説    教    イザヤ書53章1〜6節   ヨハネ福音書12章36(b)〜39節

「恵みへの飛躍」

2009・11・01(説教09441296)  私たちの人生には、時に重要な決断を迫られることがあります。昔から思い切って決断する ことを「清水の舞台から飛び降りる」などと申します。それほどの勇気と決意を必要とするか 否かは別として、私たちの人生は決断の連続であると言うことができるのです。  ヨーロッパの田舎町に参りますと、道路が二つに分かれたところに、よく十字架のキリスト 像が立てられているのを見ます。日本で言うなら道祖神か地蔵尊のような感覚でもあろうかと 最初は思いました。しかしそれだけではない意味がそこにはあると思うのです。それは「分か れ道」は、実は私たちの人生そのものを意味しているということです。外国語で“危機”を意 味する言葉の多くは“分かれ道”という意味のラテン語に由来しています。人生の“分かれ道” において、私たちは本当の意味で“危機”に直面するのです。大切な決断を求められるのです。  それなら、いかにしばしば私たちは、その大切な決断において誤りをおかすことでしょうか。 右に行くべき道を左にとってしまう。目先の利益だけで間違った方向に進んでしまう。そうい うことがあるのではないでしょうか。悔やんでも悔やみきれない経験をすることがあるのです。 もし人生がビデオテープのように巻戻せるものなら巻き戻したい、そういう思いに駆られるこ ともあるのではないでしょうか。  私たちは本当の意味で“分かれ道”に立つ十字架のキリストを必要としています。それは、 私たちが“分かれ道”に立ち“危機”に直面するとき、そこでこそ「主よ共にいて下さい」と 祈らざるをえないからです。私がどちらの道を選ぶべきか、主の導きを祈り、主の御心である 道を選べるように導きたまえと祈らざるをえないのです。十字架の主イエス・キリストにのみ、 私たちの人生の正しい唯一の指針があるのです。  そこで今朝の御言葉、ヨハネ伝12章36節から39節で、まず私たちは不思議な事柄に直面 します。それは「イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠 しになった」と記されていることです。これは主イエスの御生涯でしばしば現れている行動で す。主は群衆がご自分をイスラエルの「王」に祭り上げようとしているのを知られ、ただちに 人目を避けて野山に籠もられ、そこで深い祈りの時を過ごされたのです。 私たちの願いと主の御心との間には大きな違いがあります。私たちはいつも自分の幸福と満 足を人生の目標としますが、キリストはいつも、ご自分を犠牲となして全ての人を救うことを 願っておられます。私たちはいつも自分の願いや計画が実現することを求めますが、キリスト はいつも、ご自分の思いではなく父なる神の御心を行ないたまいます。私たちはいつもどうす れば自分が得するかを考えますが、キリストはいつも、何が私たちの救いと幸いかを知られ、 そのためにご自分の生命をお与えになるかたです。私たちの心とキリストの御心との間にこそ、 はっきりと“分かれ道”があると言わねばなりません。 それこそ私たちの「罪」に由来する“分かれ道”です。言い換えるならば、私たちの人生の 最大の“危機”は常に私たち自身の内側にあるのです。私たちの中にこそいつも最大の“分か れ道”が存在するのです。それはどのような“分かれ道”でしょうか。何よりも主の御言葉に よって明らかにされています。それが先週の12章36節の御言葉です。「光のある間に、光の 子となるために、光を信じなさい」と主がお語りになったことです。  主はここで私たちに「光を信じなさい」と言われます。信仰を求めておられるのです。この 「光」とは「すべての人を照らすまことの光」なるイエス・キリストのことです。つまり、私 たちが人生においていつも直面する最大の“分かれ道”とは「まことの光」なるキリストを信 じて歩むか、それともなお“罪”の「闇の内」を歩む者となるのか、その二者択一なのです。 キリストを信じキリストの御身体なる教会に連なって歩むのか、それともキリストを信じない ままなお罪の闇の内を歩むか、その厳粛な“分かれ道”に私たちは立たされています。  そしてそこでこそ、私たちが必要とし、否、いま現に私たちと共にいて下さるかたこそ、十 字架の主イエス・キリスト御自身ではないでしょうか。私たちはただ一人でこの最大の“分か れ道”に佇むのではないのです。そこに私たちと共にいつも十字架の主がいて下さるのです。 そして私たちの罪を贖って下さったのです。だからこそ、主は「光を信じなさい」と「信仰」 をお求めになるのです。  それは、言い換えるならこういうことです。あなたはどちらの道を歩むべきなのか、それを あなたが知らなくても良いのだと主は言われる。どちらを選ぶべきかあなたが分からなくても 良いのだと主は言われるのです。あなたはただ私を信じ、私にすべてを委ねなさい。それだけ で良いと主ははっきり語られるのです。そうすればあなたは、あなたの全存在を照らす「生命 の光」を見出す。そのときあなたはもはや「闇」に追いつかれることはない。そのように主は 言われるのです。「闇の中を歩く者は、自分がとこへ行くのかわかっていない」と主は言われま した。まさにそれこそ私たちの「罪」の姿です。しかし十字架の主を信じ、主の御身体なる教 会に連なり、礼拝者として歩むとき、私たちは人生の全体において、真の主がいつも共におら れ導いていて下さる恵みを知ります。それが大切な唯一のことです。それこそ主がいつも私た ちに求めておられる“信仰による新しい生活”なのです。  この“信仰による新しい生活”をさらに音書記者ヨハネは、今朝の御言葉において旧約聖書 イザヤ書53章1節以下の御言葉を引用して語ります。ヨハネ伝12章38節以下です「それは、 預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、『主よ、わたしたちの説くところを、だれが信 じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか。』」。そしてヨハネは39節にこ う語るのです「こういうわけで、彼らは信じることができなかった」。  このイザヤ書53章の御言葉は何を語っているのでしょうか。この部分は「苦難の僕の歌」 と言われ、イザヤがキリストの十字架の出来事を預言している御言葉です。「主よ、わたしたち の説くところを、だれが信じたでしょうか」とイザヤは言います。この「わたしたち」とは、 主なる神と、イザヤ自身のことです。神に召され、預言者とされて、ただ神の御言葉のみを語 るイザヤの「説く」言葉。すなわち来るべき真の救い主・十字架の主イエス・キリストの御業 をさし示す福音を、誰一人として信じようとはしなかったと言うのです。ここにイザヤは改め て、人間の罪による神との断絶の深さに慄いているのです。  しかし、イザヤが説く福音はそれだけに留まりません。たとえ私たちの“罪”という断絶が どんなに深いものであっても、主なる神はその断絶をものともせず、愛する独子イエス・キリ ストを私たちの救いのため、まことの自由と平和のために、与えて下さったかただということ。 神の御子みずから私たちの歴史のただ中にいらして下さったということ。その驚くべき恵みを 明らかにするのがイザヤ書53章なのです。とりわけ大切なのは4節の御言葉です。「まことに 彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った」。そして5節にはこうあります。「彼は みずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒 されたのだ」。  ここに私たちは何を見、また何を告げ知らされているのでしょうか。それこそ私たちの最大 の“分かれ道”すなわち私たちの底知れぬ“罪”のただ中に、真の唯一の救い主として来て下 さり、私たちと常に共にいて下さる十字架の主の御姿なのです。まことに「闇の中を歩く者は、 自分がどこへ行くのか」わからずにいます。しかし「すべての人を照らすまことの光」なるキ リストがその“分かれ道”で私たちと共にいて下さるとき、私たちはもはや行先を知らぬ放浪 の民ではありえません。私たちの全生涯を通してキリストの愛が輝くからです。そこにキリス トの導きと真実が現れている。私たちの人生そのものが、共にいて下さるキリストの恵みによ って、神の栄光を現すものに変えられてゆく。その幸いと喜びを共有する群れとして私たちは ここに招かれているのです。私たちだけではなく、世にある全ての人々を主は御自身の御身体 なる教会に、復活の喜びの生命の光の中に招いておられるのです。「光の子となるために、光を 信じなさい」と語っておられるのです。  パスカルという人は、この「光なるキリスト」に従う生活を“恵みへの飛躍”と呼びました。 私たちには“飛躍”が必要です。しかし闇雲に飛躍するのではありません。そこにははっきり とした主の招きの御声が響いているのです。だから私たちは安心して身を投げかけることがで きます。私たちは十字架の主キリストに向かってみずからを投げかけるべく神に招かれている のです。それが“恵みへの飛躍”ということなのです。それこそ使徒パウロが言うように、私 たちはキリストの恵みのもとにあるとき、もはや「空を打つような拳闘はしない」のです。私 たちがみずからの全存在を投げかけても、決して私たちを失望させることのないかたが、私た ちを招いておられるからです。  ある人はこう言いました。私たち人間が生きることと死ぬこと(つまり人生の全体)は譬え て言えば、真暗闇の飛びこみ台から下に何があるかわからぬままに飛びこむようなものだ。下 水を張ったプールがあるという保証はどこにもない。自分を受け止めてくれるものがある保証 はどこにもないのだと言うのです。しかしまさにそのような私たちの人生にはっきりと御声を かけていて下さる唯一のかたがおられる。そしてそのかたが私たちの全存在を慈しみの御手に しっかりと受け止めていて下さる。それをはっきりと語るのが今朝の御言葉なのです。 「われを信ぜよ」との主の御声に従い、ペテロは水の上を歩いて主のほうに歩いてゆきまし た。しかし波風を見て怖くなり、主の招きを疑ったとき、溺れて沈みそうになりました。その とき主はしっかりとペテロの手を捕えてご自分に引き寄せて下さり、「なぜ疑ったのか、信仰の 薄い者よ」と言われました。主がペテロの(私たちの)手をまずしっかりと捕えていて下さる のです。「信仰の薄い者」とは「主が幾つもある者」という意味です。私たちが主キリスト以外 のものを「主」とするとき、私たちは溺れてしまうほかありません。しかし主の慈しみの招き に自分を委ねるとき、必ず主の御手が私たちをしっかりと支えて下さいます。私たちは神との 断絶である“罪”を、自分の力では如何ともなしえません。しかし十字架の主が私たちの無力 のただ中に(分かれ道に)お立ちになって招いていて下さいます。「さあ私に向かって、安心し て飛躍しなさい。私にあなたの存在の重みを全て委ねなさい」と主は言われます。  主は私たちの罪の重みを、すでにあの十字架においてことごとく受止めて下さったかたです。 神の御子みずから私たちの不義を身に受け、私たちの病を負われ、あの十字架にかかって下さ った。聖なる神ご自身が私たちのあらゆる悲しみ、その罪の重みの全てを、十字架において担 い取って下さった。その恵みの御業の確かさこそ私たちの救いと生命の確かさなのです。その 救いと生命の確かさこそ教会の確かさなのです。主はまことに、その十字架の御苦しみと死に よって“われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれを癒して下さった”ので す。私たちはこのかたを信じて「恵みへの飛躍」ができるのです。  今朝の御言葉に出てくる群衆は、主イエスを「キリスト」(神の御子)と信じることをしませ んでした。言い換えるなら「罪」という名の恐るべき断絶を自分たちの力で埋めようとしたの です。最も大切な人生の決断において選ぶべき道を誤ったのです。そこに共におられる主、私 たちのために祈りたもう主、十字架を担っておられる主を見ようとはせず、主が手を広げてお られる所に飛躍しなかったのです。先ほどのパスカルはこれを一つの“賭け”に譬え「それは 全く考えられないほど愚かなことである」と語っています。詳しくはこう言うのです。「神は存 在するか、それとも存在しないか、その確立を五分五分として、神がおられないことのほうに 自分の人生を賭けることは、全く考えられないほど愚かなことである。なぜなら、神がおられ ない所には百パーセント救いはありえず、逆に、神がおられるほうには百パーセントの救いが あるからである。私たちには神に向かって飛躍する以外の選択はありえない」。  そのとおりではないでしょうか。それ以上に私たちはすでに主の御約束に与っているのです。 エペソ書5章8節「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。 光の子らしく歩きなさい」。なぜなら私たちは、主がなして下さった御業を知っているからです。 「彼は(キリストは)われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれた のだ」。それゆえ私たちはいま、主の御手にみずからの人生の全体を投げかけます。十字架の主 にあるがままの私たちを飛躍させたいと思います。主は必ず受け止めて下さるのです。