説    教   ヨブ記4章17〜21節  ヨハネ福音書13章2〜5節

「洗足の恵み」

2010・01・03(説教10011305)  東京都の大田区に「洗足池」という池があります。かつて鎌倉時代に日蓮上人がそ こで足を洗った故事に由来しているそうです。わが国では昔から「足を洗う」という 行為には「身を清める」すなわち「斎戒沐浴」の意味がありました。ヤクザや任侠の 世界でも「足を洗う」と言えば極道を辞めて堅気に戻ることです。古い生活と決別し て真当な人間になるということなのです。  では聖書においてはなおさら、それは大きな恵みなのではないでしょうか。今朝の 御言葉ヨハネ伝3章2節以下には、主イエスが十二弟子の足を手ずから洗いたもうた 出来事が記されています。それは弟子たちに「真人間になって欲しい」という願い、 あるいは「斎戒沐浴」ということ以上に、主イエスが弟子たちに本当の祝福を、また 生命をお与えになったことなのです。なによりもここで、弟子たちの足を洗いたもう たのは主イエス御自身です。弟子たちは主イエスに足を洗って戴き、驚きのあまり言 葉を失っています。なぜなら当時のユダヤにおいて“足を洗う”という行為は「僕」 が「主人」に対して行うことだったからです。  それは余りにも突然の出来事でした。13章の2節を見ますとそれは「夕食のとき」 であったと記されています。場所はおそらくあの“最後の晩餐”が行なわれたマルコ の家の2階座敷であったでしょう。つまりこの13章2節以下に記されている出来事 は、他の3つの福音書における“最後の晩餐”と場所が同じだと考えられています。 それならば、これはまさに主イエスが弟子たちと共に囲まれた、地上における最後の 食卓での場面でした。その最後の食卓において、主イエスが弟子たちの足を洗いたも うという驚くべき出来事が起こったのです。  そこで改めて今朝の2節を読むと、そこには非常に深刻なことが記されているので す。それは「夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエ スを裏切ろうとする思いを入れていたが…」とあることです。私たちは既に1節の御 言葉を学びました。「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべ き自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し 通された」とあることです。ここに「最後まで愛し通された」とあるのは文語訳では 「極(きわみ)まで之を愛し給へり」です。この「極まで」とは「際限なく」という 意味です。つまり主イエスは際限なき愛をもって「世にいる自分の者たち」すなわち 私たち一人びとりを愛したもうたのです。  ところが、その主の極みまでの愛の中で、恐ろしいことが現われます。それは強烈 な光に照らされて影がいっそう際立つのに似ています。主イエスの極みまでの愛の中 でこそ、私たち人間の「罪」の姿もまた明らかになるのです。イスカリオテのユダが 恐ろしい裏切りを実行しようとしていたことです。それこそ私たちの「罪」の姿なの です。私たちは主イエスの“極みまでの愛”をさえ拒み続け、自分の計画のみを成遂 げようとする存在です。人間は神の“極みまでの愛”にさえ叛く存在なのです。極み までの神の愛と、極みまでの人間の罪。このヨハネ伝13章1節と2節にはその両者 が際立って現れているのです。  今からおよそ300年前、ドイツのある敬虔な哲学者が、世界における神の愛と人間 の罪の相克という難問に正面から挑みました。この人はそれを一枚の刺繍に譬えまし た。刺繍(ステッチ)には裏と表の両面があります。裏から見ると刺繍はたくさんの 糸が縺れ合った意味不明の布にすぎません。しかしそれを表から見て初めて整然とし た美しい模様であることがわかる。それと同じように神がお造りになったこの世界も、 もし人間の「罪」という裏面だけから見れば、それは混沌とした無秩序の世界にすぎ ない。しかし神の「極みまでの愛」という表面から見るなら、それは喩えようもなく 美しい秩序の世界であるということがわかる、そのようにこの人は言うのです。たと え人間の「罪」がどんなに深くても、神はご自身の「極みまでの愛」において今ここ に美しい秩序ある完全な世界を完成しておられる。それを永遠に支配していて下さる。 まさに哲学(また神学の)使命は、その神の歴史の刺繍の表側を人々に示すことであ ると言うのです。  スコットランドの神学者ジョン・オーマンは、それと同じことを「自然的秩序と超 自然的秩序」という別の言いかたで表わしました。オーマンは申します「この世界は 神の創造された世界であり、それは最悪の出来事の中にさえも、最善の結果が生まれ てくる世界である」。この「最悪の出来事」とは天災人災そして私たちの「罪」を現わ しています。自然的な秩序(つまり私たちの理性や知恵)から判断するなら、それは 最悪の事としか思われないのです。しかし世界を世界たらしめている本質は神の御言 葉とキリストの恵みという超自然的秩序です。それならこの世界における最悪の出来 事の中にさえ、最善の結果が生まれてくるとオーマンは言うのです。すなわちローマ 書8章28節に告げられているとおりです「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご 計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、 わたしたちは知っている」。  主イエスはイスカリオテのユダの「罪」をご存知でした。同じように主は私たち一 人びとりの「罪」をもご存じです。主の御前に隠しうるものは何ひとつありません。 しかしまさにユダの罪(私たちの罪)という「最悪の出来事」のただ中にこそ、主は その「極みまでの愛」を注いで下さいました。なによりも今朝の3節に「イエスは、 父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、 神にかえろうとしていることを思い」とあります。私たちの底知れぬ「罪」、キリスト を十字架に釘付けにするという「最悪の罪」の中にさえも、主イエスは「すべてのも の」すなわち「世にいるご自分の者たち」全てを「極みまで愛し」抜いて下さいまし た。主は私たちの横糸に「罪」が混じっていることをご存じです。しかしまさにその 中にこそ幾重にも御自身の「極みまでの愛」という横糸を織り交ぜて下さいました。 もし私たちが信仰のまなざしで観るなら、刺繍の表側が見えるのです。それは讃美歌 90番に歌われた模様です。「ここも神の/みくになれば/よこしま暫しは/ときを得 とも/主のみむねの/ややになりて/あめつち遂には/一つとならん」。それこそあの 十字架の贖いの出来事であることを、私たちは知らしめられているのです。  まことにそのような贖い主・十字架の主としてのみ、主イエスは私たちのもとに来 て下さいました。私たちの「罪」ゆえに私たちを見捨てたもうことなく、まさにその 私たちの「罪」のゆえにこそ、私たちを「極みまで愛し」罪を贖い新たにして下さる 救い主として主はこの世界に来て下さったのです。そこで主みずからが私たちの足を 洗って下さるのです。「足を洗う」とは家に入るときの祝福です。主は私たちを神の家 である教会に招き入れ、永遠の生命を与えて下さいます。そのために主は全き「僕」 のお姿で私たちの「罪」のただ中に来て下さったのです。4節には「(主は)夕食の席 から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに 入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた」とあります。 なんと板に付いた「僕」の姿でしょうか。ご自分の全てを私たちの罪の贖いとして献 げるために主は十字架にかかって下さったのです。  弟子たちは驚いて言葉を失いました。文字どおり畏れかしこんだのです。私たちは どうでしょうか。「僕」のお姿で来られた主の前に、私たちはどのような姿勢で相対し ているのでしょうか。私たちは言葉を失い、ただ信仰によって主の「洗足の恵み」を 受けているでしょうか。「勿体ないことです」と涙を流しているでしょうか。その私た ちの想いよりも遥かに大きな恵みを主は与えていて下さいます。たとえ弟子たち(私 たち)の態度がどうであれ、主は私たちの足を洗って下さったのです。ただ一方的な 恵みとして、私たちの側に何ひとつ準備はなく、予想すらしていなかったところに、 この「洗足の恵み」は現わされたのです。イスカリオテのユダの足をも主は洗って下 さったのです。  これは単なる清めの儀式ではありません。主は私たちの全存在・全生涯を、御自身 の生命を献げて祝福し新たな生命を与えて下さったのです。これはまさに主イエス・ キリストの御人格の中心から出たわざであり、十字架における全人類のための罪の贖 いを現しているのです。私たちはこの主の「極みまでの愛」のわざに応えるために何 をなすべきでしょうか?…それは信仰をもって主イエスをキリスト(唯一の救い主) と告白し、主の御身体なる教会に連なることです。「アーメン、われ信ず」と告白する ほかはない大いなる恵みの出来事なのです。既にここに十字架の贖いの出来事が現れ ているのです。だからオーマンはこの「洗足の恵み」を「最大の奉仕のわざ」と呼び ました。それは十字架とひとつのものでしかないからです。事実ヨハネ伝はこの「洗 足の恵み」がニサンの月の13日の木曜日、すなわち主イエスが十字架にかかられる 前日に起こったことを示しています。これは主イエスの“行いによる遺書”であると 言っても良いのです。実際に主は続く13章14節において「しかし、主であり、また 教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足 を洗い合うべきである」と語っておられます。この「互に足を洗い合いなさい」とは 「互に愛し合いなさい」という主イエスのあの「新しいいましめ」に相当する御言葉 です。「互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、そのことによって、あなたがたが わたしの弟子であることを、全ての人が認めるであろう」と主は言われました。それ ならば、私たちにいま主が語っておられることは「互に足を洗い合いなさい。そうす れば、あなたがたがわたしの弟子であることを、全ての人が認めるであろう」という ことです。  これはただ「自分を低くしなさい」とか「謙遜な人になりなさい」というこの世の 道徳的な戒めではありません。そうではなく、あなたもみずからの十字架を負うて主 に従う者になりなさいという「招き」なのです。それこそ礼拝者の生活です。主イエ スをわが救い主・贖い主と信じ告白する者のみが持つ新しい生命の生活です。主の御 身体なる教会に連なり、そこで御言葉に養われ、キリストの現臨のもとを歩む信仰の 生活です。まさにそのキリストの溢れる恵みのもとに、互いに連なって歩む者となら せて戴いている。私たちの足を洗って新たにして下さったキリストのもとに、互いに 連なって生きる者とされている。それがこの「洗足の恵み」において私たち一人びと りに約束され、また全ての人が招かれているキリストの御業なのです。  まことに主が私たちの足を洗って下さいました。主が私たちのために生命を献げて 下さいました。その主が私たちと共に歩んで下さいます。私たちの歩みを祝福し強く して下さいます。新しいこの主の年2010年の初めにあたり、私たちに与えられてい る大いなる恵みに感謝しましょう。歴史の主みずからが、まずご自分の全てを私たち のために献げ尽くして下さったかたとして、十字架の贖い主として、私たちと共に歩 んで下さるのです。私たちの足を洗って下さるのです。このキリストの限りない恵み と「極みまでの愛」において、私たちの人生におけるあらゆる出来事が、順境にも逆 境にも、喜びにも悲しみにも、悩みや挫折や失敗さえも、私たちの「益」となるよう に全世界の万物をもって働いていて下さる。そのようなかたを私たちは“わが主”と 呼び、ここに告白し、互いに“わが主”の御身体なる教会に連なり、その祝福を日ご と朝ごとに新たに戴いて、新しい一年の旅路へと遣わされてゆくのです。