説    教  イザヤ書6章9〜10節  ヨハネ福音書12章39(b)〜41節

「旧約聖書とキリスト」

2009・11・08(説教09451297)  旧約聖書の預言者は、神の御言葉を正しく聴き、それを正しく人々に宣べ伝えるた めに神によって召された人々です。イザヤはその一人として今から約2500年前にイ スラエルで活躍しました。預言者の「預言」とは「未来のことを予言する」という意 味ではなく「神の言葉を預かる」という意味です。主なる神の言葉を預かり、正しく 人々に宣べ伝えることこそ、預言者の務めでした。  それでは預言者が“預かった”神の言葉の内容はどのようなものだったのでしょう か。それは何よりも、来るべきまことの救い主・神の御子イエス・キリストの来臨と その救いの御業を世に証するものでした。ですから「預言」とは正確に言うなら「神 の御子、イエス・キリストを世に証する言葉」です。それが「預言」という言葉の本 来の意味なのです。その意味では「預言」という言葉は、イエス・キリストを唯一の 「主」と告白するキリスト教会においてのみ正しく用いられる言葉なのです。新約聖 書で教会の礼拝における説教の務めを「預言」と呼ぶのも、それがイエス・キリスト のみを証する言葉だからです。  ところで、旧約聖書の元々の言葉(ヘブライ語)で「預言者」をあらわす幾つかの 言葉の中に「見る者」を意味する“ローエー”という言葉があります。「先見者」とも 訳されます。この「見る」という言葉もまた、来たるべき救い主・イエス・キリスト の御業を「見る」ことです。ですから「先見者」とは「キリスト来臨の恵みを、前も って知らしめられた者」という意味なのです。まことの神が、いかに限りない愛と慈 しみをもって私たちを愛しておられるか。その神が私たちを罪から救うために、いか に尊い救いの御業をなして下さったか。いわばキリストの御降誕と御生涯、そして十 字架と復活の出来事を、神から預かった御言葉によって「見た」者こそ「預言者」(つ まりローエーと呼ばれた人々)でした。  そこで、今朝の御言葉であるヨハネ伝12章41節には「イザヤがこう言ったのは、 イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである」と語られていま す。ここにこそ「預言者」の務めの本当の意味が明らかにされているのです。つまり キリストがお生まれになる500年以上も前に、すでに預言者イザヤは「預かった神の 言葉」によって「イエスの栄光を見た」のだと言うのです。彼は「イエスのことを語 ったのである」とヨハネは告げているのです。  それならば、私たちはいま預言者イザヤと共に、主イエス・キリストの「栄光」を 「見る者」としてこの礼拝に招かれています。礼拝とは、御言葉と聖霊によってキリ ストの「栄光」を「見た」者たちの喜びと感謝の集いです。そのことは、すでにこの ヨハネ伝の冒頭の1章14節にも記されているのです。「そして言は肉体となり、わた したちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての 栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」とあることです。  イザヤはそのような預言者の一人として、御言葉によって「父のひとり子としての (主イエスの)栄光」を見た人です。それは「めぐみとまこととに満ちていた」と言 うのです。しかしその「満ちていた」とは過去のことではなく、いま現在のことなの です。なぜならこの「めぐみ」とは、キリストの十字架による私たちの「罪」の贖い の出来事であり、「まこと」とは、滅ぶべき私たちを愛し、御自身の生命を献げて下さ ったキリストの愛の真実をさしているからです。今ここに私たちはこの礼拝によって、 預言者イザヤが見たのと同じ、キリストの限りなき「めぐみ」と「まこと」を「見る」 者とされているのです。  さて、そこでこそ私たちは、まことに不思議な御言葉に出遭います。それは今朝の 40節に「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見 ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」とあることです。こ れはどういう意味なのでしょうか?。ともするとこれを私たちは短絡的にこう理解し てしまいます「神は私たちの目を見えなくし、心をかたくなにさせたもう。それは私 たちをもはや、救われることのない者(滅びに定められた者)とするためである」。す ると今朝のこの御言葉は「福音」(救いのおとずれ)ではないことになります。主なる 神の願いは私たちの「救い」にあるはずです。その神がどうして、私たちの目を閉ざ し、心を頑なにさせて、悔改めて癒されることのない者にされるのか…。矛盾した言 葉に思えてならないのではないでしょうか。  そこで私たちは改めて、この40節の元になったイザヤ書の6章9節と10節を読ん でみたいと思います。そこにはこのように記されているのです。「主は言われた、“あ なたは行って、この民にこう言いなさい”、『あなたがたはくりかえし聞くがよい。し かし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはなら ない』と。“あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしな さい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされ ることのないためである”」。  これこそ、預言者イザヤが預かった主なる神の御言葉です。「イエスの栄光」を「見 た者」の言葉です。私たちはこの御言葉の読みかたに気をつけたいのです。主なる神 はここに、僕である預言者イザヤに、あなたの務めは「この民の心を鈍くし、その耳 を聞えにくくし、その目を閉ざす」ことだと言われます。これは常識を覆す驚くべき 言葉でした。当時のイスラエルの人々は誰でも預言者の務めとは、人々の心を研ぎ澄 まし、聞く耳を養い、目をしっかり開かせることにあると思っていたからです。しか し神がイザヤに命じられたことは、その正反対のことでした。「わたしがあなたを民の 中へと遣わすのは、そこで人々の心を鈍くし、彼らの耳を聞こえにくくし、彼らの目 を閉ざすためである」と言われるのです。それはどのような意味なのでしょうか?。 なぜ神はイザヤにそんなことを命じられたのでしょうか?。  それは、私たちの唯一真実の「救い」は、ただ主イエス・キリストにのみあるので あって、少しも私たち自身にあるのではないということ。それこそが聖書が私たちに 宣べ伝えている変わらぬ「福音の真理」だからです。たとえ私たちが、自分自身の「心」 をどんなに鋭く磨き上げ、心の「耳」を開き、また「眼」(まなこ)を清らかにしようと も、その行き着く先に私たちの「救い」は少しもないのです。人間の努力精進の果て に私たちの「救い」があるのではないのです。そこを間違えると大変おかしなことに なるのです。キリスト教とは言っても、ただ道徳に熱心で行儀の良い模範生の群れと いうだけになってしまうのです。パリサイ人と同じになってしまうのです。教会は模 範生の群れでもなければ「義人」の集いでもありません。教会は「主に贖われた罪人 の群れ」であり「キリストのみを唯一のかしらと仰ぐ復活の共同体」です。私たちの 生命は私たち自身の中にではなく、主なるキリスト・イエスの中にあるのです。私た ちはこの教会において復活のキリストに結ばれ、天の永遠の御国における復活の身体 を先取りさせて戴いているのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。預言者(すなわち説教者)の真の務め とは何なのでしょうか?。それは人間が自分の内側にあると幻想を抱いているあらゆ る空しい「偽りの救い」に対して、断固として引導を渡すことです。言い換えるなら 「救い」はただ十字架と復活の主イエス・キリストにのみあることを鮮明に宣べ伝え ることなのです。  古代イスラエルもそうでしたが、現代というこの時代こそ、間違った人間復興(ル ネッサンス)が声高に叫ばれるまことに危険な時代です。遺伝子操作によるクローン 人間の製造さえ可能になった時代です。人間が自分の勝手な意志により、自分のコピ ーを捻り出すことさえ現代の科学技術は可能にしたのです。ではそうした技術によっ て「作られた」生命体(人間)が自分の存在の根拠を問うたとき、誰がその答えを持 ちうるでしょうか。またその人が人生において担わねばならない苦しみや悲しみに対 して、誰が最後まで責任を負えるのでしょうか。その言語に絶する恐ろしさと悲劇を 予測する柔軟で謙虚な心を現代人は求められています。私たちは今日というこの時代 においてこそ、創世記の「バベルの塔」と同じ(否それ以上の)人間の思い上がりと 驕りの巨塔を築き上げようとしているのです。  まさに、そのような危うさ・弱さ・暗さの中に生きる私たち全ての者に、主なる神 ははっきりと告げていて下さるのです。「これは彼らが(あなたが)自分の目で見、自 分の耳で聞き、自分の心で悟り」悔改めて癒される、そんな「偽りの救い」などでは ないと…。ここに私たちの思いを遥かに超えた「キリストの福音」による唯一の慰め と自由のおとずれがあります。主なる神はこう言われるのです「あなたはもはや、あ なた自身の目や耳や心を、あなたの“救い”の根拠としてはならない。あなたを救う 者は、ただわたしであって、わたし以外の何ものでもない」と、そのように主なる神 ははっきりと告げていて下さるのです。  主イエスは「中風」のため寝たきりであった人に「子よ、しっかりしなさい。あな たの罪は赦されたのだ」と言われ、彼を死の床から立ち上がらせて下さいました。今 まで自分を縛りつけていた死の床から、この人は主イエスによる罪の赦しの恵みを戴 いて、まさにキリストの「めぐみとまこと」によって立ち上がらせて戴いたのです。 私たちも同じではないでしょうか。罪と死の支配する中で、たとえどんなに私たちの 目や耳や心を研ぎ澄まそうともそれは空しいのです。「悔改め」も「いやし」もそこに はありえません。なぜなら「悔改め」とはキリストを信じて神に立ち帰ることであり、 「いやし」とはキリストの義を身に纏うことだからです。  私たちの唯一の「救い」はただ神の御子イエス・キリストにあるのです。この単純 な恵みの事実に繰返し立ち帰ることが、私たちの人生に本当の喜びと自由と平安と勇 気を生み出すのです。私たちは愚直なまでにひと筋に、十字架の主のみを仰ぎ続ける 信仰者でありたいのです。私たちの目を、耳を、心を、御言葉によって新たにして戴 かねばなりません。イエス・キリストの「めぐみとまこと」によらずして、私たちは いかなる手段をもってしても「福音を聴いて信ずる者」とはなりえないのです。その 逆に、たとえ私たちに何ひとつ取柄がなくても、なにも誇るべきものがなくても、私 たちが主イエスを信じ、主の御身体なる教会に連なって歩むとき、私たちは無条件で 「神の民」とならせて戴けるのです。主が「めぐみとまこと」をもって私たちの全存 在を覆って下さるのです。  このヨハネ伝をよく読みますと、いつでも主は御自分の十字架をおさしになって「わ たしの栄光」と呼んでおられることがわかります。イザヤが世に証した「イエスの栄 光」とはゴルゴタの十字架の出来事なのです。それこそ全ての人を救う神の「めぐみ とまこと」にほかならないのです。私たちのために神御自身が限りなく身を低くして 下さった出来事です。私たちの「罪」と「死」を担い取って下さった主の御姿です。 そして復活によって罪と死に永遠に勝利して下さった主の御姿です。そこにのみイザ ヤは来るべき「栄光」(全世界の救いと自由)があることを証し、その「福音」を全て の民に宣べ伝えてやまなかったのです。そこに私たち全ての者の「救い」と「生命」 があるからです。そこに、私たち全ての者の「喜び」と「平安」があるからです。い まこの礼拝において、私たちはその「栄光」に与っているのです。