説    教    イザヤ書9章1〜7節  ヨハネ福音書12章27〜28節

「救いの御名」

2009・10・04(説教09401292)  主イエス・キリストが十字架にかかりたもう「時」が迫っていました。特にヨハネ 伝の12章から19章には十字架の死に至るまでの僅か数日間の出来事が記されている のです。その切迫した「時」の中で、主は愛する弟子たちに今朝の12章27節の御言 葉を語りたまいます。すなわち「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おう か。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時 に至ったのです。父よ、み名があがめられますように」と言われたのです。  この御言葉は「わたしは心が騒いでいる」に始まり「父よ、み名があがめられます ように」で終わっています。これは主イエスの「祈り」そのものでした。主イエスの 御言葉はいつもただ神の御心を語るものであり、私たちを罪から救い新たな生命に甦 らせる“福音”そのものです。だからそれはいつも「祈り」しかも「父よ、み名があ がめられますように」との讃美告白で終わりました。主イエスにおいては“御言葉” と“祈り”との区別はありません。「御言葉」即「祈り」であり「祈り」即「御言葉」 なのです。  それにしても「今わたしは心が騒いでいる」と主が語られたことは弟子たちを動揺 させました。弟子たちの目には主がご心痛のあまり平常心を失っておられるように見 えたからです。実際「心が騒いでいる」とは、ギリシヤ語の元々の言葉を直訳するな ら「非常に苦しんでいる」という意味です。主はここに初めて御自身の御苦しみを明 らかにされたのです。さらに続けて主は「わたしは、なんと言おうか」と言われまし た。それは「呻き」であり、弟子たちにとって生涯忘れえぬ厳粛な言葉でした。筆舌 に尽くし難い十字架の御苦しみを主は明らかにされたのです。  私たちの人生にも、そういうことがあるのです。もちろん主の十字架には較べるべ くもありません。しかし私たちも耐えがたい苦しみに出遭ったとき言葉を失うのです。 それこそ「わたしは、なんと言おうか」と言って呻く経験をするのです。苦しみが言 葉を圧倒するのです。言葉は心の結晶です。しかし心が圧倒的な苦しみに打ち倒され る時、どのような言葉も心の結晶とはならず、呻くほかはなくなるのです。苦しみが 私たちの生活を覆い尽くしてしまうのです。  しかしそこで、なお私たちに与えられている言葉がある。私たちが語りうる唯一の 言葉がある。そのことを今朝の御言葉ははっきりと示しています。それは“祈り”の 言葉です。実は私たちは逆なのではないでしょうか。私たちは人生に降りかかるいろ いろな苦しみの中で真先に“祈り”の言葉を失ってしまうのです。神の愛と導きの御 手を見失ってしまうのです。“苦しい時の神頼み”ならまだしも良い、私たちの本当の 問題は“苦しい時の神忘れ”になってしまうことにあるのです。  それならば、主イエスはまさにそのような私たちのために、あらゆる言葉を失わせ る大きな苦しみのただ中で、私たちのために父なる神に「祈り」を献げて下さいまし た。主の御言葉が“祈り”そのものであるように、主の歩みは私たちを極みまでも愛 する“十字架の歩み”なのです。ジョン・オーマンというイギリスの神学者が「世界 と私たちの唯一の救いは主の十字架にのみある」と語っています。私たちのために主 がまず十字架を担って下さったのです。私たちの罪の確かな贖いを成遂げて下さった のです。だからこそ私たちはあらゆる苦しみの中にあって、なお“祈り”を失わずに 済むのです。「わたしは、なんと言おうか」と呻くとき、ただ主が共にいて下さるので す。それは主が私たちの全存在を御手に受け止めていて下さる恵みです。その事実こ そがパウロの語る「あらゆる苦しみの中にある人々を慰める言葉」なのです。  コリント人への第二の手紙1章3節です「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・ キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中 にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていた だくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにし て下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、 わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである」。  この「慰め」と訳されたもとの言葉は“かたわらに立って支える”という意味です。 主が私たちの「かたわらに立って支えていて下さる」恵みを知り、その恵みに立つこ と、それが私たちの「慰め」なのです。だからキリストの苦難が私たちに「満ちあふ れている」とは、キリスト御自身が、倒れるほかはない私たちの全存在を根底から支 え受け止めていて下さるということです。そのような「慰め」を十字架の主から戴い ている私たちは、同じように「あらゆる患難の中にある人々を慰める」ことができる 者とされていると言うのです。それは私たちが「あらゆる患難の中にある人々」にキ リストの愛と祝福を告げる者とされていることです。人を真に生かしめる「慰め」は 私たちの内にではなく、ただキリストの内にあるからです。  そこで、私たちの「慰め」の根源である“キリストの祈り”を今朝の12章27節は このように告げています。「父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたし はこのために、この時に至ったのです。父よ、み名があがめられますように」。これこ そキリストの“祈り”でした。私たちはここにあの“ゲツセマネの祈り”を思い起こ すのです。十字架にかかられる前の晩、主は弟子たちと共にゲツセマネの園に行かれ、 そこで「血の汗」を流して祈られました。その祈りはマルコ伝14章36節によればこ うでした。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯を わたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままに なさってください」。  ところが、主が祈っておられるあいだ「目を覚まして祈っていなさい」と言われた 弟子たちはみな主の言いつけに叛いて「眠っていた」と記されています。パスカルは パンセという本の中でこう語っています「われらの主イエス・キリストは世の終わり に至るまで御苦しみの内にありたもう。その間われわれは眠ってはならない」。私たち はどうでしょうか。私たちこそ主が私たちのために十字架を担って祈っておられるあ いだ「眠っている」ことはないでしょうか。 この「眠っている」とは“主イエスを見ていない”ということです。主が共におら れる恵みを見ていないことです。主が献げる「祈り」に心を合わせることなく、むし ろ「眠りたい」という自分の願い(求め)を第一にしている私たちの姿があるのです。 それは十字架の主に向かって罵声を浴びせ、唾を吐きかけた群衆の姿となんの変りも ないのです。主はいま御体なるこの教会を通して全世界の救いのために苦難を負うて おられます。それこそパスカルが語るように、いま私たちの信仰は眠っていてはなら ないのです。教会に結ばれて私たちは主イエスにまなざしを注ぎ、十字架の主を信じ 告白する群れであり続けねばなりません。  主は私たちの救いのために十字架という苦難の「杯」を最後の一滴まで飲み尽くし て下さいました。「わたしの思いではなく、みこころのままに」と祈られたのです。私 たちは逆の生活をしています。「御心ではなく、私の願いのとおりになりますように」 と祈っているのです。そこでこそ大切なことは、まさにそのように私たちが「眠って いる」あいだに、主は救いの御業を成遂げて下さったことです。私たちはみずからを 救ういかなる力も持ちえない“怠惰な僕”にすぎません。しかしその“怠惰な僕”に すぎない私たちの「救い」を、主イエスは私たちが「眠っている」あいだに成遂げて 下さったのです。ここに私たちの完全な唯一の救いがあるのです。  それならば、私たちがこの十字架の主に対してなすべき務めは何でしょうか?。今 日私たちは一人の姉妹の洗礼の喜びを共にしました。一人の姉妹が御言葉によって信 仰を告白し、イエスを「わが主」と信じて洗礼を受け、葉山教会員となり、主の民に 加えられたことは全てにまさる大きな喜びです。洗礼準備の学びの中で、改めて心に 留めたことがあります。それは洗礼が主の恵みに対する応答だということです。それ なら私たちもまた“主の恵みに応える者”としてここに立てられているのではないで しょうか。疲れて眠ってしまう時もあるのです。弟子たちのように「誘惑に負ける」 ことが私たちにもあります。しかし大切なことは、その時にも主が変わりなく私たち と共にいて下さり、十字架を担っておられるという事実です。  それならば、私たちが主に対してなすべき務め、それは私たちのあらゆる弱さのあ るがままに、十字架の主のみを仰ぎ、主の御手に自分を投げかけることではないでし ょうか。27節によれば主は「わたしはこのために、この時に至ったのです。父よ、み 名があがめられますように」と祈って下さいました。「このために」とは十字架のこと です。「この時に至った」とは「私たちの罪の贖い(救い)の時がいま来ている」とい うことです。そして主は祝福と勝利を宣言して下さいました「父よ、み名があがめら れますように」と。この十字架の主の祝福と勝利(罪の贖いと永遠の生命の恵み)に、 私たちはあるがままに受け入れられているのです。だから私たちは主に自分を明け渡 します。私たちの全生涯を通じて主の御業が現わされ、主の愛が証されることを、心 から祈り求める僕とされています。私たちが「眠りから覚めるべき時」がいま来てい るのです。人は十字架の主に応答して生きるとき、本当に自由な存在になります。洗 礼を受けて主の教会に連なる歩みこそ、真の自由と幸いに生きる人生なのです。  主イエスが背負われたのは、ただの苦しみではありません。私たち全ての者のあら ゆる罪の重みを全て背負われて、主は十字架への道を歩んで下さいました。ドストエ フスキーは「人間の中に無限の滅びがある」と言いました。それなら主は全ての人の 「滅び」をご自分に引き受けて下さったのです。それが「今わたしは心が騒いでいる」 と言われた御苦しみなのです。まさにこの御苦しみを担われたかたとして、主は「父 よ、み名があがめられますように」と祈られました。私たちは“主の祈り”を思い起 こします。「御名を崇めさせたまえ」の次には「御国を来たらせたまえ」「御心が天に なるごとく、地にもなさせたまえ」と続きます。主イエスの十字架こそ神の御国(神 の恵みの永遠のご支配)を私たちのただ中に実現するものです。天においてと同じよ うに、いま私たちのただ中にも神の御業が現れているのです。まさに主は「このため に、この時に至ったのです」と語って下さいました。私たちを極みまでも愛して御自 分の全てを献げ、私たちの全存在・全生活・全生涯を祝福し、倒れるほかはない私た ちを常に「かたわらに立って支え」て下さるのです。教会によって私たちを永遠の生 命に与からせ、今も後も永遠までも勝利の民として下さるのです。  今朝の御言葉の終わりにあるのは父なる神のお応えです。「すると天から声があった。 『わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう』」と。「わ たしはすでに栄光をあらわした」とは、父なる神が御子イエス・キリストを通して私 たちに確かな「救い」を与えて下さったことです。私たちに対する限りない神の愛が、 御子イエスの御業に余すことなく現れていることです。その御業は過去の二千年前の ものではありません。「すでに」現された父なる神の救いの御業は「更に」現わされて ゆくのです。いま私たちが連なる教会を通して主がいま救いの御業をなしておられる のです。それこそがここで「更にそれをあらわすであろう」と約束されている「栄光」 すなわち私たちの罪の贖いという「救い」の御業なのです。  今日、その“救いの御業”に一人の姉妹が洗礼によってあずかりました。同じよう に私たち一人びとりもまた、主が共にいて下さる新しい生活へと遣わされていること を覚えます。感謝と讃美をもって主にお応えする日々を歩んで参りたいと思います。