唯一の「手本」となられたかたなのです。私たちがキリストを唯一の「手本」とする とは、キリストと同じように十字架にかかるという意味ではありません。たとえそう したとしても、それは私たちを救う力にはなりえません。そうではなく、私たちがキ リストのみを「手本」とするとは、私たちがこの私のために十字架にかかりたもうた 主イエスを信じ、主イエスのみを見上げ、主イエスに従う信仰の歩みをすることなの です。それこそがキリストを「手本」とすることです。私たちは主イエス・キリスト を信じ、教会に連なって生きることによって、いつもキリストのみを「手本」とする 本当の信仰の生活ができるのです。 そもそも教会とは何でしょうか。それは主イエス・キリストの復活の御身体であり、 恵みによって招かれた贖われた者たちの召命共同体(礼拝共同体)です。主の御身体 なる教会に連なることによって、罪に死んでいた私たちが新しい復活の生命(キリス トの生命)に甦らされるのです。そこでこそ私たちは全ての「罪」が赦され「神の義」 が与えられている恵みを知るようになります。死したる者が甦り、失われていた者が 見出され、立ちえざりし者が主と共に歩む喜びに、共にあずかる者とされているので す。その喜びの生命が主の御手の内にあっていつも満ち溢れている場所、それが主の 御身体なる「聖なる公同の使徒的教会」なのです。  それならばなおさら、私たちは主が建てたもうたこの教会においてこそ、主を唯一 の「手本」とするキリストの弟子にならせて戴けるのです。主はこの同じヨハネ伝の 13章34節以下にこうお教えになりました「わたしは、新しいいましめをあなたがた に与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも 互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟 子であることを、すべての者が認めるであろう」。  これは何という祝福に満ちた約束でしょうか。「互に愛し合うならば、それによって、 あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認める」と主は言われます。 私たちがキリストの弟子であることが世の人々の目に明らかになるのは、それは看板 を背負っているからではないと主は言われるのです。そうではなく、もしあなたがた が互いに愛し合う群れであり続けるならば、そのことによってあなたがたがキリスト のまことの弟子であることを「すべての者が認める」に至ると、主ははっきりと約束 して下さっているのです。  ただし気をつけましょう。これはいわゆる博愛主義やヒューマニズムへの招きの言 葉などではありません。キリスト者でなくても互いに愛し合う人々はいるでしょう。 逆に、キリスト者であっても互いに愛し合えない者たちがいるかもしれません。身体 は病気だけれども教会には健やかに連なっている人もあり、逆に、身体は健康であっ ても教会から離れてしまっている人もいます。しかし実は主イエスのこの御言葉は、 私たちの限界や可能性を超えたところに輝いているのです。すなわち私たちの恐るべ き罪の暗黒のただ中にこそ、私たちの虚無と絶望の中にこそ、今朝の主の御言葉は鳴 り響いているのです。  それは何よりも、主がなして下さった「洗足」の出来事そのものが示しています。 この出来事そのものが私たちの「手本」なのです。それはどういうことかと申します と、主イエスは一方的な恵みの出来事として私たちの汚れた「足」を洗って下さった ということです。私たちが主イエスに「どうか私の足を洗って下さい」と頼んだわけ ではないのです。私たちの意志に主が応えてこの出来事が起こったわけではないので す。そうではなく、全く私たちの意志と願いを超えたところで、すなわち私たちが恐 るべき「罪」の暗黒の中にいたまさにその時に、主は私たちの「足」をご自身の一方 的な恵みによって洗い清めて下さったのです。  これは何を意味するのでしょうか。この意味を使徒パウロは同じ新約聖書ローマ書 5章8節に次のように語っています「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのた めにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたので ある」。ここに「まだ(わたしたちが)罪人であった時に」とあります。私たちが神か ら全く離れた状態であった時、しかもみずからの悲惨さを知ることもできずにいたそ の時に、そのような私たちのためにこそキリストは死んで下さった…。実にそのこと によって「神は私たちに対する愛を示されたのである」とパウロは言うのです。すな わちキリスト・イエスみずから「罪」によって神に対して死んでいた私たちを救うた めに、一方的なご自身の恵みによって、私たちの汚れた「足」を洗って下さったとい うことです。  私たちは神の御前に立ちえない存在でした。みずからの存在と人生を支えうる健や かな「足」を持ちえない者でした。しかも神に叛いた暗闇の中にいたにもかかわらず、 私たちは自分の悲惨さをも知りえず過ごしていたのです。そのような私たちのために、 主は一方的な恵みによって私たちの「足」を洗って下さいました。私たちの罪の暗黒 のただ中に主ご自身が来臨して下さったのです。罪のどん底において私たちの悲惨さ を担って下さったのです。そして私たちを、神の御前に健やかに立ち歩みうる者とし て下さったのです。  ルターが訳したドイツ語の聖書では、今朝の御言葉の「手本」という言葉を“バイ シュピール”(Beispiel)という言葉で訳しています。この“バイシュピール”とはた いへん意味じい言葉でして、直訳すると「具体的な行い(出来事)」という意味なので す。主イエスは私たち罪の極みに座する者たちの所にいらして、そこでみずから「具 体的な救いの実例」を現わして下さいました。それこそ「洗足」の出来事であり、永 遠の神の御子が十字架に死なれるというあの唯一の十字架による贖いの御業でした。 それは最近流行りの「癒し」などということとは根本的に違います。「癒し」とは人間 の中にある治癒能力を引き出すことです。しかし私たちの中には、肉体の病に対する 治癒能力はあっても「罪」に対する治癒能力はありません。  主イエスがなさるまことの救いは、そのようなものではありません。何物によって も癒されえない私たちは、ただまことの神の慈しみと真実によってのみ真の「癒し」 を与えられるのです。それは神の御子なるキリストみずから呪いの十字架におかかり になって、私たちのために生命を献げて下さったことです。私たちに真の生命を与え るために、主は御自分の生命の全てを献げて下さり、私たちに永遠の平安を与えるた めに、ご自身からは全ての平安を奪い去られしかたなのです。「わが神、わが神、何ぞ 我を見棄てたまいし」。この十字架上の主の叫びこそ、私たちの救いがいかに確かなも のであるかの揺るがぬ証拠なのです。  このような「具体的な行い」を大いなる恵みとして賜わっている私たちは、いかに 生きるべきでしょうか。それこそ私たちはトマス・ア・ケンピスが言うように「蹲っ たままではいられない」はずです。私たちは主が洗って下さったその「足」(信仰)を もって、健やかに立ち上がり、主と共に歩む者とされているのです。主が贖い取って 下さった新たな生命をもって神の栄光を現す者とされているのです。私たちのあるが ままの人生の歩み、その全体が、キリストの愛と慈しみを現すものとされているので す。だからこそ主は「わたしは(あなたがたに)手本を示したのだ」と言われました。  それは、私たちもまた「互に足を洗い合う」者とされているということです。それ は、互いにキリストの恵みに根ざし、キリストの慈しみに支えられて生きる、新しい 生活へと招かれているということです。そしてそれはただ主が御自身のものとして贖 い取って下さった、主の御身体なる教会に連なることによって実現します。そのこと を先ほどのルターの訳が見事に教えています。教会はキリストの復活の御身体であっ て、そこでは主ご自身が私たちと共にいまして、全ての人々のための救いの御業を行 なっておられるからです。それこそ“パイシュピール”(具体的な行い)です。主はこ の教会において、ここに連なる私たちといつも共にいまして、全ての人々のために限 りない救いの御業をなしておいでになる。私たちはみなその主の御業に倣う証し人で あり、そのための仕え人とされているのです。  私たちはキリストに倣う恵みと幸いを与えられているのです。この「手本」のみが 永遠の御国へと私たちを導きます。私たちは今この恵みによって主の御身体なる教会 に連なり、ただ神の御栄えのために共に労し、祈りを深め、礼拝を重んじ、キリスト の御業に仕えてゆく者でありたいと思います。共に「キリストに倣う」歩みをして参 りたいと思います。