説     教   ホセア書11章1〜9節   ヨハネ福音書12章31〜33節

「キリストの愛」

2009・10・18(説教09421294)  「『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そ して、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせ るであろう』。イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示 しになったのである」。  今日の主日礼拝において私たちはこの大切な御言葉を与えられました。主イエスはま ずここに「今はこの世がさばかれる時である」と告げておられます。これを原文に即し て直訳しますと「今こそ世に対する神の正しい審きが行われる」という意味になります。 「今こそ世に対する神の正しい審きが行われる」。これを主イエスは私たち全ての者に対 する“救いの福音”として語っておられるのです。  今から五百年以上も昔、中世ヨーロッパでガリレオという人がはじめて地動説を唱え ました。それまで誰もが考えていた「宇宙の中心は地球である」という考えに真向から 対立する「地動説」をはじめて提唱したのでした。星の軌道を観測するために自分でレ ンズを作って天体望遠鏡を作った。そして毎日熱心に天体の軌道計算をしているうちに、 どう考えても地球が太陽の周囲を回っていると結論せざるをえなくなった。その結果を 本にまとめて世に発表したところ、それはカトリック教会の権威に反する異端の教えだ ということで、ヨーロッパ社会全体を揺るがすほどの大騒動になったわけです。  たちまちガリレオはローマ教皇庁の異端審問会にかけられ、公の場で学説を撤回する ことを求められました。ガリレオは天文学者ですから教会を敵に回したくなかった。し かし「それでも地球は回っている」と申しまして、真理は変わらないことを明言したの でした。誰がどう言おうとも真理は真理なのであって、それを曲げることはむしろ人間 が真理によって「審かれること」なのです。人が真理を審くのではなく、真理が人を審 くのです。  主イエスは今朝の御言葉で「今はこの世がさばかれる時である」と言われました。昔 のイスラエルの律法では、誰かがある人を「審く」場合、かならず複数の証人が必要で した。この形は現代の裁判制度にも受け継がれています。それなら主イエスが「この世 が審かれる」と言われるとき、主イエスと共にその証人となるかたとは誰でしょうか?。 それこそ主なる神(天の父なる神)にほかならないのです。なによりも主イエスの御言 葉は父なる神の御心を世に現すものです。それは私たちにとって真理そのものであり、 神ご自身がその「証人」なのです。それなら主イエスが福音の真理(救いの御言葉)を 語られるとき、そこには「今こそ世に対する、神の正しい審き」があるのです。  そこでこの「神の正しい審き」とは、いったい何でしょうか?。私たち現代人は小賢 しいものですから「審き」と聞くとすぐ否定的な反応をするのです。たしかに「人が人 を審くこと」には否定的な響きがあります。裁判員制度の難しさもそこにあるわけです。 公平な正しい審きが人間に可能であろうかという問題です。しかし主イエスが「神の正 しい審き」と言われるその「審き」は違います。それは真理そのものである福音が私た ち全ての者の「救い」のために世に現わされたことなのです。それを主イエスは「審き」 という言葉で告げておられるのです。何が審かれるのか、それは私たちを捕えていた「罪」 と「死」が主イエスの十字架によって「審かれる」のです。主イエスは私たちを「罪」 と「死」の支配から贖い「救い」と自由を与えめるために「正しい審き」を十字架にお いて行われるかたなのです。「神の正しい審き」とは実に私たち全ての者の「救い」の出 来事なのです。  それは譬えて言うなら、すぐれた外科医が患者の病気を手術によって取り除くような ものです。手術はある意味で身体に「審き」を与えることです。患者に痛みと傷を与え ることです。それが「かわいそう」だからと言って必要な手術を行なわない外科医がい たなら、その医者は患者の治療を放棄しているのです。それと同じように、主なる神は 私たちを限りなく愛しておられるかたですから、私たちが「罪」と「死」という病巣に 侵されていることを絶対に見過ごしにされません。その「罪」と「死」に対して決定的 な「正しい審き」を与えたまいます。私たちの最も恐ろしい「罪」という名の病巣を「正 しい審き」によって取り除いて下さるのです。それがまことの「神の愛」なのです。  これはたとえば子供の教育にも通じることです。本当に子供を愛する親や教師は、そ の子供(生徒)が正しい道を離れて悪い道に行こうとしているとき決して見過ごしにし ません。その子供を愛するゆえに「正しい審き」を行うのです。愛する子供を厳しく叱 って正しい道に引き戻そうとします。それは子供の側から見れば厳しい「審き」にしか 見えないかもしれません。しかしそれはその子供の成長に必要な「審き」なのです。  最近は子供を上手に叱れる親が少なくなっているような気がします。言い換えるなら それは、必要な「正しい審き」とそうでない「審き」を区別できる大人が少なくなって いるということです。それは根本的には主なる「神の愛」の「審き」を知らないところ から来ているのです。いっけん自由奔放に見えるアメリカの子供たちは家庭では日本よ りずっと厳しい躾を受けています。それは社会全体がキリスト教の基礎の上に成り立っ ているからです。「正しい審き」のない社会は決して人間を自由にせず幸福にしないとい うことを知っているのです。私たちはどうでしょうか?。主イエスの「正しい審き」を 私たちは信仰をもって受け止めているでしょうか。  今こそ私たちは正しく聴き取らねばなりません「今こそ世に対する神の正しい審きが 行われる」と主が宣言して下さり、十字架において実行して下さったことを。何よりも それは主イエスがこの世に来られたことです。そして私たちと共に歩まれたことです。 そして私たち全ての者の「罪」を担って十字架への道を歩まれたことです。言い換える なら、本来は私たちが受けねばならなかった「神の審き」を主イエスが私たちのために 身代わりとなって担って下さったことです。それがあの十字架の出来事(苦しみと、死 と、葬り)なのです。主イエスはご自分の十字架の御苦しみと死をおさしになって「今 こそ世に対する神の正しい審きが行われる」と宣言して下さったのです。  私たちは自分が神の前に決して立つことのできない「罪人」だと弁えているでしょう か。「罪人」という言葉を軽々しい社交辞令にしてはいないでしょうか。私たちが「罪人」 であるとは謙遜の言葉などではないはずです。私たちは「神の正しい審き」がなければ “永遠の滅び”に陥るほかない存在なのです。讃美歌258番に「世にある人みな、力の かぎりに、いそしみ励みて、正しく生くとも、聖なるみかみの、恵みを受くるに、たれ かは足るべき」という歌詞があります。宗教改革者ルターが愛唱した讃美歌です。私た ちは本当にそう思っているでしょうか。私たちの救いは私たちの中には少しもなく、た だ神の御子イエス・キリストの十字架にのみあるのです。  この十字架の恵みにより、主ははっきりと宣言して下さいます「今こそ、この世の君 は追い出されるであろう」と。「この世の君」とは人間を「神の愛」に叛かせ遠ざけてい た「罪」の支配のことです。使徒パウロもエペソ書6章12節でこう語っています「わ たしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世 の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」。「血肉」とは“人間”という意 味です。私たち主の教会に連なる者たちは人間に対する戦いを挑むのではないのです。 私たちの戦いの相手は常に「罪」と「死」の支配であり、その支配に対して主イエス・ キリストが決定的に勝利しておられる。この主の勝利に連なる群れとして全力を尽くし て礼拝者として生き、生命の御言葉の糧にあずかり、キリストの愛と恵みの主権のもと に生き続けるのです。それこそ私たち教会に連なる者たちの挑むべき「戦い」なのです。  だから主はさらにこう仰せになります「そして、わたしがこの地から上げられる時に は、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。これはなんと慰めに満ちた御 言葉でしょうか。主イエスが「地から上げられる」とは十字架の死と葬りと復活に続く 昇天の出来事です。つまり私たちの救いのために主が担って下さった御業が完成したこ とです。主が救いの御業を終えられて天の父なる神のみもとに帰られる。そのときそこ に驚くべき救いの出来事が全世界に現われると言われるのです。それこそ主が「すべて の人をわたしのところに引きよせるであろう」と約束なさったことです。主は父なる神 のみもとから「聖霊」をお遣わしになって、この世界のいたる所に御自身の復活の御身 体である“教会”をお建てになるということです。  主イエス・キリストの救いの御業は2000年の昔に行なわれた過去の出来事ではあり ません。今ここに現れており、これからも永遠に続く、教会における聖霊の御業なので す。聖霊において現臨したもうキリストによって私たち一人びとりが復活の勝利の主イ エス・キリストの救いの御業にあずかる者とされているのです。だからこの「すべての 人」とは、キリストを信じ告白して教会に連なる「すべての人」という意味です。ヨハ ネ伝3章16節を想い起こします「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛し て下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。  主イエス・キリストにおいて現わされた神の崇高な愛を示すために、使徒パウロは“ア ガペー”というギリシヤ語を用いました。あるドイツの学者(キッテル)によれば、こ の“アガペー”というギリシヤ語は新約聖書以外ではほとんど使われていない非常に珍 しい言葉だそうです。エロースやフィリアといった従来の「愛」という言葉では表わし えないものがキリストにおける「神の愛」(アガペー)なのです。それは相手に価値があ るから愛する愛ではなく、たとえ相手に価値がなくても、それどころか相手が自分にと って敵対する者(罪人)であっても、その価値なき者を価値なきままに極みまでも愛し、 その人のために自分を献げる愛、それが聖書の語る“アガペー”(キリストにおける神の 愛)なのです。  よく私たちは愛の理想像として「無償の愛」ということを言いますが、実は人間には 「無償の愛」というのは本当には無いのです。私たち人間の愛は相手に愛するに足るだ けの価値があるから生ずる“受身の愛”でしかないからです。だからその価値が無くな れば愛も冷えるのです。しかしキリストの愛は違います。キリストは私たちになにひと つ価値がなくても(罪によって神に叛いていた私たちをも)そのあるがままに愛してご 自分の全てを与えて下さいました。そのことによって私たちにかけがえのない価値を与 えて下さったのです。それが“アガペー”なのです。  主は私たち罪人をその極みまでも愛して、御自身の全てを献げて下さいました。神の 愛に叛いたイスラエルの民を、その叛きの罪にもかかわらず極みまで愛して下さった神 の真実を知った預言者ホセアは、自分の生涯を通して神に仕え神の栄光を現わす僕へと 変えられてゆきました。神は叛く者をその叛きの罪あるがままに愛して下さいました。 罪人である私たちをそのあるがままに愛し受け入れるとき、その愛は大きな「痛み」を 伴うのです。愛することによって自分が傷つき、砕かれ、破れるのです。相手の死をも 自分の身に担うのです。それが私たちに対する主イエスの愛なのです。  主イエスは、御前に立ちえざる私たちのために、あの呪いの十字架を負うて下さいま した。そこで御自身が徹底的に傷つき、破れ、血を流し、葬られる者となって下さいま した。そこに私たち全ての者の救いがあります。だから今朝の御言葉の最後の33節は こう語るのです。「イエスはこう言って、自分がどんな死にかたで死のうとしていたかを、 お示しになったのである」と。主イエスの「死にかた」とは十字架以外の何ものでもあ りません。私たちに対する限りない愛のゆえに、まことに主が永遠の滅びとしての死を 御自分のものとして下さった。その主の死によって私たちはいま救いにあずかり、贖わ れ、甦らされて、主の復活の御身体なる教会に連なり、神の愛の内を歩む者とされてい るのです。