説    教    列王記上19章9〜13節   ヨハネ福音書12章29〜30節

「御言に養わる」

2009・10・11(説教09411293)  今朝、私たち一人びとりに与えられた御言葉はヨハネ伝12章29節と30節です。「すると、 そこに立っていた群衆がこれを聞いて、『雷がなったのだ』と言い、ほかの人たちは、『御使 が彼に話しかけたのだ』と言った。イエスは答えて言われた、『この声があったのは、わたし のためではなく、あなたがたのためである』」。 そもそもの事柄はむしろ単純なことでした。主イエス・キリストが十字架を目前されてひ とつの祈りを献げられた。他の福音書では“ゲツセマネの祈り”として記されている祈りで す。その主イエスの祈りに応えて、天から父なる神の厳かな御声が響きました。28節後半の 御言葉です。「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。 ところが主イエスと共にいた群衆は、その神の御声をひとつの“音”としては聞いたものの、 御言葉だとは思わなかったと言うのです。つまり意味を理解できなかったのです。それで人々 は今の“音”は何だったのだろうと勝手な解釈を始めました。「あれは雷が鳴ったのだ」とい う人もあれば「いや天使が主イエスに語りかけたのだ」と言う人もいました。  私たち人間はこのように、聞いているようでいて実は聞いていないということがよくある のではないでしょうか。「目あれども見ず」「耳あれども聞かず」ということがあるのではな いか。私などよく経験しますが、書斎で本を読んだり説教の準備をしているとき、妻がすぐ そばに来て私に話しかけお茶などを置いてゆく。私はそれに全く気が付かず、気がついた頃 にはお茶が冷めているということがよくあります。この場合はお茶が冷めているで済みます が、それが主なる神の御声であったなら問題は深刻なのではないでしょうか。  では、神の御声を「雷が鳴ったのだ」と解釈した人々は、御言葉をどのように解釈したの でしょうか。それは、神の御言葉というものは自然現象において現わされるのだという考え かただと言えるでしょう。そもそも日本語の“雷”という言葉も“神が鳴る”という語源か ら来ているのです。ドイツ語のバッハのカンタータにも「雷、そは神の御声」という歌詞が あります。雷にかぎらず雄大な自然現象の背後に神の啓示(神の意志)を見ようとする立場 は古代からありました。山を見ても海を見ても空を見ても、そこに人間を超えた大きな力の 働きを認め、それを“神”と名づけて崇める。そのような自然崇拝的な神認識は全世界のい たる所にありますし、今日もなお大きな勢力を持っているのです。  第二に、主なる神の御声を聞いて「天使が主イエスに話しかけたのだ」と解釈した人々は どうでしょうか。これは最初の人たちとは少し違うようです。少なくとも自然現象と神とを 同一視する立場ではありません。しかしよく考えますと「御使」(天使)というものもやはり 神が造られたもの(神の被造物)です。その意味において両者は同じ次元に立つものだと言 わねばなりません。ただ両者の違いは、自然現象そのものを崇拝するのか、それとも自然を 超えた目に見えないものを崇拝するかの違いがあるだけです。マックス・ヴェーバーの言う “合理化された自然観”が「御使」(天使)という超自然的な形をとったにすぎません。  そこで、この神の御声に対する2つの異なる解釈には、実は私たち人間が理解しがたい出 来事や大きな苦しみに直面したときに取る、2つの代表的な考えかたが現れていると言える でしょう。第1の考えかたは「自然に帰ることが人間の救いである」とする考えかたであり、 第2の考えかたは「自然を合理化することが人間の救いである」とする考えかたです。  まず第1の考えかたですが、これは自然との調和や一致を「救い」だとする東洋的な考え かたです。日本の神道や古代信仰に見られる思想です。「罪」とは自然を破壊することである。 自然は神聖な清いものだから、これを壊したり変えたりしてはならない。つまり人間の理想 は自然と調和し一致した生活にあるという考えです。しかしこれをそのまま実践すると、理 想的世界すなわち原始的世界であるということになり、科学技術を根本的に否定することに なるのです。極端な話、電気もガスも水道もガソリンも使えないということになる。病気の 治療もできなくなる。木を伐って家を建てることもできなくなる。これは非常な無理があり ます。  では第2の考えかたはどうでしょうか。これは自然を合理化する西洋的な考えかたです。 ある意味で現代文明というものは自然を合理化して成立っています。空気より重いものが宙 に浮くはずがないとは単純な自然理解ですが、航空力学の計算に基けば何百トンもある飛行 機が空を飛ぶことができる。遠く離れた人間どうし会話が成立つはずはないけれども、衛星 通信によって地球の裏側とも会話ができるようになる。わずか数グラムのウラニウムで何千 万世帯もの電力を生み出すことができる。これらはすべて自然を合理化し技術を発展させた 結果であると言えます。  そこで、この2つの立場はいっけん正反対のように見えますが、実は「自然の中に人間の 救いを見いだす」という点においては同じなのです。ただ自然に帰るかあるいは自然を合理 化するかの違いがあるだけです。するとどうなるのでしょうか。はたして自然の中に私たち の本当の「救い」があるでしょうか。答えは“否”です。自然の中には決して私たちの「救 い」はありません。それは譬えて言うなら私たちが自分で自分を持ち上げることができない のと同じです。世界の中に世界を保つ力はなく、歴史の中に歴史を救う力はなく、自然の中 には自然を完成させる力はないのです。私たちと世界の「救い」はただ、主なる神の御言葉 にのみあるのです。  だからこそ主イエスは、これら2つの立場を堅持しようとする人々にはっきりと言われま した。「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである」と。私たち は神を見いだし神に近づく道をいろいろな所に尋ね求めようとします。自然の中に、あるい は自然を合理化することの中に…。しかしそのどちらも真の神へと私たちを導くものではあ りません。主イエスは言われました「わたしは道であり、真理であり、生命である」と。主 イエスはここに、まず「わたしは道である」と言われます。「わたしは真理である。そのわた しに出会うために、まずあなた自身が道を探しなさい」と語っておられるのではないのです。 まず最初に「わたしは道である」とはっきり言われるのです。その上で「わたしは、真理で あり、生命である」と言われるのです。  私たちは、まことの神の「救い」を戴くために、その道を知らない世界(自然)の中に放 置されているのではないのです。そうではなく、自然も含めてあらゆる被造物をお造りにな り、愛と慈しみをもって導いておられる主なる神の御子イエス・キリストによって、今や私 たちはまことの「救い」なる神を知り、神に立ち帰り、神を信じ、礼拝する者とならせて戴 いているのです。宗教改革者カルヴァンは「まことの神を知ることは、すなわち、その神を 愛し、礼拝することである」と言いました。まことの神を知ることは、そのまことの神が私 たちのこの罪の世界を、御自身の御子イエス・キリストをお与えになったほどに愛して下さ った、その限りない愛を知ることです。そしてまことの神の限りない愛を知ることは、今や その愛の中に私たち自らが生かされている幸いを知ることです。この神の愛を知るとき、私 たちはもはやこのかたに対して中立であることはできません。それこそカルヴァンの言うよ うに、心からこの神を愛し礼拝を献げざるをえないのです。それがまことに神を知るという ことです。すなわち神に栄光を帰することです。  そこで、今朝の御言葉をもう一度ふりかえってみましょう。人々は主なる神の御声に接し てそれが全く理解できず「雷が鳴ったのだ」と言ったり「天使が彼に話しかけたのだ」と言 ったりしました。この両者ともにいちばん肝心なことが抜けているのです。それは、主なる 神の言葉を解釈することはしても、それを自分自身への語りかけとして、つまり福音として 聴いてはいないということです。彼らのまなざしは神がお造りになった自然には向けられて いても、創造主なる神には向けられていなかったのです。彼らの耳は自然の作り出す“音” を聞いてはいても、神の“御声”を聴いてはいなかったのです。そこには新しい生活は生ま れてこないのです。人間の「救い」はないのです。  だからこそ、主イエスは彼らに対して、否、ここに連なる私たち一人びとりに、あなたは 何を聴いているのかと改めて問うておられます。「この声があったのは、わたしのためではな く、あなたがたのためである」と仰せになるのです。主なる神はいつでもあなたがたに御言 葉(救いの福音)を語っておられるではないか。神の御言葉は主イエス・キリストにより、 そして聖書により、そして教会の説教によって、いつもあなたに宣べ伝えられているではな いか。世界を創造されたかた、万物を導いておられるかた、全ての人を我が子のごとく愛し んでおられるかたが、あなたといつも共におられるではないか。この主なる神の御声の前に、 誰が態度を保留しておられましょう。誰が中立の立場でおられましょう。誰が解釈するだけ で済むでしょうか。  私たちはいつも聖書の御言葉と御言葉の説教をみずからへの“福音”として聴き取る者と されています。それが主の御身体なる教会に連なる私たちの御言葉の聴きかたなのです。何 よりも信じる者とされています。預言者イザヤは申しました「もしあなたがたが信じないの なら、立つことはできない」と。「立つことはできない」とは人間たりえないということです。 主なる神の御声を聴きそれを信じてはじめて私たち人間は人間としての歩みをなしうるので す。自然と一致することでも自然を破壊することでもなく、それをお造りになり万物を御心 に適って統べ治めておられる主なる神の御声を聴いてこそ、はじめて私たちは健やかな社会 を、人間の生活を、そしてめいめいの人生を建て上げてゆくことができるのです。「もしあな たがたが信じないのなら、立つことはできない」とはそういう意味です。  最も古い時代のイスラエルの預言者エリヤの生涯における、大切な転機となった出来事が 今朝あわせてお読みした列王記上19章9節以下に記されています。アハブ王の迫害を逃れ 40日40夜かけて神の山ホレブに至った預言者エリヤは、ある洞窟の中で驚くべき恵みの経 験をいたします。それは神の御声を正しく聴く者とされたことでした。主なる神は、洞窟に 引きこもり恐れ慄くエリヤに「さあ、出て、山の上で主の前に立ちなさい」と命じられます。 そのときエリヤの前を、すさまじい風が吹き荒れ、その風によって山が倒れ岩が砕けますが、 その風の中に主なる神はおられなかった。風の次に大地震が起こります。しかし大地が覆る ようなその大地震の中にも主なる神はおられなかった。地震ののちに灼熱の炎がエリヤを襲 います。しかしその炎の中にも主なる神はおられなかった。  これら全てが去ったあとで、聖書はこう語ります「静かな細い声が聞こえた」と。「静かな 細い声」触れるがごとく、たおやかな優しい恵みの御声をもって、エリヤの心に直接に主な る神はお語りになったのです。その御声を聴いたときエリヤは立ち上がってホレブの洞窟を 出て、アハブの偽預言者たちに決然として対決する道を選ぶのです。風によっても、大地震 によっても、灼熱の炎によっても、エリヤは「(神の前に)立つ者」とならなかったのに、た だ「静かな細い御声」(キリストの福音)だけが彼を立ち上がらせ、真の喜びと自由、平和と 幸いと祝福を担う栄光の務めへと駆り立てたのです。  それは、私たちにとっても同じではないでしょうか。私たちに求められていることも、何 にもまして「静かな細い御声」(キリストの福音)を聴く者として今ここに堅く立つことです。 主なる神の御言葉をみずからの「救い」(生命の御言葉)として聴き、受けいれ、信ずる者と なることです。ただそのことによってのみ私たちは神に愛されているかけがえのない人格と して、喜びと自由と勇気と平安をもって世の旅路へと「立ち上がって」出てゆく者とされる のです。どのような戦いの中にあっても主の平安に支えられた者とされるのです。今日のこ の礼拝にあたってまず私たちはこの志において一つの群れとされたく思います。その志とは、 いつも主なる神の御声を正しく聴き、その御声に養われ導かれてゆく僕となることです。エ リヤのようにその御声によって立ち上がり歩む者となることです。「この声があったのは、あ なたがたのためである」と主は言われました。この「ため」とは全ての者の「救い」と永遠 の生命のためという意味です。「救い」とは罪の支配から、キリストの恵みの御支配のもとに 移されることです。「永遠の生命」とはまことの神との永遠の交わりに生きることです。  それならば、全ての人々がこの御声を聴く者として、いま主の教会に招かれているのです。 主なる神の御声によって、福音によって、死の身体から甦り、父・子・聖霊なる神との永遠 の交わりの喜びと幸いへと全ての人が招かれています。この幸いを主イエス・キリストにあ って知る者として、この新しい一週間も主の喜びたもうまことの教会を建ててゆくために、 あらゆる労苦を共に担い、祈りを合わせて励んでゆく私たちでありたいと思います。