説    教   エレミヤ書17章5〜8節  ヨハネ福音書12章44〜45節

「福音の中心」

2009・11・22(説教09471299)  今朝の御言葉(ヨハネ伝12章44,45節)はキリスト教の中心とも言える、非常に大 切な御言葉です。ここでまず主イエス・キリストは「大声で言われた」と記されていま す。主イエスが声を大きくして語られるとき、それはいつも福音の宣教の時です。私た ちの、そして全世界の「救い」に直結する大切な御言葉が、いま宣べ伝えられるのです。  主イエスは言われます「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを つかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされた かたを見るのである」。これこそいま、主イエスが私たちに「大声で」告げておられる事 柄です。私たちはいまこの御言葉を正しく聴く群れとして、ここに招かれているのです。 まず「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされたかたを信 じるのである」とは、どういう意味でしょうか。  皆さんの所にある日、一通の手紙が届くとします。そのとき皆さんがまずすることは、 封を切って手紙の中身を読むことではないでしょうか。私のところにも毎日たくさんの 手紙や文書が届きます。その中でも大切な手紙は、妻がきちんと束にして保存していま す。先日その量を調べたら大きな段ボール箱に幾つもあるのに驚きました。すでに天国 に召されたかたの手紙もたくさんあります。捨てられないのです。  そこで、手紙でいちばん大切なのはその内容です。書いてある事柄(メッセージ)で す。考えてみると、手紙とは実に不思議なものだと思うのです。物質的に見るならそれ は小さな紙切れにすぎません。しかし私たちはそれを紙切れとして受け取るのではなく、 それを送ってくれた人のメッセージを読み取ります。言い換えるなら私たちは手紙を通 して、それを送ってくれた人の“心”を受け取るのです。だから手紙は大切なのです。  それと同じように、主イエス・キリストは、父なる神が限りない愛をもって全ての人々 にお送り下さった「手紙」(メッセージ)です。言い換えるなら、主イエス・キリスト御 自身が全世界への「福音」(喜びの手紙)そのものなのです。だからこそ主イエスは、御 自分はただ父なる神のメッセージ(福音)として世に「遣わされた」者であり、大切な ことは「福音」そのものにあるのだと言われるのです。その大切な福音の中身こそ主イ エス・キリスト御自身なのです。  それゆえ、主イエスは今朝の御言葉において、私たちにはっきりと「大声で」語られ ます。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされたかたを信 じるのである」と。主イエスは私たちにこのように言われるのです。「わたしという手紙 を受け取った人は、わたしを通して全世界に現わされた、父なる神ご自身の、限りない 愛と祝福を受け取るのである」と。  これは非常に大切なことです。なぜなら、目に見えない神をいかに確かに“信じる” かということこそ、実はあらゆる人間にとっていちばん重要な課題だからです。ある人々 は、神は目に見えないから存在しないのだと言います。またある人々は、神は信ずる人 にとっては存在するが、信じない人にとっては存在しないのだと言います。またある人々 は、神というものは結局は人間の理想や願望が描いたイメージにすぎないのだと主張し ます。  しかし聖書は、これら全ての迷いを払拭する、はっきりした確かな答えを私たちの世 界に告げています。それは、父なる神が世に「遣わされた」主イエス・キリストという 「手紙」を受け取った人は、確かに、まことの神にいま出会っているのだということで す。イエス・キリストという「福音」を受け取った人は、まことの神の限りない愛と祝 福を知る者とされているのだということです。  私たちが、受け取った「手紙」によって書き送ってくれた人の「心」を読み取るのと 同じように、私たちは、神が遣わしたまいし主イエス・キリストによって、何ものにも まさって確かに、神の聖なる愛と祝福、私たちに対する「救い」の御業と、死にたる者 をも甦らせて下さる恵みを、いま知る者とされているのです。その逆に、主イエス・キ リストを通してでなければ、私たちはどのような方法をもっても、たとえこの世の最高 の知恵と哲学においてさえ、まことの神を知ることはできません。イエス・キリストの みが、まことの神のお姿を私たちに示して下さるのです。このことをカルヴァンは「主 イエス・キリストを知る者は、まことの神を知る者であり、主イエス・キリストを信じ る者は、まことの神を信じる者である」と申しています。  次に、今朝の御言葉の45節「また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかた を見るのである」とは、どういう意味でしょうか。そもそも、主イエスが言われる「見 る」とは、いったいどのようなことなのでしょうか。  もともとのギリシヤ語を直訳しますと、この「見る」とは「認識する」または「認め る」という意味の言葉です。しかし、ただそれだけのことではありません。主イエスが ここで言われる「見る」とは、単に肉眼において「見る」とか「認識する」というだけ ではなく、さらに深い意味において「発見する」または「目が開かれる」という意味を 持つからです。  この場合「目が開かれる」とは、私たち自身が何か「悟り」のようなものを“開く” ということではなく、主イエス御自身がはかり知れない憐れみをもって、私たちの閉ざ された心のまなざしを「開いて下さる」という意味なのです。すなわち主イエスはこの 45節において、このように語っておられるのです。「あなたが人生の旅路において、わ たしに出会うとき(見いだされるとき)、そのときあなたは、まことの神へと向けてあな たの目を開くであろう」と。  すると、私たちにようやく、今朝の御言葉の44節と45節は別々の2つの事柄ではな く、ひとつの「福音」を物語っているということがわかるのです。それは、まことの神 を正しく「信じる」ことは、まことの神のまことの御子イエス・キリストが、私たちの 閉ざされた心の目を「開いて下さる」ことにおいてのみ、実現する「救いの御業」なの だということです。それは少しも私たち自身のわざではないのです。キリストの愛と恵 みの御業なのです。ただそれだけが、私たちをまことの神へと導き、私たちの心の目を、 まことの神へと向けて開かしめ、私たちをまことのキリストの弟子とするのです。  今朝の御言葉の少し後のヨハネ伝14章9節以下に、主イエスが弟子のピリポに語ら れた御言葉が記されています。主イエスに対して「主よ、わたしたちに御父を示して下 さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」と申したピリポに、主イエスはお 答えになって言われました。「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わ たしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたし たちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられること をあなたがたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話し ているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっておられるのである。 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」。そして主は、続けてこの ように語られました。「もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさ い」。  ここに、今朝の御言葉を正しく読み解く重要な鍵があります。それは「もしそれが信 じられないならば、わざそのものによって信じなさい」と主が言われたことです。私た ちもまた、ピリポのように不平を言うのです。「主よ、私たちに御父を示して下さい。そ うすれば信じます」と言うのです。人生のさまざまな苦しみや悲しみの中で、神の恵み と祝福を私たちは簡単に見失ってしまう。御父なる神がなぜ共にいて下さらないのかと、 疑いを起こしてしまうのです。そのとき、いつでも私たちの閉ざされたまなざしの傍ら に立って、私たちを呼んで下さる主の「大きな御声」が聴こえるのです。主が「叫んで」 下さる御声によって、私たちは目覚めるのです。「わたしを信じる者は、わたしを信じる のではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、 わたしをつかわされたかたを見るのである」。そして、主ははっきりと私たちに言われま す。「もしそれが信じられないなら、わざそのものによって信じなさい」と。  主はいま私たちにはっきりと語っていて下さる。「あなたはすでに、信じる者とされて いるではないか」と。「あなたが眠りから覚めるべき時は、すでに来ている。それは、わ たしがあなたのために、あなたのもとに来たからだ。あなたが福音による自由と平安に 生きる時がいま来ている。それはわたしが、あなたのために、あなたの罪の全てを担っ て、呪いの十字架にかかったからだ。あなたがまことの神に拠り頼んで、新たに生きる べき時がすでに来ている。それはあなたが、わたしの愛と祝福を知る者とされているか らだ。あなたがわたしを見て、死から生命へと甦るべき時がすでに来ている。それはわ たしが、暗黒の中に倒れているあなたの存在を見いだし、あなたの身代わりとなって死 んだからだ」。  主は言われます。「わたしは、あなたの全存在を照らす『まことの光』として、あなた のもとに来た」と。その「まことの光」の出るところ、それこそあの、ゴルゴタの上に 立てられた十字架の出来事なのです。神の御子イエス・キリストが、私たちの罪の身代 わりとなって、私たちのために死んで下さったことです。それが「わざそのものによっ て信じなさい」と言われた、主イエスの「わざ」にほかなりません。そこで、主が言わ れた「もしそれが信じられないなら、わざそのものによって信じなさい」とはこういう 意味です。もしあなたが人生の戦いの中で、まことの神の愛の御手を見失い、神の祝福 を疑うことがあっても、あなたはその疑いをも、不信仰をさえも、わたしの手に委ねな さい。そして私の声を聴きなさい」。そのように主は語っておられるのです。主は言われ る「あなたのために十字架にかかった、わたしの“わざ”は、あなたの不信仰よりも強 いのだ。あなたを愛し、あなたを祝福するわたしの“わざ”は、あなたを支配するいか なる罪の力よりも強いのだ。だから安心して、わたしに全てを委ねなさい」。そのように われらの主は「大声で」仰せになっておられるのです。  私たちは自分自身を顧みるとき、罪と死に対して何の力も持ちえない弱い存在です。 神を信じ、神を見ることなど、とうていできない者です。しかし私たちの“わざ”では ないのです。キリストの御業が、あの十字架における罪の贖いの御業が、私たちのより 頼むべき、永遠に変ることのない唯一の力であり、希望であり、慰めなのです。ただキ リストの“わざ”によって、私たちはまことの神を「信じる」群れ、そしてまことの神 の愛と祝福と恵みの御支配を「見る」群れとされているのです。いまそのような群れ(主 の教会)として、私たちはここに招かれているのです。  教会は、十字架によって全ての罪と死の支配を打ち砕いて下さり、復活によって永遠 に勝利して下さった、神の御子イエス・キリストの御身体です。ここに連なり礼拝者と して生き、御言葉に養われる私たちは、キリストの限りない生命に結ばれた復活の共同 体であり、神の祝福の担い手とされているのです。私たちはこの教会によってのみ、主 が私たちの罪の贖いのためになして下さった全ての愛の“わざ”を信じる者とされてい ます。主の救いの“わざ”を見る者とされています。そして、まさにそのことによって、 私たちは、主イエスを世にお遣わしになったかた、まことの父なる神を「信じ」神を「見 る」者とされているのです。  それが、今朝の御言葉において、主が「大声で」伝えていて下さる「福音の中心」な のです。ここに私たちは根ざし、ここに日々の生活の基盤を与えられ、力と勇気と慰め とを戴いて、新しい一週間の生活へと、恵みによって遣わされてゆきます。キリストの 限りない祝福を戴いて、死に打ち勝つ生命に覆われて、共に信仰の歩みを、心を高く上 げて続けて参りましょう。