説    教   イザヤ書46章8〜11節 ヨハネ福音書12章49〜50節

「主は牧者のごとく」

2009・12・13(説教09501302)  私たちは「われは永遠の生命を信ず」と使徒信条において告白します。特に私たち の葉山教会ではこれを初代教会のように歌って告白します。しかし私たちはこの大切 な告白の意味をどれだけ正しく理解しているでしょうか。もしかしたら私たちは「永 遠の生命」と聴くとき、それは「肉体は死んでも霊魂は生き残る」というような、い わゆる“霊肉二元論”のように理解しているかもしれません。もしそうだとすると、 それはイエス・キリストによる救いのあるなしにかかわらず、ほんらい人間は生まれ ながらに“不滅の存在”であるという理解になります。すると洗礼の意味がよくわか らなくなってしまうのです。  聖書が語る「永遠の生命」とは、そのようなものではありません。肉体は滅びても 霊魂は不滅なのだというような、霊と肉とを分離した人間理解などではないのです。 そうではなく、聖書が語る「永遠の生命」とは、罪によって死んでいた私たちが主イ エス・キリストの復活の生命に覆われた者になることです。死ぬべき“からだ”を持 つ私たちがイエス・キリストの復活の御身体である教会に結ばれて、新しい“からだ” を持つ者とされることです。つまり「永遠の生命」とは、私たちの内側にある生命の 連続ではなく、ただキリストが与えて下さる“新しい生命”のことなのです。  端的に言うなら、キリストは御自分の生命を私たちに与えて下さるためにこの世に 来られたのです。このキリストの新しい生命に生かされることを“身体のよみがえり” と言うのです。この場合の“からだ”とは「肉体」も「心」も「魂」も全てを含む私 たちの全人格のことです。肉体も魂も「罪」によって死んでいた私たちが、キリスト の御復活の生命に教会によってあずかる者とされて「肉体」も「魂」もキリストの生 命に覆われた者とされることです。それが「永遠の生命」であり「身体のよみがえり」 なのです。  それならば、ここに私たちはひとつの大切な問いを持ちうるのではないでしょうか。 私たちは本当にそのような意味で「永遠の生命」を信じているのだろうかという問い です。ずいぶん信仰生活の長い人であっても、あんがい自己流の誤った理解をしてい ることが少なくないのではないか。実はこのことは教会生活全体に関わる最も大切な 問いなのです。それは、もし私たちが「永遠の生命」について正しい信仰を持たない なら、教会が「キリストの身体」であるということも、結局は単なる言葉の遊戯にす ぎなくなるからです。  同じヨハネ伝の10章において、主イエスは「羊の群れと羊飼い」の譬えを語られ ました。羊の群れにとって最も大きな危険は、柵の外に出たとき狼などの猛獣に襲わ れることです。そのために「善き羊飼い」は群れ全体に心を配り、御言葉によって導 き、門を開け閉めして群れを出入りさせ「青草の原」「憩いの水際」へと群れを導くの です。それは10章3節にこう記されているとおりです「門番は彼のために門を開き、 羊は彼の声を聴く。そして彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をみな出し てしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について 行くのである」。  そして、ひとたび群れに危険が迫るとき「善き羊飼い」は自分の生命を捨てて羊を 守ります。詩篇23篇に「あなたの鞭とあなたの杖は、わたしを慰めます」とあるの は「善き羊飼い」は鞭をもって狼に立ち向かい、そして杖をもって群れを正しく導く 者だからです。そして旧約聖書イザヤ書40章11節には、まさにこの「善き羊飼い」 の姿こそ主なる神の御姿であると示されているのです「主は牧者のようにその群れを 養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませてい るものをやさしく導かれる」。  そこで、主イエスはさらにヨハネ伝10章16節にこうも語っておられます「わたし にはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼 らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼と なるであろう」。主イエスは御言葉をもって私たちの群れ(すなわち私たちの教会)を 正しく導いて下さいます。それと同じ恵みをもって、今はまだ主を知らない多くの人々、 この全世界をも、罪の支配のもとから新しい生命の祝福のもとへと導いて、ついには 「一つの群れ」として下さる。世界における救いの御業の完成と祝福とがはっきりと 約束されているのです。  それならば、私たちにいつも求められていることは、まさに歴史の主が導いておら れるこの教会(主の群れ)の中で、主が語られる御声に常に忠実であり続けることで はないでしょうか。主の御声を聴き失うとき、また御声に忠実でなくなるとき、私た ちは「主に贖われた群れ」としての喜びと平安を失うのです。そればかりではなく、 まだ主を知らない多くの人々への責任をも放棄することになるのです。  実はこのことと、今朝のヨハネ伝12章49〜50節の御言葉は響きあうのです。主は 今朝の御言葉においてはっきりと語っておられます「わたしは自分から語ったのでは なく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお 命じになったのである。わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。そ れゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、 そのまま語っているのである」。  主イエスでさえ、ご自身の思いや計画を目的とはなさいませんでした。主は「わた しをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになっ たのである」と言われるのです。ましてや私たちは、招いて下さった主にのみ忠実な 群れであることをいつも求められているのではないでしょうか。教会は「主の家」で あり主によって招かれた者たちの集いです。主イエス・キリストのみが教会の唯一の かしらであられます。それならば私たちはこの教会において、ただ主の御声にのみ聴 き従い行く者であらねばなりません。まことの礼拝者へと成長してゆかねばなりませ ん。私たち自身を顧みるなら、そこには限りない罪の汚れと弱さと破れがあるのみで す。しかし私たちにとって大切なことはただ一つ、主が私たちを限りなく愛し、御声 をもって招き、主の復活の御身体に堅く結び合わせて下さったという事実です。  主イエスの弟子たちも、人間的に観れば統率のないばらばらの烏合の衆に過ぎませ んでした。しかし彼らはただ招きたもう主の御声に忠実であり続けたのです。ペテロ のように主の御名を三度も拒んだ者でさえ、まさにその恐れの暗黒の中から主の御声 によって立ち帰ったのです。そして新たな者とされました。あのラザロもそうでした。 彼は死んで4日もたった死人として聖書に現われます。彼の身体は墓の中に置かれ、 暗闇だけが彼を支配していました。そこに主イエスが来て下さった。そして「ラザロ よ、出てきなさい」と御声をかけて下さった。そのときラザロは主イエスの御復活の 生命に覆われ、主イエスの生命に贖われて、墓の中から甦ったのです。  私たちも同じではないでしょうか。主が御自分の生命をもって贖い取って下さった 主の教会に連なる恵みを与えられながら、幾度でも柵の外に出て行きそうになる私た ちです。あの放蕩息子のように、自分の意志にのみ忠実であろうとする私たちです。 しかし主はまさにそのような私たちに御声をかけていて下さる。生命の御言葉を御身 体なる教会において豊かに与えて下さる。主の御言葉が宣べ伝えられるところ、そこ に私たちの「身体のよみがえり」がおこるのです。私たちが主の御声を聴いて生きる とき、もはや罪と死は私たちを支配することはありません。どのような罪の攻撃から も主はその恵みの「鞭と杖」とをもって私たちを堅く守って下さいます。そして私た ちを「青草の原、憩いの水際」へと導いて下さるのです。そこで新しい生命を与えて 下さるのです。それは朽つべき私たちの生命の延長などではありません。主は御自身 の復活の生命(死を呑みこむ生命、死に打ち勝つ唯一の生命)に私たちをあずからせ て下さるのです。それが私たちが主の教会において受ける生命なのです。  主は今朝の御言葉の50節においてこう言われました「わたしは、この命令が永遠 の命であることを知っている」と。「この命令」とは神の御言葉のことです。そしてヨ ハネ伝の最初の御言葉を私たちは思い起こします。「はじめに言葉があった」この「言 葉」とはイエス・キリスト御自身のことです。父なる神と御子なるキリストは一体で あられます。御子は「まことの神からのまことの神、まことの光からのまことの光」 です。それならば主が「この命令」と言われるとき、それは父なる神の御言葉のこと であると同時に御自身の御業のことをさしています。すなわち十字架における罪の贖 いの御業です。主がゲツセマネにおいて「父よ、どうかわたしの思いではなく、あな たの御心のままになさって下さい」と祈られた、父なる神の「命令」を行なわれるこ とです。  それこそ十字架において、私たちの罪の贖いを成し遂げられることでした。それは 「(まだ)この囲いの中にいない他の人々のためにも」ご自分を献げられることでした。 主はご自分の生命をことごとく献げて私たちの身代わりとなって下さいました。死す べき私たちを新たな生命(まことの神のもとに立ち帰らせ)に甦らせて下さるために、 ご自分は滅びとしての永遠の死を担われ、しかも陰府にまで降られて、その永遠の死 を打ち滅ぼして下さったのです。主は御自分の死によって、死を滅ぼして下さったの です。  教会が“キリストの身体”であるとは、まさに教会によってのみ全ての人々がキリ ストの生命の祝福のもとへと招かれているからです。ここに連なる私たちは主の御言 葉によって「永遠の生命」にあずかる僕とされ、主が今ここにおいてなしておられる 救いの御業のために心を合わせて働く者とされているのです。教会生活が大切なのは、 そこに私たちが生きるべきまことの身体があるからです。そこに唯一の私たちの身体 (存在全体)の完成があるからです。教会に連なる私たちは復活のキリストに連なる 者とされています。この教会は主がふたたび世においでになるその時、私たちに与え られる「栄光の身体」の先取りであり、天の御国の幸いを地上において現す「天国の 出張所」なのです。出張所は本店から権威を委託されて業務を行ないます。同じよう に教会は天において現される主の救いの権威と御心を地上に現す群れとされているの です。その光栄を思い、私たちはいっそう御声に忠実な群れへと成長したいものであ ります。  私たち一人びとりが、いまあるがままに主の民とされているのです。キリストの生 命が私たちの身体を覆っているのです。私たちはキリストの義を纏う者として日々の 信仰の歩みへと召されているのです。私たちはキリストによって父なる神と御子と聖 霊との永遠の三位一体の交わりの中に入れられているのです。それが教会の本質「聖 徒の交わり」にほかならないのです。それゆえに、私たちは心から信じ、ただ十字架 の主のみを仰ぎつつ告白します。「われは、聖霊を信ず。聖なる公同の教会すなわち聖 徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と。そして来週、私 たちは喜びのクリスマスを共に迎えるのです。神にのみ栄光がありますように。