説     教   詩篇62篇5〜7節   ヨハネ福音書12章42〜43節

「人からの誉と神からの誉」

2009・11・15(説教09461298)  今朝、私たちはヨハネ福音書12章42節と43節を与えられました。そこにこのよう に記されています。「役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人を はばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼ら は神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである」。  ここには、どういうことが現されているのでしょうか。まず「役人たち」とはユダヤ の政治的宗教的な指導者たちのことです。国家の舵取りをする重要な務めに任じられた 人々です。今日流に言えば国会議員です。それは「パリサイ派」と「サドカイ派」とい う2大政党から成り立っていました。「役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かった」 と言うのは、この「パリサイ派」や「サドカイ派」の中にも、主イエスを密かに信じた 者が少なくなかったということです。私たちは改めて意外な思いを抱きます。特に「パ リサイ人」と言えば、何かにつけて主イエスに敵意を抱き、主イエスを殺そうとしてい た人々だからです。 その人々の中にさえ主イエスを信ずる者が少なからずいた…。驚きですが、問題はそ の人々も「パリサイ人をはばかって、告白はしなかった」ということです。つまり彼ら は密かにイエスをキリストと信じたけれども、仲間うちの評判をはばかり、決してその 信仰を公にしようとしなかったというのです。要するに仲間はずれにされることを恐れ たのです。それが「会堂から追い出されるのを恐れていた」とあることです。この「会 堂」とは“シナゴーグ”と呼ばれるユダヤ教の会堂のことです。私たちキリスト教の礼 拝堂とは違い、誰がどこの席に座るかあらかじめ決められています。社会的に地位が高 い人、いわゆる“偉い人”から順に前に座るのです。  もうずいぶん前のことですが、私は東京の西麻布にあるユダヤ教のシナゴーグを訪ね たことがあります。そこでも座席の背に真鍮の名札が付いていて、イスラエル大使館の 外交官とか、そういう地位の高い人から順に座るよう席順が決められていました。正面 には赤いカーテンがあり、その奥にトーラー(律法=モーセ五書)の巻物が納められて います。そのカーテンには申命記4章4節と5節「イスラエルよ聞け、われらの神、主 は唯一の主なり。汝心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、汝の神、主を愛すべし」 とヘブライ語で記されています。私を案内してくれたユダヤ人の青年が「これを読める か?」と訊くので私が読みますと彼は驚いていました。 今朝の御言葉の「役人」たちは、自分たちが与えられた“権威ある席”から追い出さ れることを「恐れた」のです。主イエスを「神の子=キリスト」と信ずる信仰があって も、それを公に口にして会堂内の“権威ある席”を失うことを恐れるあまり「告白はし なかった」のです。それが「パリサイ人をはばかって」ということです。すると、どう いうことになるのでしょうか。彼らはたとえ心の中で主イエスを信じていたとしても「会 堂から追い出されるのを恐れて」告白しなかったわけですから、それは“信じていない こと”と同じなのです。つまり、彼らにとって神の子イエス・キリストではなく社会的 な地位や権威が(または自分が)「主」であったわけです。地位や権威を捨ててキリスト に従うよりも、キリストを捨てて地位や権威を保つことを選んだのです。それが彼らの 「恐れ」の内容でした。  そして、その彼らの「恐れ」についてヨハネは今朝の43節で「彼らは神のほまれよ りも、人のほまれを好んだ」と記しているのです。この「ほまれ」とはもともとの言葉 では「称賛」または「栄光」を意味するギリシヤ語です。つまり「神のほまれ」とは“神 からの称賛と栄光”であり「人からのほまれ」とは“人間からの称賛と栄光”です。そ して「好んだ」とは「愛した」という意味の字ですから、彼らは神を愛していたのでは なく、人間から与えられる「ほまれ」を愛していたのです。それを失うぐらいならキリ ストを捨てること、つまり会堂の中で仲間たちに称賛され名誉ある席にとどまることを 選んだのです。  さて、ここに私たちは何を見るのでしょうか。私たちは政府の閣僚でもなくユダヤ教 の会堂に属する者でもないから、今朝の御言葉の「役人たち」とは何の関係もないので しょうか?。そうではないと思います。ここには紛れもなく私たち自身の姿が描き出さ れているのです。私たちもまた、主イエスを心の中で密かに信ずるのみで、口で告白し て信仰を公に現わすことを「はばかって」いることはないでしょうか?。今朝の御言葉 の「会堂」を、地域社会、隣近所、職場の仲間や友人たち、家族や親戚、その他いろい ろな人間関係に当てはめてみればよいのです。そのとき私たちもまた、自分を取巻く多 くの人間関係の中で、キリストへの信仰を(告白を)「はばかって」いることはないでし ょうか?。少なくとも、私たちがキリスト者であるということを、私たちに接する全て の人が一人残らず知っているでしょうか。そう問われるとき、実はうつむいてしまう私 たちなのではないでしょうか。  ここにいる私たちこそ、今朝の御言葉の「役人たち」の姿に重なり合うのです。もち ろん自分の信仰をひけらかす必要はありません。しかしひけらかさずとも、おのずから 現れる信仰(キリスト)の香りを持っていないとすれば、それこそ問われねばなりませ ん。他の誰でもなく私たちこそ「神のほまれよりも、人のほまれを好んで(愛して)」い ることはないでしょうか。「人からのほまれ」を失うことを恐れ、キリストへの信仰が自 分の利益であるという条件においてのみ、キリストに連なっている私たちになってはい ないでしょうか。  キリスト者であることが“人からの誉”(人間からの称賛)を受けているうちはキリス トに従う、しかしひとたび信仰が“人間からの称賛”を自分から遠ざけるものになると き、それを「恐れる」あまりキリストを捨ててしまうとすれば、それは「信仰」ではな く単なる知識や教養にすぎないのです。「キリスト者であることを隠していよう」という 思いを心に抱くとすれば、それこそ「パリサイ人をはばかって、告白はしなかった」あ の「役人たち」の姿と同じになるのです。私たちは主なる神ではなく「人からのほまれ」 と人々からの称賛を「恐れ」「はばかって」いることはないでしょうか。それが私たちの 「主」となっていることはないでしょうか。  パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りました。ローマ人への手紙1章16節 です。パウロがこう語っているのはキリストに贖われた喜びからですが、もうひとつ、 当時のローマの教会に「福音を恥とする」人々が大勢いたことが背景にあるようです。 もっとも私たちも「あなたはキリストを恥ずかしいと思いますか?」と問われたなら、 たぶん「いいえ」と答えるでしょう。しかし「福音を恥とする」とは「キリストを恥ず かしく思う」ということではなく「キリストを信じる自分の信仰を、人々の手前、隠し ていたいと思う」ことです。それならば私たちもまた「福音を恥としている」のではな いでしょうか。  試みに、ただひとつのことを問うてみれば良いのです。私たちは自分の隣に住む人に、 隣でなくても良い、親しい人に本気で福音を語ったことがあるでしょうか。隣人を教会 に誘ったことがあるでしょうか。それよりも私たちは隣人と“よい関係でいたい”と思 うあまり、つまり“隣人からの誉”を失いたくないと「はばかる」ばかりに、隣人に対 してキリストの福音を「恥としている」ことはないでしょうか。 あるいは、こういうこともあるかもしれない。先日の全国連合長老会教師会で一人の 牧師が発題されていたことです。その先生が牧会をされている教会(神奈川県の教会) で、数人の人たち(元長老と現任長老とその夫人)が猛烈な牧師批判をはじめた。教会 総会でもそれが噴出した。長老会にその人たちを呼んで話を聞いた。過去の細かい事例 まで挙げて牧師批判を繰返すのみだった。その人たちはその後も教会中の人たち、味方 をしてくれそうな外の人にも電話をかけまくって自分たちの正当性を訴え、牧師が辞任 するよう画策をした。しかし最初は動揺した教会員もついに動じなかった。長老会が(8 名中6名が女性だそうです)一貫して謙遜に問題にあたり、落着いて牧師を支え、御言 葉に忠実に礼拝を整えることに徹したからです。牧師も長老会も教会員もみな「人から の誉」ではなく「神からの誉」を求めて揺るがなかったのです。 コリントやエペソだけではなく、ローマの教会にもそういう出来事があったのだと思 うのです。「神からの誉」ではなく「人からの誉」を求める思いがいつのまにか蔓延して いたのです。キリストなしでも自分はやってゆける(救われる)と自惚れるとき、神を 信じなくても自分は正しい人間でいられると“自分に誉を与える”とき、その信徒は(ま た教会は)伝道の力を失います。それが伝道のわざを妨げ、教会生活の喜びと祝福を妨 げるのです。教会にせっかく新しい人が来ても、もしその教会が人間の思いに「ほまれ」 を与え、牧師批判やいざこざを起こしていたら、その人はもう教会に通いたいとは思わ なくなるでしょう。そうした事例を知るゆえに牧会者としてパウロは「わたしは福音を 恥としない」と語らざるをえなかったのです「わたしは福音を恥としない。それは、ユ ダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。 「福音を恥とする」ことは、私たちのために十字架にかかって下さったキリストの贖 いの恵みを「恥とする」ことです。私たちはかつては一人の例外もなく、この私のため に十字架を担って下さった主に向かって「十字架につけよ」と罵り叫んだ群衆の一人と して生きていました。しかし今は主の御身体なる教会に招かれ、私たちは主の十字架の かたわらで「まことにこの人は神の子であった」と告白した百卒長、また会堂の離れた 場所で胸を打ちつつ「主よ、罪人のわたしをお赦し下さい」と祈ったあの取税人の信仰 に生きる僕とされているのです。  テレビや新聞で連日のように、重い犯罪をおかした人たちのことが報じられています。 もしも自分の家族、または友人や知人にそういう犯罪者が出たら、私たちはどう対応す るでしょうか。それこそ「お前は恥だ」と言いたくなるに違いありません。ここで改め て私たちは神の恵みに「畏れ」を抱きます。神は私たちを「お前は恥だ」と言って見捨 てたもうたでしょうか?。そうではありません。神は私たちを極みまでも愛して下さい ました。私たちの罪を贖うために主イエス・キリストは血まみれになって十字架に死ん で下さいました。神の前に罪をおかしていた私たちが神の御前に健やかに立ちうるため に、主イエスみずからが贖いとなって下さったのです。そして罪人のかしらなる私たち にはっきりと語って下さったのです。「わたしはあなたを恥としない」と。 神は本来は恥ずべき「罪人のかしら」なる私たちを、御子イエスを賜わったほどに愛 し抜いて下さったのです。私たちの「救い」のために御自身の全てを献げて下さったの です。このことをヘブル書11章16節はこう告げています「神は、彼らの神と呼ばれて も、それを恥とはされなかった」。それどころか、私たちを主の復活の御身体なる教会に 迎え、キリストによる本当の生命の幸いに連ならせて下さったのです。私たちをあるが ままに「わが子よ」と呼んで下さるのです。  この恵みによって生命を与えられた私たちは「人からの誉」ではなく「神からの誉」 を生活の中心にします。何よりも、唯一のまことの主なる神からの「救い」という「キ リストの栄光」を与えて戴いた私たちなのです。ガラテヤ書1章10節を心に留めたい と思います「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれよう としているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の 歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」。  いま私たちはただ「キリストの僕」としてこの教会に連なっています。いつも十字架 の主のみを仰いで健やかに立つ者でありたく思います。キリストのみを永遠の誇りとし、 喜びとし、幸いとし、誉として、私たちは誰に対しても「はばかる」ことなく、恐れる ことなく、キリストの愛と祝福を現わす一人びとりにされていることを感謝し、ただ主 の御名を崇めたいと思います。