説    教     イザヤ書9章6〜7節   ヨハネ福音書13章1節

「最後まで愛したもう主」

2009・12・27(説教09521304)  わが国のある作家が「人間がある人を本当に最後まで愛し続けるということは、その こと自体がひとつの奇跡である」と語りました。これは家族や親子の関係も含めて、あ らゆる人間関係で言えることではないでしょうか。もし人間どうしの愛の関係を突き詰 めてゆくならば、そこには必ず「愛の破れ」「愛の矛盾」とも言うべきものが潜んでいる ことがわかるのです。愛するということはいつもこの「破れ」また「矛盾」と隣り合わ せなのであって、一人の人間を最後まで真実に愛し続けるということは、それ自体が驚 くべき奇跡とも言うべきことなのだ…この作家が言いたいのはそういうことでありまし ょう。  これは、私たちにもよくわかるのではないでしょうか。たとえば親子の関係であって も、親はわが子を「愛する」と言いつつ実は自分の理想を投げかけているだけであって、 現実の「わが子」にきちんと向き合っていないことが少なくないのです。そして現実と 理想の矛盾に直面するとき、そこではじめて「わが子」に対する本当の愛が問われるの です。同じことが夫婦や友人やあらゆる人間関係にも言えます。ときに私たちの愛は自 分を愛することの対外的な裏返しに過ぎず、いつも見返りを求める愛を勝手に相手に投 げかけているだけなのではないのか。そういうことを考えますとき、実は“愛し続ける” ということの難しさに改めて気付かされるのです。  主イエス・キリストの御生涯において、私たちが何よりも深く驚き圧倒されざるをえ ないのは、まさに主が私たち全ての者を、私たちの現実あるがままの姿において限りな く愛して下さったこと、しかも「最後まで」私たちを愛し抜いて下さった事実ではない でしょうか。なによりも今朝の聖書の御言葉、ヨハネによる福音書13章1節は主イエ スの御生涯の全体を見事に要約した御言葉です。すなわち「過越の祭の前に、イエスは、 この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者た ちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」とあることです。ここに私たちはキリスト の御生涯そのものを見るのです。  まず「過越の祭の前に」とあることに心を留めたいのです。この場合「過越の祭」と は十字架の出来事をさしています。旧約の時代にエジプト導き出され救われたイスラエ ルの民は、神に拠る罪の贖いを信じる「徴」として家の門口に子羊の血を塗りました。 それが「過越の祭」の発端となった出来事であり、それはキリストの十字架による私た ちの救いを象徴しています。主イエスは今まさにこの神聖な「過越の祭」において御自 分の十字架の死によって全人類の罪の贖いを成し遂げようとしておられるのです。まさ にこの十字架の出来事が「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時」と言われて いるのです。そしてその「時がきたこと」をお知りになって主イエスは「世にいる自分 の者たちを愛し、彼らを最後まで愛し通された」というのです。  すると、どういう事になるのでしょうか。私たちがここではっきりと知らされている ことは、主イエスが「世にいる自分の者たち」すなわち私たちを「最後まで愛し通され た」ことです。それは何よりもあの“十字架の出来事”において明らかであるというこ となのです。言い換えるならそれは、神の御子みずからご自分の存在と生命の全てを献 げて、私たちの朽つべきこの「からだ」すなわち私たちの全存在と生命そのものを贖い 取って限りなく祝福して下さったことです。御自分の死によって私たちを生かして下さ ったことです。  今から65年前1945年3月10日の東京大空襲のとき、下町を中心として15万人以 上もの人々が犠牲になりました。そのとき焼けた母親の死体の下から生きて救け出され た赤ちゃんがいたということを聴いたことがあります。その母親は自分の「からだ」で 愛するわが子を火の手から最後まで守り通したのです。神の愛はそれと似ているのです。 新約聖書ではこのような愛を“アガペー”と呼びます。それは十字架のキリストの愛で す。神は私たちを絶対にお見棄てにはなりません。それどころか主はご自分の「からだ」 を献げて私たちを罪と死から贖って下さったのです。それが聖書においてアガペーと呼 ばれる神の愛の姿なのです。  旧約聖書創世記の3章にアダムとエバによるいわゆる“失楽園”の出来事が記されて います。神の御言葉に叛いたアダムとエバは、自分たちが裸であることを知り無花果の 葉で身体を隠そうとします。そして2人とも父なる神の御顔を避けて逃げ隠れるように なるのです。アダムはその理由として神に「恐ろしくなったから」と答えています。こ こに私たち人間の罪の本当の姿が現れているのです。  古い世界、古い自分には「恐れ」があるのです。私たちの存在は最も深いところで「恐 れ」に支配されているのです。それは対人恐怖ならぬ対神恐怖です。神の御声と御顔を 避けて生きようとすることです。そして人間としての現実の姿(裸)を慌てて取り繕お うとして、無花果の葉のような脆いもので「からだ」を隠そうとするのです。それが私 たちの罪の姿なのです。人間は誰でも弱さや欠点を持っています。しかしアダムが裸で あったのが「罪」ではないように、聖書は私たちの弱さや欠点を「罪」とは呼びません。 「罪」とはその私たちの弱さや欠点を神の前に隠して神に背を向けることです。その結 果「恐れ」が私たちを支配するのです。神の愛に応えて生きるべき私たちが「いちじく の葉」で自分を繕おうとするのです。それが私たちの罪の本質なのです。  その「対神恐怖症」は人間関係にも暗い影を落とします。神との正しい関係を失うと き、私たちは人間関係においても他者と自分とを対等な立場で見られなくなり「恐れ」 から相手に迎合したり、甘えて依存したり、または逆に支配しようとするようになりま す。いずれにしても健全な人間関係ではありません。過度に批判的になったり、密かに 上げ足取りをしたり、自分を絶対化するようになります。愛と自由と喜びは失われ、傲 慢な審きと屈折した自惚れだけが残るのです。自分がその欠点や弱さのゆえに、神にも 見捨てられてしまうと「恐れ」るのです。それはけっきょく私たち自身が自分を弱さや 欠点のゆえに、無価値な生きるに価しない人間であると決めつけていることなのです。  他者への過度な依存や批判や攻撃の背後には、かならず自己嫌悪と屈折した自惚れが 潜んでいます。「いちじくの葉」のような虚しいもので自分を装おうとする思いです。現 実の自分が無価値な存在であると感じ、装わずにおれなくなるのです。そういう自分が 見捨てられることを恐れ、不安に脅え、そこから逃れようとして他者を攻撃し批判する のです。パウロの言うように私たちを「罪の法則」が支配しているのです。  しかし今、そのような私たちの「罪」の現実のただ中にこそ、私たちのまことの「主」 の御声が響いています「わが子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ」と!。 今朝の御言葉こそその「罪」の赦しと贖いの確固たる証なのです。主イエスは「世にい る自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」のです。私たちは真実に一人 を「最後まで」愛することさえできない存在です。愛の中にさえ多くの破れと矛盾・恐 れと審きという「罪の法則」を抱えています。しかしそのような私たちの存在(からだ) をあるがままに、かき抱くように最後まで愛し通して下さった一人のかたを私たちは信 じます。そのおかたがあのゴルゴタの上で呪いの十字架にかかって私たちのために死ん で下さった事実を私たちは信じます。まさにこの十字架のキリストにのみまなざしを注 ぎ、この「主」の御声を聴くところからのみ、私たちの新しい生命の歩みが、自由と喜 びの生活が始まるのです。  主イエス・キリストは「十字架の死に至るまで」最後まで私たちを愛し抜いて下さい ました。「あなたは私の愛する、かけがえのない者だ」と語って下さるのです。私たちは 神の前に無価値な者ではありません。神の御子がその生命を献げて下さったほど価値あ る者とされているのです。だから私たちはこの唯一の「主」の御前にはなにも隠す必要 はありません。「いちじくの葉」ごときで自分を隠す必要はないのです。キリスト御自身 が私たちの全存在を覆っていて下さるからです。キリストの義が私たちを覆い囲んでい て下さるからです。このかたのみが「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで 愛し通された」かただからです。まさにその最後に至るまでの極みまでの真実な愛こそ、 このかたの御生涯そのものだからです。  キリストの御生涯のどこを切っても、まるで金太郎飴のように私たちは、私たちに対 する極みまでの愛以外の何物も見いだすことはできないのです。私は高校2年生(16 歳)のとき洗礼を受けましたが、それはこのキリストの愛に圧倒されたからです。それ から35年経ちましたがキリストの愛は日に日に新しく私に生命を与えて下さいます。 そこにキリストに従う私たちの信仰の歩みが生まれるのではないでしょうか。だからコ リント人への第二の手紙5章17節にはこうあるのです「だれでもキリストにあるなら ば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しく なったのである」。また今朝あわせてお読みしたイザヤ書9章6節にはこうあります「ひ とりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた」。 このクリスマスにおいて、私たちのあらゆる罪を担って贖って下さるために、主はお生 まれ下さったのです。キリストは「われわれのために」お生まれ下さったのです。「すべ ての人を照らすまことの光」として…。「だれでもキリストにあるならば」すなわち「教 会によってキリストに結ばれているならば」そのとき私たちは、無条件で「新しい」者 とさるのです。キリストの生命を戴いて生きる、キリストの生命共同体である教会の生 きた枝とされているのです。  人から大切にされず、人から愛された経験のない人は、自分も他者をも本当に愛する ことができなくなってしまいます。しかしキリストの愛を知ることによって私たちはど れほど限りない祝福と力を戴くことでしょうか。キリスト教幼児教育の大切さもまさに その点にあります。私たちは神が御子イエス・キリストを賜わったほどに私たちを大切 にして下さった愛を知り、その愛の御身体である教会に根ざして、はじめて自分をもま た他者をも本当に大切にし、受け容れ、愛することができるようになるのです。自分が 無価値だと恐れることからも、またその恐れから他者を攻撃することからも自由にされ て、互いにキリストの愛に根ざした関係を作ることができるのです。  「足跡」(フットプリンツ)と呼ばれる、作者不詳のひとつの詩を読みたいと思います。 「ある夜、彼は夢を見た。/主と共に浜辺を歩いている夢を。/空のかなたに光がひら めき、/彼の生涯のひとこまひとこまを映しだしていた。/砂にしるされた二組の足あ とが見えた。/一つは彼のもの、もう一つは主のものだった。/生涯の最後の情景が映 った時、/砂の上の足あとをふりかえって見た。/すると、その生涯の道筋にはただ一 組の足あとしかない時が/いくたびもあることに気がついた。/それは生涯で最も落ち 込んだ悲しみの、/まさにその時だったことにも気がついた。/どうしてもこれが気に なって、彼は主に問うた。/『主よ、かつてあなたにお従いする決心をした時に、/あ なたはいつまでも共に歩むと、おっしゃって下さったではありませんか。/しかし私の 生涯で最も苦しかったあの時、この時にかぎって/足あとは一組しかないということが 気になっております。/いちばん一緒にいて欲しかったその時に、/私を一人にされた のはどうしてですか』。/主は答えられた。/『愛しい、大切な私の子よ!/わたしは、 あなたを愛している。/決してあなたを一人にすることはない。/試練の時、苦難の時、 /ただ一組の足あとしか見えないのは、/その時わたしがあなたを抱いていたからだ』」。  「最後まで愛したもう主」が共におられるところ、思いがけない人生の重い試練の時 さえも、神の栄光の現われる摂理の時へと変えられてゆくのです。私たちをあるがまま に担っていて下さるキリストの恵みを知るとき、涙の谷の中でこそ、私たちのために生 命を献げて下さった主の愛を知るとき、私たちの生涯もまたキリストの恵みを証するも のに変えられてゆくのです。「キリストにある」(キリストに結ばれる)とはそういうこ とです。私たち一人びとりが、また全ての人が、この祝福の生命のもとに招かれている のです。