説     教    ミカ書5章1〜2節   マタイ福音書2章1〜12

「クリスマスの喜び」 2009年 降誕節主日礼拝

2009・12・20(説教09511303)  今年のクリスマス礼拝において、私たち一人びとりに与えられた御言葉はマタイ伝2章 1節から12節です。この御言葉は「東方の博士たち」この東方とはおそらくペルシヤ(今 日のイラク)あるいはナバテヤ(今日のヨルダン)のことだと考えられていますが、いず れにせよ「東方」の天文学者たちがはるばる「ユダヤ人の王としてお生まれになったかた」 すなわちイエス・キリストを訪ねて旅をしてきた。そして彼らが不思議な星の光に導かれ つつ、ついにベツレヘムの馬小屋において飼葉桶に眠りたもう幼子イエスに出会い、そこ で幼子イエスを「ひれ伏して拝んだ」という出来事を伝えているわけです。  この「博士たち」のことをよく「東方の三博士」と申します。日曜学校などの聖誕劇(ペ ージェント)でもかならず3人の博士が登場して参ります。しかしこのマタイ伝に「三人」 と明記されているわけではありません。ただ彼らが携えてきた幼子イエスへの献物として 「黄金、乳香、沒薬」の3種類が記されていることから、自然に「三人の博士」と言われ るようになりました。そこにも大きな意味があります。しかしまず私たちは、彼らが幼子 イエスに出会い、そこで幼子イエスを「ひれ伏して拝んだ」ということの意味を顧みたい と思うのです。  クリスマスという字は、本来は「クライスト・マス」つまり「キリスト礼拝」という意 味です。その意味で東方の博士たちが幼子イエスを「ひれ伏して拝んだ」という行為その ものの中に、本当のクリスマスの出来事が現わされているのです。ここにクリスマスの原 点があるのです。クリスマス本来の姿は「ひれ伏して」幼子イエスを「拝む」ことなので す。まさしく「クライスト・マス」にクリスマスの本質があるのです。その意味で今朝の この御言葉は、クリスマスの礼拝にもっともふさわしい御言葉であると申せましょう。  そこで、クリスマスのテーマと申しますか、クリスマスの主題を一言で言うなら、それ は「誰がまことの世界の王(キリスト)なのか」そして「私たちは誰を礼拝すべきなのか」 という問題に尽きるのです。言い換えるなら私たちは、また私たちのこの世界は、誰をま ことの「王」としてその前に「ひれ伏し拝む」べきなのかという問題なのです。  もっとも、こうした問いそのものが多くの現代人にとってはいささか無意味な事柄にも 思えるかもしれません。と申しますのは、私たちは現実の生活の中で誰かを「拝む」とい う実感がほとんどないからです。中世封建制度の時代ならいざ知らず、この21世紀の現 代社会においていつも誰かを「拝んで」生きているという生活それ自体が、私たちには無 縁なことのように思われるのです。  しかしそこでこそ、よく考えてみたいのです。たしかに私たちは形の上では誰かを「ひ れ伏して拝む」ということはないでしょう。しかしこういうことは考えられないでしょう か。私たちはいつも何者かに拠り頼んで生きることを願っている存在である。逆に言うな ら、何者かに拠り頼まずには生きられない存在だということです。その「何者か」は人に よって千差万別です。ある人にとっては、それは仕事であったり、社会的な地位や業績で あったりします。また他の人にとっては、それは学問であったり、知識であったりします。 また他の人にとっては、健康であったり、経済上の豊かさであったりします。それ以外に もありとあらゆる〈人生の支え〉また〈人生の主となるもの〉を私たちは必要としている のではないでしょうか。そう考えるならば、実は私たちは意識するにせよせざるにせよ、 いつもかならず何者かを「拝んでいる」存在だと言えるのではないでしょうか。  あるアメリカの社会学者が現代人の生活様式を捉えて「他者志向型の人間」と呼びまし た。それは私たちを船に譬え、また人生を航海に譬えるならば、私たち現代人は羅針盤を 持たない船のような存在だということです。いつも外からの情報や刺激を頼みにして生き ているだけで、自分で航路を定めて生きてゆくことができない存在だというのです。だか ら海が穏やかなうちは良いのですが、ひとたび人生を嵐が襲い大波が押し寄せるとき、ど う進んでよいのかわからず途方に暮れるのです。譬えて言えば現代人は受信機だけを持っ ていて、外から発信される指示を受けながらでしか進んで行くことができない存在である。 それが「他者志向型の人間」ということなのです。  残念ながら、これは図星を得てはいないでしょうか。現代はおびただしい情報氾濫の時 代です。絶え間ない情報の洪水の中に私たちは漂い流されています。しかしその流れがど こに向かうのか誰にもわかりません。わからぬままに漂って行く、そのような時代の中で、 信じられないような悲惨な事件も絶えず起っています。「死刑になりたいから人を殺した」 という人間まで現れました。それも「他者指向型の人間」を象徴しています。そこに現代 という時代の持つ暗黒が垣間見えるのです。ひいては60年前のあの戦争も、日本という 国家そのものがまさに「拝むべきでないもの」を「拝んだ」結果、他者と自分たちに対す る破壊行為へと突き進んでいったのではなかったでしょうか。その破壊の法則は現代もな お人間を支配しているのです。まさにその意味で「まことのキリストは誰で、誰を拝むべ きなのか」という問題こそ、まさしく現代的な問いにほかならないのです。  宗教改革者マルティン・ルターは、十誡の第一の誡め「なんじ他の神々を拝すべからず」 についてこのように語っています。「今あなたが心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それ がまさしくあなたの神なのだ」。これは「あなたがたの心のある所に、あなたがたの宝もあ る」という主イエスの御言葉の厳密な解釈です。戦後の日本人は、否、現代の私たちは、 何に心をつなぎ、信頼を寄せて生きてきたのかが問われているのです。そこでこそ明らか になり、深められてゆく聖書の問いこそ「あなたは誰をまことの王としてひれ伏し拝むの か」という問いなのです。それこそ「ヘロデか、それともキリストか」という問いなので す。このことは単に目に見える偶像を拝むという事柄とは違います。聖書で言う「偶像」 とはそんなに単純なことではないのです。  たとえば「私は何者にも拠り頼まない」と言う人がいたとします。欲もなく地位も名誉 も富も求めず、枯淡の境地に達している人間が全くいないわけではないと思う。あるいは もっと積極的な意味で「自分はいかなる宗教とも関わりを持たない」と決めている人もい るでしょう。それこそが科学的合理的な生活だと考えている人もあろうかと思います。し かしそれだけで私たちは、本当に全ての「偶像」から自由になれるのでしょうか。「他者指 向型の人間」と決別できるのでしょうか。そうではないのです。それどころか「自分は何 者にも拠り頼まない」と思っている人こそ、実は「自分の中にいるヘロデ」「自分の中に建 てられている偶像」を拝み続けているのです。  今日の御言葉の中で、東方の博士たちからキリスト降誕の報せを聞いたヘロデは、みず からの地位が脅かされる不安から素知らぬふりをして、ひそかにその幼子イエスを見つけ 出し殺害せよと家臣に命じます。実はそこに全ての人間が抱いている、ひそかな心の中の 「偶像」の実体があるのです。それは自己絶対化という偶像です。エゴイズムという名の 偶像です。私たちの「内なるヘロデ」にせよ「外なるヘロデ」にせよ、その本当の姿は、 私たち人間の根源にある「罪」と「死」の支配なのです。そしてそれは「自分は何も信じ ない」というような弛緩した精神態度によっては、とうてい克服することができない強敵 なのです。  ドイツの哲学者マックス・ピカートは「われわれ自身の内なるヒトラー」という本を著 わしました。この本の中でピカートは語ります。もしわれわれが、ヒトラーがわれわれの 外に存在する“特殊な存在”だと考えるかぎり、われわれの世界に本当の希望はない。ヒ トラーの罪が私たちの罪と別物だと考えるかぎり、この世界はヒトラー的支配(力の支配) の原理から自由になることはありえないと。  偶像の本質は、人間を破壊して自分に隷属させ、自分を「拝ませる」ことにあります。 ヘロデの支配がまさにそれでした。ですから「私たちは、ヘロデを拝むのか、それともキ リストを礼拝するのか」という問いは、単に「あれかこれか」の選択ではなく、人生の基 盤となる根源的な自由への問いなのです。言い換えるなら私たちはヘロデのように、自分 を生かすために神の御子を「殺害する者」としてベツレヘムの馬小屋に行くのか、それと もあの東方の3人の博士たちのように、罪によって死すべき私たちに生命を与え、私たち を救うために来られたキリストを信じ「礼拝する者」としてベツレヘムの馬小屋に行くの か、この2つの歩みのどちらを自分の歩みとするのかを問われているのです。  まことにキリストは、罪と死の支配のただ中にあった私たちの救いと生命のために、こ の世界の最も低く、暗く、貧しい所に、人としてお生まれ下さいました。つまりキリスト はあのクリスマスの晩、全世界の人々の「罪」の最底辺にお生まれ下さったのです。それ ならば、その最底辺に来て下さったキリストを信じ「ひれ伏して礼拝する」とは、まさに 「心をつなぎ信頼を寄せる対象の交代」すなわち「主権の交代」を意味します。もはや私 たちの「主」はヘロデでも偶像でもありえない。それがどんなに強く見えても、そこに私 たちの救いと喜びはないからです。私たちの、また世界の唯一のまことの「主」は、この 世界の罪の最低辺にご自分の生命を与えるためにお生まれになった神の御子イエス・キリ ストのみであります。  博士たちはこのキリストに、ベツレヘムの馬小屋の飼葉桶に眠りたもう幼子イエスに出 会い、心からなる礼拝を献げたのでした。彼らはこの幼子の内に「罪」と「死」の支配の 永遠の終焉を見いだしたのです。神の愛の勝利を見たのです。「すべての人を照らすまこと の光」を見たのです。だからこそ彼らは心から主イエスを「ひれ伏して拝」みました。こ の「ひれ伏す」とは自分自身をまことの神に献げる姿です。私たちはここに使徒パウロの ローマ書12章の御言葉を思い起します。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみに よってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え 物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。この「霊的な 礼拝」と訳された元々のギリシヤ語の言葉は「本来あるべき礼拝」「本当の礼拝」という意 味なのです。博士たちは幼子イエスの御前に、自分の存在と人生そのものを献げたのです。 これが本当のキリスト者の歩みであり、私たちのなすべき「本当の礼拝」なのです。  まさにこの感謝のゆえに、博士たちは「黄金、乳香、沒薬」を幼子イエスの御前に献げ ました。「黄金」とは、全人類のまことの「王」としてお生まれになったキリストに対する 感謝と讃美のしるしです。また「乳香」とは、神の前に民の罪をとりなし、世界と神とを 結ぶ掛け橋となるまことの「祭司」となられたキリストに対する献げ物です。そして「沒 薬」とは、神の御言葉を余すところなく伝えて下さる預言者なるキリストに対する感謝の しるしです。  そして、私たちは心に留めたいのです。この「黄金」「乳香」「沒薬」の3つは、実は「葬 り」のために用いられるものでした。つまり3人の博士たちは幼子イエスに「葬りのため の3点セット」を贈ったのです。それはどういうことでしょうか。博士たちはこの幼子イ エスこそ、十字架の死と葬りにおいて私たちの罪の贖いとなられる唯一のキリスト(まこ との王、祭司、預言者なるおかた)と告白しているのです。彼らはあのマグダラのマリや が主イエスの「葬りの備え」としてナルドの香油を献げたように、十字架の主を信じ「ひ れふし拝む」者として「黄金」「乳香」「沒薬」を献げたのです。  まさにこのかたこそ、私たち全ての者の「罪」のためにご自分のいっさいを献げて贖い となり、永遠の生命を与えて下さるために、十字架におかかりになるために、お生まれ下 さったかたなのです。このかたのみが、永遠の神の御子のみが、私たちの限りない罪のど ん底に降りて来て下さったのです。そこでこそ私たちの罪のいっさいを贖い、私たちを存 在の深みから祝福し、新たな生命を与えて下さるために…。私たちはこのかたを全世界の 主にある民と共に、また天にある主の証人たちと共に、心から「ひれふして礼拝」し、そ の御名を崇めます。  クリスマスおめでとうございます。まことに主は、あなたのためにお生まれになりまし た。