説    教   エレミヤ書21章11〜12節 ヨハネ福音書12章47〜48節

「痛ましき救い」

2009・12・06(説教09491301)  われらの主イエス・キリストは今朝、私たち一人びとりにこの御言葉を告げておられま す。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人を さばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである」。 主イエスはこう言われるのです。ご自分が「この世」においでになったのは「この世をさ ばくためではなく、この世を救うためである」と。これこそ今朝、私たち全ての者に与え られている福音の御言葉なのです。  そこで、ここに「この世」とあるのは同じヨハネ伝3章16節に「神はそのひとり子を 賜わったほどに、この世を愛して下さった」とある「この世」と同じ言葉です。それはす なわち、私たちのこの、あるがままの世界(また人生)をさしているのです。つまり、主 が救いのために来て下さった「あるがままの世界」とは、いまここに集うている私たちの 全存在・全人生そのもののことです。罪も汚れもあるがままの、神の御前に立ちえざる私 たちのことです。神の御子イエス・キリストは、罪と汚れとに満ちた、御前に立ちえぬあ るがままの私たちのため、その私たちを限りなく愛し救いたもうために「この世」に来て 下さったかたなのです。  しかし私たちは、主が言われる「この世」という大切な御言葉を本当にわかっているの でしょうか。そもそも私たちは、自分が本当に主なる神の御前に立ちえぬ者であり救いを 受けるに価せぬ存在だと、心の底から感じているでしょうか。むしろ私たちは、自分は神 に愛されて当然の者である、神が私を愛するのは自然なことだと、心のどこかで驕り高ぶ り、自分自身を頼みとしていることはないでしょうか。  そのとき実は私たちは、主イエスが「さばかない」と約束された「この世」の罪の重さ も、また「この世」に対する主イエスの恵みの確かさも知らず、ただ自分の清さに拠り頼 むだけの存在になっています。自分はキリストなど無くても正しく生きられる人間だと自 惚れているのです。だから本当の祈りの生活もありません。もし祈ることがあったとして も、それはあの取税人と自分を較べて自分を誇った、あの高慢な祭司の自己義認の祈りに すぎないのです。  実は私たちは今朝の御言葉を、安易な思いで当然のごとくに聴くことはできないはずな のです。「ああ良かった。やっぱりイエス様は愛のおかただ」というような甘えた気持ちで 受け止めることはできない御言葉なのです。しかし私たちは今朝の47節のような御言葉 に出会うと、勝手に自分を慰めてしまうのではないでしょうか。「この御言葉はよく分かる。 簡単に理解できる」と思いこむのではないでしょうか。そのとき私たちは御言葉を聴く僕 であることをやめて、御言葉を支配するパリサイ人のように立っているのです。あるいは 十字架の予告を聴いて、慌てて主イエスの袖を引き「主よとんでもないことです。左様な ことがあってはなりませぬ」と誡めたあのペテロのように、キリストを訓戒する者として 御言葉の前に立ちはだかっているのです。  そのような私たちであるからこそ、そしてそのような身勝手な「この世」であるからこ そ、主イエスは今朝の47節に続いて、48節の大切な御言葉をお語りになるのです。すな わち「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。 わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」と言われるのです。47 節の御言葉は、この48節とひとつの御言葉として読まれなければなりません。  ここに主イエスが言われる「わたしの言葉を受けいれない人」とは、どのような人のこ とでしょうか?。この「受けいれない」という字は「信じない」という意味の言葉です。 すなわち「わたしの言葉を受けいれない」とは、主イエスの御言葉を聴いても“信じよう とはしない人”のことです。耳で聞いていても心では聴いていない人のことです。それが 「わたしを捨てて」と主が言われたあるがままの「この世」の姿なのです。そして最も大 切なことは、その「この世」の姿こそほかならぬ私たち自身の姿だということです。だか ら47節でみずからを安心させてはならないのです。むしろ48節のほうにより多く心を傾 けねばならない私たちなのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。47節では、主イエスはたしかに「わたしが きたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである」と仰っておられる。 ところが次の48節になると一転して「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人 には、その人をさばくものがある」と言われるのです。主イエスは矛盾したことを語って おられるのでしょうか。私たちに理解不可能なことを言っておられるのでしょうか。  そうではありません。47節も48節も、まさしくここに集うあるがままの私たちに語ら れている福音(救いと自由と喜びの音信)なのです。どういうことなのでしょうか。それ は具体的に申しますと、48節に示されている恐るべき「さばき」を、主イエス・キリスト ご自身が私たちの身代わりとなって受け止めて下さったこと(十字架の出来事)によって、 はじめて47節の祝福が私たち一人びとりに確かなものとして告げられているのです。こ の恵みを知りえた者はもはや安易な思いで47節を読むことはできなくなるのです。  主は48節において「わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある」 と言われました。この「さばくもの」とは「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその 人をさばくであろう」と言われたように、主が語りたもうた“御言葉”そのもののことで す。御言葉が私たちを「さばく」というのは聞き慣れない表現ですが、正しい審きをお与 えになるかたは「父なる神」のみですから、この「さばくもの」とはもちろん「父なる神」 のことです。つまり「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」 と主イエスが言われたのは「父なる神」の正しい審きが今すでに、主の十字架の御言葉に よって「この世」(あるがままの私たちの全人生)に現されているのだということです。  そうすると、本当の問題は“御言葉”です。それこそ私たちが心を注ぐべき唯一の事柄 です。すでに私たちが読んだ同じヨハネ伝12章30節では、天からの御声に接して様々な 解釈をする人々に対して、主イエスは「この声があったのは、あなたがたのためである。 今はこの世がさばかれる時である」と語られました。主なる神の御言葉である福音が宣べ 伝えられることは、この世に正しい審きの「時」が来たことを全ての人々に示すことでも あるのです。その「さばき」とは、主なる神の御姿がはっきりと私たちに示されることで す。神の聖なる現臨が明らかになることです。太陽が昇ると全てのものが光に照らされる ように、私たちの隠れた悪しき行いや思いさえも、そこでは全て明るみのもとに晒される のです。  では私たちは、そのような神聖な審きに耐えうる存在なのでしょうか。そうではありま せん。あの預言者モーセでさえ、主なる神の御顔の前に立つことはできませんでした。ま して罪人なる私たちは御言葉の光に照らされるとき、どんなに醜い姿を現すことでしょう か。使徒パウロの言う「義人なし一人だになし」とはまさに御言葉の光(キリストの福音) に照らされ、聖なる神の現臨の前に顕わにされた私たちのあるがままの姿なのです。それ こそ主イエスが今朝の御言葉に言われる「この世」の内実なのです。そして主イエスは(こ こが大切です!)「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためで ある」と言われるのです。  どういうことなのでしょうか?。審かれるほかにない「この世」(私たち)を「審く」た めではなく「救う」ために主イエスが来られたとは、どういうことなのでしょうか?。そ れこそまさしく、神の御子にして永遠に聖なる救い主である主イエスが、私たちが受ける べき「審き」をご自分の身に引き受けて下さった、あの驚くべき十字架の出来事に基づく おとずれなのです。主イエスの十字架によって私たちの罪が審かれ、私たちは古き罪の自 分に死んで、キリストの復活の生命に覆われた新しいものとされたのです。キリストがお かかりになった十字架はほんらい、私たちが受けねばならなかった「審き」を神の御子み ずから身代わりになって負って下さった出来事なのです。そればかりではない。御言葉に 叛き、神を信ずることなく、おのれの正しさに拠り頼んでいた私たちの傲慢な歩みが「こ の世」生み出したあらゆる「審き」をさえも、主イエスは担って十字架上に死んで下さっ たのです。  実に主イエスは、私たち一人びとりに語っておられます「あなたの受くべき審きは、私 が身代わりになって全て引き受けた。あなたが死ぬべき永遠の死もまた、私が身代わりに なって死んだ。だからあなたはもはや審きを恐れる必要はない。終りの日の審きの座にお いてさえ、あなたは私の義を身に纏って、喜びと平安の内に立つことができる。だから安 心して行きなさい。私の平安の内を歩みなさい」。そのように主は私たち全ての者に力強く 語っていて下さるのです。  カール・バルトやボンヘッファーらと共にドイツ告白教会を組織し、第二次世界大戦の 時代にナチズムの支配に対して正統的信仰を掲げて真の教会形成と御言葉の伝道に挑んだ 神学者のひとりに、マルティン・ニーメラーという人がいます。牧師としては異色の経歴 を持つ人で、第一次世界大戦の時代、彼はドイツの潜水艦Uボートの艦長でした。それか ら神学校に入って牧師になった人です。このニーメラー牧師が自分自身のかつての体験を 綴った著書の中でこういうことを語っています。当時の潜水艦はよく事故をおこした。ち ょっとしたミスで浮力を失って海底に沈み、浮き上がれなくなることがあった。そうした 潜水艦は自分の力で浮上することはできません。外からの救助を待つほかはないのです。 ニーメラー牧師は言うのです、私たちも神の前に同じではないかと。自分自身の内側には、 自分を救ういかなる力(浮力)をも持たない存在なのです。本当の救いは私たちの内側に 根拠を持つのではなく、ただ神の御子イエス・キリストにのみあるのです。キリスト無く しては、私たちはただ罪の海底に沈むのみなのです。  主イエス・キリストは、まさにそのような私たちを救うために、みずから海底にまで降 りて来て下さった。そして私たちを下から支えて引き上げて下さった。そのためにご自分 はずたずたになって死んで下さったかたなのです。主が私たちのために「審き」を引き受 けて下さったとはそういうことです。だから植村正久牧師は「神は御子イエスの十字架て ふ痛ましき救い、痛ましき手続きをもて我等を救いたまへり」と語っています。みずから の罪の重みによりどん底まで沈んでゆくほかなかった私たちを、主イエスはご自分の全て を投げ出して救って下さった。そのために主みずからどん底にまで降って来て下さったの です。それがあのゴルゴタにおける十字架の御苦しみと死と葬りの出来事なのです。まさ に「痛ましき救い、痛ましき手続き」をもって私たちを贖って下さったのです。  今朝の47節の御言葉を安易な思いで読みえないとはそういう意味です。この御言葉に はまさしく、主イエスが私たちのために担って下さったあらゆる「審き」(十字架)の重み がかかっているからです。主はご自分の十字架の御苦しみと死の恐るべき深みの中から、 ただその愛の深みの中からのみ私たちに語っていて下さいます。「たとい、わたしの言うこ とを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたの は、この世をさばくためではなく、この世を救うためである」と!。  私たちはこの十字架のキリストに、ほんらい私たちが受けるべき「審き」を代わって引 き受けて下さったまことの神のお姿を見ます。だからこそ主は言われました「わたしを信 じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、ま た、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである」と。十字架の主イエ ス・キリストにこそ、私たちに対する神の極みまでの愛が現れているのです。私たちを救 い永遠のまことの生命を与えるために、神は独子イエスを世に賜わったのです。そこに「こ の世」の「救い」が余すところなく現されているのです。「恐れるなかれ、小さき群れよ、 御国を賜わることこそ、汝らの天の父の御心なり」と主は言われました。主イエスはまこ とに、御国から最も遠く離れていた私たちを天の御国の民として下さいました。いま私た ちはその恵みに堅く支えられ生かされつつ、クリスマスへの日々を歩む者とされているの です。