説     教   イザヤ書59章9〜11節  ヨハネ福音書12章46節

「われは光として」

2009・11・29(説教09481300)  「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じるものが、やみのうちに とどまらないようになるためである」。これが今朝、私たち一人びとりに与えられてい る主イエス・キリストの御言葉です。このヨハネ伝12章44節にもあるように、主イ エスはこれを「大声で」お語りになりました。ユダヤの過越の祭の最終日には壮麗な 光の饗宴がありました。エルサレム神殿の中庭におびただしい松明が焚かれ、その光 はエルサレムの街全体を照らしたと伝えられています。まさにその目も眩むばかりの 光の中で、主イエスは私たちに「大きな声」ではっきりとお語りになるのです。  「われは光として世に来れり」と。しかしこの「光」とは、今は輝いていてもすぐ に消えてゆく松明の光などではありません。いつまでも永遠に消えることのない「す べての人を照らすまことの光」であられる主イエス・キリストがいま、私たちのもと に来ておられるのです。それが「われは光として世に来れり」ということです。そし て「それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」 と主は言われるのです。  ヨハネによる福音書には「わたしは、何々である」という表現がたくさん出てきま す。たとえば「わたしは道であり、真理であり、命である」。「わたしはよい羊飼いで ある」。「わたしはまことのパンである」などです。私たちはそう聞くと、単なるもの の譬えだろうと思うのではないでしょうか。そうではありません。ここで主イエスが 「われは光なり」と言われるとき、それは主イエスのみが「全ての人を照らす真の光」 であられることを示しているのです。そして私たちは同じヨハネ伝8章12節におい て主が「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことが なく、いのちの光を持つであろう」と語られたことを想い起こすのです。  旧約聖書の詩篇27篇にも「主はわたしの光、わたしの救いだ。わたしはだれを恐 れよう」とあります。「まことの光」を受けることは私たちの「救い」そのものであり、 私たちは真の光なるキリストをお迎えすることによって、もはや恐れることなく勇気 と平安をもって生きる僕とされているのです。  かつてロンドンで地下鉄の火災事故がありました。大勢の犠牲者が出ましたが、亡 くなった方々のほとんどが真っ暗闇の中でパニック状態になり、出口を見いだすこと ができずに煙にまかれて亡くなったということを聞いたことがあります。普段は真昼 のように明るい地下鉄の構内も、ひとたび灯りが消えるや否や、そこは恐怖の暗闇が 支配する恐るべき空間に様変わりするのです。それは現代社会全体が持つ根本的な矛 盾を象徴してはいないでしょうか。たしかに人工の光は人間の社会から夜の闇を駆逐 したように見えます。しかしそれは皮相的な事実にすぎず、ひとたびその光が奪われ ればたちまち世界は原始の暗黒と混沌が支配する恐るべき場所に様変わりするのです。 現代社会は常に「原始の暗黒」という混沌(カオス)と隣合せの危うさを内側に抱え ているのです。  その「原始の暗黒の危うさ」が何よりも如実に現れているものこそ、今日もなおあ とを絶たぬ戦争の悲劇ではないでしょうか。戦争は人間がみずからの意思であらゆる 秩序を原始の混沌へと回帰させる破壊のわざです。そこでは「光」は「闇」に呑みこ まれるかに見えるのです。現代社会の持つ「光」がいかに弱く頼りにならぬものであ るかが明らかになるのです。圧倒的な暴力と武力の前に理性さえもその「光」を失い、 憎しみは新たな憎しみを生み出し、あらゆる言葉は詭弁となり、失われた生命は二度 と還ってはこないのです。  そこで、このような現代社会の持つ「光」の脆弱さは、実は私たち人間の内なる罪 に原因を持つのです。「まことの光」なる神から離れたままでは、いかなる意味におい ても私たちに「闇」に打ち勝つ「まことの光」はありえないからです。聖書は詩篇119 篇105節に「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」と歌っています。 私たちの存在と人生を照らす「まことの光」は人間が人工的に作り出せるものではな く、ただ神の御言葉のみが「闇」に打ち勝つ「まことの光」であることを聖書は明確 に示しているのです。  カルヴァンと同時代の16世紀スイス改革派教会の神学者エコランパディウスは、 イエス・キリストのことをヨハネ伝1章4節にちなんで「世界の光」(ルックス・ム ンディ)と呼びました。彼はジュネーヴ大学の創立者のひとりであり、世界に先駆け て貧しい人々が教育を無料で受けられる制度をスイスに確立した教育者でもありまし た。エコランパディウスとは“灯をかかげる家”という意味ですが、彼は「まことの 光」なるキリストのみを証する家(主の教会)を形成するために全力を注いだ人です。 ヨハネ伝1章4節「言に命があった。そしてその命は人の光であった」。この「言」こ そイエス・キリストのことであり、キリストの「命」である罪の贖いと復活の生命こ そ、私たちが生きるべきまことの生命なのです。  実にこのことと今朝の46節は響き合うのです。「わたしは光としてこの世にきた。 それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」。私 たちは主イエス・キリストによって贖われた者であらずして「やみのうちにとどまら ない」人生を歩むことはできないのです。私たち自身の内側にこそ闇(罪)の支配が あるからです。それどころか私たちは「光」よりも「闇」のほうを愛する者だからで す。同じヨハネ伝の3章19節が語るとおりです。「光がこの世に来たのに、人々はそ の行いが悪いために、光よりもやみの方を愛した」。私たちは生まれながらに「罪」あ る存在ですから「光」より「闇」のほうに傾く性質があるのです。川魚が海に入ると 死んでしまうように、私たちは神(まことの光)を忌避する傾向を持つ存在なのです。 「光」への拒絶反応を起こすのです。私たち人間には「光」を求める心とそれを忌避 する心の両方があるのです。そこに人間の矛盾があります。私たちは「まことの光」 に照らされてはじめてそうした自分の矛盾した姿を知ります。それこそ3章20節に 告げられている罪の真相です「悪を行なっている者はみな光を憎む。そしてその行い が明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとはしない」。  今朝のヨハネ伝12章46節は、実はヨハネ伝全体の分水嶺とも言うべきところです。 ここから主イエスの歩みはゴルゴタの十字架へと向けて早められてゆくのを私たちは 見るのです。言い換えるならそれは、主イエスに対する世の人々の憎しみや嘲りが最 高潮に達する道程でもあります。事実エルサレムの人々は最初こそ歓呼の声を上げて 主イエスを迎えましたが、この過越の祭の後にはパリサイ人らの扇動に煽られ、主イ エスを十字架にかけよと絶叫するに至ったのです。人々が期待していたのは単なる政 治的解放者としてのメシアであり、自分たちが求める救いを実現してくれる存在でし た。だから主イエスがそのようなかたではなくキリスト(十字架の主)だとわかるや 否や、人々の態度は一転して憎しみに変わったのです。  そして、それは主イエスの弟子たちも同じでした。弟子たちもまた主イエスが十字 架の予告をなさったすぐ後で自分たちの栄光を求めました。弟子たちにとっても最初 は主イエスは自分たちの願望を適えるための手段にすぎなかったのです。だからこそ 弟子たちは、十字架を担って世の「罪」を贖う道を歩もうとなさる主イエスを激しく 拒絶したのです「主よ、とんでもないことです。左様なことがあってはなりませぬ」 と言って主イエスの袖を引いて諌めたのです。  これは弟子たちだけの「罪」でしょうか?。私たちこそ本当に主イエスの下さる「命 の光」を求めているか否かが問われています。私たちは神からの「まことの光」では なく、自分の意のままになる「偽りの光」を求めていることはないでしょうか?。そ の結果、私たちは十字架のかたわらに立つのではなく、十字架を担われる主の背後か ら罵声を浴びせ石を投げ唾を吐きかけた、あの群衆の一人になっているのではないで しょうか?。私たちこそいつも自分にとって損か得かという基準だけで人生の歩みを 決めてはいないでしょうか?。遠い外国の戦争の是非を問う私たちが、実は自分の中 にこそ審きと分裂を抱えているのではないでしょうか。  そのような私たちだからこそ、そのような私たちのために、私たち全ての者を照ら す「まことの光」として主イエス・キリストは来て下さいました。だからこそキリス トは「世の光」(lux mundi)なのです。キリストのみがこの世の全ての者の「罪」を 贖い、死から生命へとよみがえらせ救うために、この世の最も低いところにまで降り て来て下さった「まことの光」であり、私たちの存在を内側から照らす「人の命」な のです。チェコ改革派教会の神学者ロマドカは、キリストの福音は「無神論者のため の福音」であると語りました。それは「福音」とは、神から最も遠く離れていた私た ちのもとにキリストが率先して訪ねて来て下さった出来事だからです。それこそ使徒 信条が告白する「陰府に降り」という出来事なのです。この「陰府」とは私たちの「罪」 と「死」の暗黒です。あらゆる秩序が虚無に服し、あらゆる存在が意味を失い、全て が闇に呑まれてしまう所です。それならばまさにキリストは、その「陰府」という名 の罪の深淵にまで降りて来て下さり、その深淵を「まことの光」をもって照らして下 さったかたなのです。  そこに、私たちの限りない「救い」の確かさがあります。そこに、私たちの教会が 宣べ伝える「福音」の本質があります。まことの神は「神なき者のための神」なので す。そして教会は礼拝において全ての人々に開かれ、全ての人々をキリストへと招く 神の家(福音をかかげる神の家)なのです。私たちはキリストがあなたのために来て 下さったという福音の事実において、みずからの人生が常に「神われらと共にいます」 祝福のもとにあることを知らされているのです。神なき世界が十字架の主によって、 まことの神の愛と祝福を物語る世界に変えられているのです。光なき人生、光を失っ た世界、光を憎んでさえいた私たちが、そのあるがままに「まことの光」なるキリス トの恵みのもとに、もはや「やみのうちにとどまらない」存在とされているのです。  同じヨハネ伝の8章12節でも主は「わたしに従って来る者は、やみの中を歩くこ とがない」と約束なさっておられます。それゆえに主イエスは今ここで私たち一人び とりに告げておられます。「あなたがたは、世の光である」と…。私たちは戸惑い恐れ ざるをえません。いったい誰のことを主は語っておられるのだろうか?。自分はとて も「世の光」などと主に呼んで戴けるような存在ではない。そのように私たちは思う ほかないからです。  しかし、主イエスはまぎれもなくこの私たちに告げておられる。しかも「大きな声」 で!。「わたしを信じる者は、もはや、やみのうちにとどまることがない」と…。キリ ストを信じて生きるとは、測り知れぬ十字架の愛をもって私たちの「罪」を贖って下 さったキリストの真実に対し「アーメン」と応答することです。そしてキリストの御 身体なる教会に連なり礼拝者として歩むことです。そのとき私たちは何のいさおもな きままに、キリストの復活の生命に結ばれた者とされています。もはや決して「やみ のうちにとどまることがない」者とならせて戴いているのです。すでにいま私たちは そのような「光の子」としてここに招かれているのです。キリストの限りない祝福の もと、御言葉を賜わり、御言葉によって新たにされ、新たな一週間の旅路へと遣わさ れてゆくのです。そこに私たちの全てにまさる喜びと感謝があり、自由と幸いと平安 があることを覚えます。  「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにと どまらないようになるためである」。これこそまさしく私たちへの、そして全世界の 人々への、確かな救いの約束なのです。ただ神にのみ栄光がありますように。