説    教    サムエル記下20章1〜2節  ヨハネ福音書13章6〜11節

「キリストの祝福」

2010・01・10(説教10022306)  私たちの人生には思いがけないことが起こるものです。つい昨日まで想像さえしなかっ たことが人生に降りかかることがあります。嬉しいことなら良いのですが、嬉しくないこ と、望ましくないこと、嫌なことが容赦なく起こるのが私たちの人生です。そのようなと き私たちは改めて人生の意味を考えさせられます。望んでいること、願っていることでは なく、逆に望みや願いに反することが起こるこの人生にはいったい何の意味があるのかと 考えるのです。ちょうど電車に乗っていて、いきなり急ブレーキがかかると「いったい何 事か?」と驚いてあたりを見回すのと同じように、私たちは人生の中で急ブレーキをかけ られたような挫折感を抱くことがあるのではないでしょうか。  だいぶ以前のことですが、私のもとに「不幸の手紙」という匿名の手紙が届いたことが ありました。「これは不幸の手紙です」という書き出しに始まるその手紙には「これと同じ 手紙を一週間以内に30名の人に出して下さい。もしそうしなければ、あなたは3ヶ月以 内に必ず死にます」とあり、そして最後に「ごめんなさい」と記してありました。私にこ の手紙を出した人も、やはり同じように誰かから突然この「不幸の手紙」を貰ったのでし ょう。そして迷信だと思いつつも「3ヶ月以内に必ず死にます」と言われて気味が悪くな り、迷惑と承知しつつ30人に同じ手紙を出してしまったのでしょう。私はもちろんその 手紙をすぐにゴミ箱に捨てました。しかし私もそれを受け取った時には何ともいえぬ嫌な 思いがしました。それは「必ず死ぬ」と言われたことにではなく、この「不幸の手紙」を 受け取った人たちはどんな思いでこれを読んだのだろうか、また最初にこの手紙を書いた 人はどんな人間なのだろうかと思ったのです。  実はこのことは、私たちが人生において経験する不幸な出来事と驚くほど似通っている のではないでしょうか。人生における不幸や挫折もある日突然なんの前触れもなく「不幸 の手紙」のように私たちのもとに訪れるのです。そして私たちの人生全体に暗い“呪い” の影を遠慮なく投げつけ、私たちを支配してしまうのです。私たちはそのような突然の“呪 い”に対して驚くほど無力です。困惑し、打ちひしがれ、心閉ざされ、正しい判断力を失 ってしまうのです。そしてついには、自分が受けたその“呪い”を、他の人々にも投げつ けてしまうことがあるのです。 主イエスの弟子たちもみなそのような、私たちと同じ人間としての弱さを抱えていまし た。主イエスの十二人の弟子たちは、特別に優れた知恵や才能があったから主に選ばれた のではありません。人間的に見るなら彼らはまことに弱いただの人にすぎませんでした。 十二弟子の中には主イエスを銀貨30枚で裏切り、十字架へと引き渡したあの「イスカリ オテのユダ」さえ含まれていたのです。そしてユダの「罪」は他の弟子たちも同じでした。 他の十一人の弟子たちも十字架を目のあたりにすると一斉に主を見捨てて逃げてしまった のです。自分たちと十字架のイエスとは何の関係もないと誓いさえしたのです。 それならば、今朝の御言葉ヨハネ福音書13章6節以下に記されているのは、はまさに そのような弱く脆い存在である十二弟子たちの足を、主イエスみずから盥に水を汲み腰に 手ぬぐいを巻かれて、手ずから洗って下さったという出来事なのです。主イエスは十二弟 子の足を一人びとり丁寧に洗って下さり、やがてペテロの番になりました。今朝の6節に はこうあります「こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、『主よ、 あなたがわたしの足をお洗いになるのですか』と言った」。  なぜペテロはこう言ったのでしょうか?。驚いたからです。主イエスが弟子である自分 の足を洗って下さることを「畏れ多い」と感じたのです。そもそも昔のユダヤの国では「足 を洗う」という行為は「僕」のすることでした。当時の履物は簡単なサンダルのようなも ので、外出すると土埃で足が汚れました。加えて当時の宗教的な習慣もあって「清めの儀 式」として食事の前に足を洗う必要があったのです。本来なら「僕」がするはずのその仕 事を主イエスがなさったものですから、弟子たちはみな驚き戸惑ったのです。この時のペ テロの気持ちは、私たち日本人にはよく理解できるのではないでしょうか。尊敬する目上 の人に自分の足を洗って戴くことが何を意味するか。それこそ畏れ多くかたじけないと思 うのではないでしょうか。しかし主イエスは恐縮するペテロに言われるのです。続く7節 の御言葉です「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわか らないが、あとでわかるようになるだろう』」。  これはそのまま、私たちの人生に当てはまることです。主イエスがなさること、否、私 たちが人生において経験する出来事の多くは、すぐには私たちには意味が「わからない」 のです。だからこそ私たちは苦しみ悩みます。しかしそれは単なる不可知論ではなく、必 ず「あとでわかるようになる」と主は約束していて下さるのです。「わたしのしていること は今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。  この意味は限りなく大きいのです。それは、私たちは自分自身の「主」となることはで きないということです。そうではなく、私たちの人生そのものがまことの「主」を必要と しているのです。そして私たちが人生のまことの「主」であられるイエス・キリストを信 じて、教会に連なって歩むとき、私たちの人生はたとえ様々な出来事の意味や理由がたと え「今は」わからなくても、主がそれを知っていて下さる、主が私たちを極みまでも愛し、 支え導き、支配していて下さるという事実において、限りない平安と慰めを受けることが できるのです。  譬えるなら、私たちが見知らぬ危険な土地を旅するとします。心配になるのです。不安 を感じるのです。何が起こるかわからない。得体が知れないから恐ろしいのです。しかし もしそこに、その土地に詳しい人が一緒にいて守ってくれるなら、私たちはなんの心配も なく旅を続けることができるのではないでしょうか。それと同じように、たとえ私たちに 人生の様々な出来事の意味が「今は」わからなくても、主イエスは全てを知っておられ、 全てを愛の御手の内に支配し導いていて下さる。その主イエスの恵みの確かさにおいて、 私たちはいつも、限りない勇気と平安と慰めと希望を与えられているのです。  そればかりではありません。今朝の御言葉にはさらに大きな慰めが告げられているので す。それは、主イエスが私たちの足を洗って下さったことです。主イエスは私たちの足を 洗うために世に来て下さったという事実です。それこそ私たちをあらゆる呪いに勝利せし める限りない祝福なのです。「キリストの祝福」こそあらゆる呪いと災いとに勝利する唯一 の力です。神の限りない祝福を受けた者のみが、人生を支配するあらゆる不幸と災いの中 にあって、なお勇気と平安と慰めをもって前進することができるのです。主は私たちのた めに死の力をさえ打ち破って下さったのです。  この洗足の出来事をよく見ますと、それは主イエスの「十字架の出来事」を現している ということがわかります。つまり主が私たちの足を洗うために世に来られたとは、私たち の全ての罪を贖い救うために(十字架におかかりになるために)世に来て下さったという ことなのです。それなら今朝のこの「洗足の出来事」は主イエスから私たちへの一方的な 恵みです。言い換えるなら、弟子たち(私たち)には「罪」を解決する力は全くありませ ん。それこそ私たちは呪いに対して無力なだけです。しかしその私たちのために主イエス は一方的な恵みとして私たちの足を手ずから洗って下さいました。それは私たちの「罪」 の贖いを成し遂げて下さった十字架の恵みを現わしています。私たちを新しい生命に生か しめるために、神の御子みずから呪いの十字架にかかって死んで下さったことなのです。  だからこそ主イエスは「わたしの足を決して洗わないで下さい」と恐縮するペテロに優 しく諭すように言われました「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたし と何の係わりもなくなるであろう」と…。なんという慈しみの言葉でしょうか。この言葉 を解くならばこうです「わたしはあなたの足を洗うために、ただそういう“係わり”をあ なたに対して持つために、あなたのもとに来たのだ」。言い換えるならこうなります「わた しはあなたの身代わりとして十字架にかかり生命を献げるために、ただ十字架の主として あなたと“係わり”を持つために、あなたのもとに来たのだ」。主はまことにそのように私 たち一人びとりに告げておられるのです。ただ十字架の贖いの「主」としてのみ、私たち 一人びとりの人生に、そしてこの全世界に、係わって下さるかたなのです。  この十字架の主がいつも私たちに求めておられることは何でしょうか?。それは主が私 たち全ての者に与えて下さった「救いの恵み」(洗足の恵み)をあるがままに受け取ること です。小賢しい現代人は重箱の隅を突付くような詮索が好きです。そして重箱の隅を突い て大切な御馳走には箸を付けないのです。いちばん大切なものを見失うのです。人生にお いていちばん大切なことは、まことの神を知り、神の愛を知り、神の恵みを「受ける」者 になることです。その意味で私たちはいつも、私たちの足を洗いたもう主イエスに素直で あらねばなりません。主が私たちにかくも尊い係わりを持ちたもうのですから、私たちは それを信仰をもって受け止めねばなりません。それこそイエス・キリストを「わが神・救 い主」と信ずることです。いまその信仰のもとに全ての人が招かれているのです。  十字架の主イエス・キリストの恵みを知ったペテロは、今度は一転して9節のように申 します「シモン・ペテロはイエスに言った、『主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も 頭も』」。私の全身全霊をあなたのものにして下さいと願ったのです。このペテロに主は10 節にお応えになります「イエスは彼に言われた、『すでにからだを洗った者は、足のほかは 洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんな がそうなのではない』」。最後のこのいささか不思議な御言葉を、福音書記者ヨハネみずか ら最後の11節でこう注釈しています「イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それ で、『みんながきれいなのではない』と言われたのである」。  ペテロはこのときの自分のいささか的外れな受け答えを、初代教会の説教壇から人々に たびたび語り続けたのではないでしょうか。なによりも主はこのペテロのちぐはぐな返事 に対して「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない」と語って下さいまし た。この「からだを洗った者」とは、キリストを信じて教会に連ならった全ての人たちを さしています。私たちのために十字架にかかられたキリストの恵みをあるがままに受けた 全ての人々のことです。さらに言うなら、主が十字架にかかって「罪」を贖うために死ん で下さった全ての人々のことです。つまり全世界の人々がここには含まれているのです。  先ほども学んだことを今いちど思い起こしたいのです。この「洗足の出来事」はキリス トによる一方的な恵みの出来事です。一方的な恵みであるからには、私たちはただ感謝と 喜びをもってそれを受け、主の御名を崇め讃美を献げるほかはないのです。それならば最 後の御言葉の意味は何でしょうか?。「しかし、みんながそうなのではない」と「イスカリ オテのユダ」について主が語られたことです。答えはまさに聖書の中にあります。テモテ への第一の手紙1章15,16節です。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世にきて 下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。しかし、わた しがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容 を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためで ある」。  十字架におかかり下さったキリストの恵みが、キリストの極みまでの愛が、私たちの人 生全体を祝福していて下さるのです。もはや罪(呪い)も死もキリストに連なる私たちの 人生の「主」とはなりえないのです。ただキリストのみが私たちの永遠の「主」なのです。 主の慈しみは最も汚れた者(最も罪ふかき者)へと向けられます。すなわちあの「イスカ リオテのユダ」に対して、まさにここに連なる私たちに対して、主は十字架の主として「係 わり」を持たれる。私たちの足を洗って下さる。その限りない祝福を受けることによって、 私たちは「今後、キリストを信じて永遠のいのちを受ける者の模範」とさえならせて戴い ているのです。このキリストにおける神の永遠の愛から、なにものも私たちを引き離すこ とはできません。主は十字架によって真の祝福を与えて下さいました。私たちはみなその 恵みの証人なのです。ただ主にのみ栄光あらんことを。アーメン。