説    教    詩篇139篇7〜12節  ヨハネ福音書12章34〜36節(a)

「光あるうちに」

2009・10・25(説教09431295)  私たち人間は、物事を正しく見ているようでいて、実は正しく見てはおらず「わか っている」と思っていても、実はわかっていないことのほうが多いのではないでしょ うか。大切な判断をするときにも、自分の思いこみや偏見を「正しい」と思いこんで いることが多いのです。公平な偏りのないまなざしを持つことは、実は人間にとって いちばん難しいことなのです。ましてや生ける聖なる神との関わりにおいて、私たち はどれほど多くの誤りをおかしているでしょうか。見るべきものをいかに見ておらず、 聴くべき御言葉をいかに聴いていないことでしょうか。  今朝の御言葉、ヨハネ伝12章34節以下に、主イエスを取巻く大勢の群衆の“つぶ やき”の声が出てきます。人々は主イエスの御言葉を正しく聴く耳を持とうとはせず、 自分たちの勝手な思いだけを主イエスにぶつけるのです。34節です「すると群衆はイ エスにむかって言った、『わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きてお いでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばな らないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか』」。ここで人々が 主イエスに尋ねているのは2つのことです。第一に「“人の子は上げられねばならない” とは、どういう意味なのか」。第二に「その“人の子”とは、いったい誰のことをさし ているのか」ということです。  ユダヤの最も大切な宗教行事である“過越の祭”に集まった諸国の巡礼者でエルサ レムは賑わっていました。その中に「主イエスにお目にかかるために」はるばる遠い 道をやって来た「数人のギリシヤ人」たちがいました。主イエスを「神の子・救い主」 と信じ告白し、主イエスにお会いするために来た人々です。それは主イエスが“栄光” をお受けになる(すなわち十字架にかかられる)「時」が来たことの“しるし”でした。 今こそ主イエスは全世界の罪の贖いのために十字架への道を登りたもうのです。  ところが大多数の群衆はその“しるし”に気がつきませんでした。神殿を埋め尽く した群衆の中で、わずか数名の異邦人(ギリシヤ人)がまことのキリスト告白者(キ リスト者)であったのです。さらに群衆に対して父なる神の御声が響きました「わた しはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。主イエスは言 われました「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである」。 さらに主は「わたしがこの地から引き上げられる時には、すべての人をわたしのとこ ろに引きよせるであろう」と約束して下さいました。それが先週の32節の御言葉です。 続く33節にはこうも記されています「イエスはこう言って、自分がどんな死にかたで 死のうとしていたかを、お示しになったのである」。  その「死にかた」とは十字架です。信ずる全ての者の「救い」です。しかし今朝の 御言葉の大勢の群集は、主がお示しになった「(救いの)しるし」も主の御言葉をも少 しも正しく見聴きしていませんでした。主イエスを「十字架の主・救い主」と信じて いないのです。ただこの世の「王」として自分たちに都合よく祭り上げようとしてい るだけでした。だからこそ人々は不思議に思って尋ねたのです。どうしてあなたは「人 の子は上げられねばならない」と言われるのか?。また、その「人の子とは、いった い誰のことなのですか」?。  主イエスはこれらの人々の(私たちの)的外れで自分勝手な疑問にも、限りない愛 と慈しみをもって応えて下さいます。それは「光のある間に、光の子となるために、 光を信じなさい」というお答えでした。この御言葉によって主イエスは私たち全ての 者を御自身の「光」の中へと招いておられるのです。それが今朝の御言葉の中心であ ります。 「光」とは私たちが物事を「見る」ために絶対に必要なものです。単なる自然の光 (肉体の視力)のことではありません。主イエス・キリストを信じ、十字架の贖いに よって罪が赦され、神の前に義とされ、主の教会に連なる者のみが、「まことの光」の 内を歩むことができるのです。言い換えるなら、キリストを信じてはじめて私たちは まことの「光」に照らされた者となるのです。私たちの視力が問題にされているので はなく、主イエスという「光」を信じて歩むか否かが問われているのです。「光のある 間に、光の子となるために、光を信じなさい」とは信仰への招きなのです。  深海に棲む深海魚や洞窟に棲む両生類などは、目が退化してしまって「見る」こと そのものができなくなります。同じことが私たち人間の世界にも起こってはいないで しょうか。創造主にして救い主なるまことの神に叛き、神から離れた生活をしている うちに、私たちこそいつのまにか罪の闇に慣れてしまって、神を見る心の「目」が退 化しているのではないでしょうか。まさにその退化した私たちのまなざしが世界の至 るところでさまざまな争、分裂、混乱、対立を生み出しているのではないでしょうか。  主イエスが十字架にかかられる直前のこと、イスカリオテのユダに手引きされた群 衆が手に手に武器を携え主イエスを捕えに来ました。そのとき弟子の一人であるペテ ロが隠し持っていた剣を抜き、大祭司の僕マルコスなる人物に切りかかり、その片耳 を削ぎ落しました。主イエスはペテロを叱って言われました。「汝の剣をさやに収めよ。 剣を抜く者は剣にて滅ぶべし」。そして傷ついたマルコスの耳に手をあてて癒して下さ ったのです。その出来事の様子を記したルカ伝22章52節以下にはこうあります「そ れから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、『あな たがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。毎日あなたがたと一緒 に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、 やみの支配の時である』」。  特に大切なのはこの最後の53節です「今はあなたがたの時、また、やみの支配の時 である」と主イエスは言われました。直訳するなら「今はあなたがたの時で、闇がそ の力を奮っている」という意味です。この「あなたがたの時」とは「私たちの時」す なわち「私たちが中心になって支配する時」という意味です。そして人間の存在は「時」 と「空間」と「体」という三次元で成立っていますから、これはすなわち「私たちが みずからの内に存在の根拠を持つ生活」という意味になるのです。  「私たちがみずからの内に存在の根拠を持つ生活」とはどういう生活でしょうか。 それはどんなに豊かで意味あるように見えても、ついには自らの罪の重みによって押 し潰されてしまう生活です。数式に譬えるなら、括弧で括られた人生の全体にマイナ ス記号が付いているようなものです。括弧の中身が大きくなればなるほどマイナス(虚 しさ)も大きくなるだけです。あるいは沈んでゆく船の上でご馳走を食べたりダンス したりするようなものです。あるいはこうも譬えられるでしょう。真暗な部屋の中に いる人は自分の姿も周りのものも何も見えません。「光」に照らされてこそはじめて自 分の姿や周囲のものが見えるのです。同じように、自分自身の中にだけ存在の根拠を 持ち、神に持たない生活は、ついには自分自身をも人生の目的も、また世界の意味も、 虚しなるほかはないのです。  主イエス・キリストは、そのような闇の支配する生活から私たちを解き放ち、まこ との「光」の中に招いて下さる唯一の救い主です。主は今朝のヨハネ伝8章12節に明 確に言われます「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩 くことがなく、命の光を持つであろう」。そして同じヨハネ伝12章46節にはこうも語 られます。「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのう ちにとどまらないようになるためである」。既にヨハネ伝は最初の1章9節において、 キリストこそ「すべての人を照らすまことの光」であることを示しました。この「す べての人を照らす光」とは、主イエスという「まことの光」を信じて救われない人は 一人もいないという意味です。言い換えるなら「まことの光として世に来られた」主 イエスを信じる者はもはや、自分自身の中に存在の根拠を持つことなく、神の限りな い愛と恵みと祝福の中に存在の根拠を持つ者となるのです。  そのとき、私たちの生活はどのように変えられてゆくのでしょうか。それは今朝の 12章35節とは逆の生活になるのです。「やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのか わかっていない」。「自分がどこへ行くのかわからない」とは、人生の意味も目的も何 もわからないということです。しかし主イエスを信じ主イエスの復活の身体なる教会 に連なって歩むとき、私たちの生活は根本から変えられます。「自分がどこへ行くのか わからない」生活ではなく、キリストの導きと愛の内を歩む新しい希望の人生が造ら れてゆくのです。それは主イエスが「すべての人を照らすまことの光」としていま来 ておられるからです。  それならば今ここで、私たち一人びとりに主が求めておられることなんでしょうか。 それこそ「光のある間に、光の子となるために、光を信じ」ることです。なによりも 主は言われます「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある 間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい」と。しかし私たちは「もうしば らくの間」と聞いて戸惑うのです。「光」であるキリストは永遠に私たちと共におられ るかたではないでしょうか。そのとおりです。主は永遠に変わらず私たちと共におら れます。疑う余地はありません。しかし私たちの人生は永遠ではないのです。だから 「光のある間に」とは私たちの生命ある間にという意味です。永遠であられる主イエ スと地上において共にある「今この時」に「光」でる主イエスを信じ、教会に連なる 者となりなさい、そのように神は私たちに求めておられるのです。  「光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい」。私たちは自分の人 生を振り返って「日暮れて、道なお遠し」という思いを抱くのではないでしょうか。 やり残したこと、なすべきこと、なさねばならないことはまだ数多くある。しかし生 命は容赦なく日没に近づいてゆくのです。「闇」に追いつかれそうになるのです。では 主イエスはここで「急ぎなさい」「早くしなさい」と私たちの歩みを急かしておられる のでしょうか。「闇」に追いつかれる前に目的地に着きなさいと語っておられるだけな のでしょうか。そうではありません。主イエスがここではっきりと私たちに求めてお られることは「光の子となるために(いまあなたは)光を信じなさい」ということで す。信仰への招きなのです。ここでもキリストに対する「信仰」が問われているので す。私たちが何をして来たかとか、何をやり残したかとか、そういうことは主の御前 では全く問題になりません。むしろ主はこう仰っておられる。たとえあなたが何一つ として、この世で「為しえた」と思えるものがなくても、それで良いではないか。「日 暮れて、道なお遠し」であっても、それで良いではないか。  私はあなたと共にある。私があなたの全存在を照らす。私の「光」に照らされると き、あなたはもはや「闇」に追いつかれることはない。あなたはそのあるがままに「光 の子」とされている。神の愛する「光の民」とならせて戴いている。それこそが大切 な唯一のことだと主は言われるのです。なぜなら、主イエスのみが私たちを支配する 「罪」という名の闇に打ち勝つ「まことの光」であられるからです。このかたのみが 私たち全ての者の「罪」を担って十字架にかかって下さったからです。それゆえ詩篇 139篇の詩人はこう歌いました「『やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ』 とわたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あ なたには、やみも光も異なることはありません」。  まことに、主を待ち望む者、主に贖われた者、主を信じ、教会に連なって生きる者 の歩みのみが「闇」に追いつかれることはない「光の子」の歩みなのです。主イエス みずから何の功もない私たちを恵みの光によって照らし、導いて下さいます。もはや 罪と死はいかなる支配の権も持ちえず、私たちは今ものちも永遠までも主の恵みの御 支配のもとにあり続けるのです。エペソ書5章8節を心にとめましょう「あなたがた は、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」。